四、搩の神
爛れた頰が泡立ち、新たな皮膚がこけた頰と禍々しい歯を覆い尽くす。
豊穣の神は崖下を見下ろし、くたびれた人間のように首を回した。
「
「豊穣、聞こえてるぞ」
苦々しい声が背後で響いた。穐津が宮木を背に庇いながら倒木を乗り越えて歩んできたところだった。
「豊山さん、ありがとうございました」
会釈する宮木に豊穣の神は獰猛な笑みを返す。
「俺に感謝していいのかよ」
「本質は何であれ、助かったんですから行動には感謝します」
「真面目だなあ」
穐津が眉を顰めた。
「終わったのか……?」
「どうだかなあ。あの坊やはもうちょっと遣り手に思えたが……」
豊穣の神がシャツのポケットから煙草を取り出す。炎が燻った瞬間、天を裂く雷鳴が轟いた。
崖下から突出した枝の塊が豊穣の神の姿を掻き消す。煙草が地面に転がり、血飛沫が火種を潰した。
「豊山さん!」
宮木たちの眼前に大樹が聳えていた。
茂る葉はそれ自体が雷雲の如く白光を纏っていた。枝が擦れ合うたび、小さな稲妻が走る。
舞い散る火花の中、木の幹に捩じ込まれた豊穣の神が見える。脇腹は鋭い枝に刺され、磔刑を受けた罪人のように血を滴らせていた。
「豊山さんが……!」
「あれで死んだら苦労はしない。すぐ戻ってくるだろうけど……あいつが対抗できないなら逃げるしかない」
不穏な稲妻と共に男の声が響く。
「逃すと思うのか」
穐津は宮木の腕を掴んだ。
「走ろう」
駆け出した宮木たちの足元を電光が打つ。崖が削られ、山肌が露出した。
空中に浮遊した泥が一瞬で煮立つ。
宮木は険しい傾斜の坂道を走りながら叫んだ。
「穐津さん、これじゃ逃げ切れません! 対抗手段を見つけないと! 神の名前と詳細がわかった今なら……」
「付け焼き刃だよ」
「住民が巻き込まれるよりマシです!」
「あの神が住民を巻き込むかな」
「自分を隠すために調べに来たひとたちまで取り込んだんですよ!」
穐津は首を横に振った。
「宮木さんは駄目」
「何故ですか?」
「危ない」
一際激しい雷鳴が鳴った。穐津は咄嗟に宮木を突き飛ばす。電光が穐津を包んだ。
「穐津さん!」
彼女の姿が紙片のような塵となって消える。
宮木が振り返ると、搩の神が深緑の髪を靡かせて佇んでいた。
「終わりだ、人間」
宮木は毅然と視線を返す。枝がへし折れる音が響き、聳える巨木を白いものが突き破った。
「浮気はよくねえな、愛妻家」
豊穣の神が獣の如く搩の神に飛びかかる。
「まだいたか!」
雷光の鞭が空を切った。
豊穣の神は額を裂かれながら、大樹の幹に着地する。鋭い牙には食い違った枝がぶら下がっていた。額と薄い脇腹から夥しい血が流れた。
「豊山さん……」
豊穣の神は視線で合図する。宮木は一気に駆け出した。
搩の神は呆れたように息を吐いた。
「しぶとい奴だ。先にお前を殺し切らねばならんようだな」
四本の腕が宙を掴むように拳を握る。無造作に走った電撃が巨木ごと地面を破砕した。
森が震撼し、天地が反転する。
豊穣の神は爆風に弾かれて木々の間を突き抜け、舗装された山道へ飛び出した。
クラクションが鳴り響く。バスのフロントガラスと引き攣った顔の運転手が視界に飛び込んだ。
「おっと」
豊穣の神は空中で身を翻した。バスが大きく尻を振って急カーブを切る。豊穣の神は車体の中央に叩きつけられ、窓ガラスを破って車内に飛び込んだ。
乗客たちの悲鳴がこだました。豊穣の神は吊り革を掴んで勢いを殺し、優先席の背に立つ。
「失礼」
老女が震える声で叫んだ。
「あんた、何なの! 大丈夫なの!」
「大丈夫じゃなくなりそうだなあ」
平然と呟き、豊穣の神は破れた車窓の向こうを眺める。
「ご乗車の皆様、落ち着いてください。只今停車し、状況の確認を……」
子どもの鳴き声や、運転手がスピーカーで怒鳴る声が反響する中、再び雷鳴が響き出した。
「止まらねえ方が賢明だぜ。いや、もう遅えか」
減速したバスの窓が深緑で覆われる。緑の闇の中、触手のような枝が窓ガラスを粉砕し、車内に雪崩れ込んだ。
乗客の絶叫は即座に消えた。後には慟哭する人々の顔に似た洞を浮かべた枝が残るだけだった。
豊穣の神は車内を蹂躙する木々を食い千切り、破れた天井から外に出る。
「見境ねえな、坊や。人間の癇癪みてえだ」
搩の神が鋭い眼光を返した。
「私は我が妻と夫婦になると誓ったときから神としての性は捨てた。ひとならば多少の不条理も起こすものだろう」
「俺に一発食らわせる実力があるってのに人間に喩えられて嬉しいのかよ。見てらんねえなあ」
「私を認めたつもりか。そうは見えん態度だな」
「そんなら、こっちのがいいか?」
豊穣の神は雷撃で焦げた血肉の滴る前髪を搔き上げる。
「爾も元は我と同ぜむなものなりけん。何じょうそこまで堕ちたるか」
先程までの俗悪な響きは欠片もない、霊峰の洞窟から聞こえるような言葉だった。
搩の神は雷光じみた薄青の目を見開き、やがて首を振った。
「……認めたくはないが、お前の言う通り同じだっただろう。ただ自らの在り方に翻弄されるだけの神だった。だが、彼女だけは私に心があると信じ、願いを託してくれたのだ。私が真に受けた祈りは後にも先にもあれひとつだった。私はそれに応えよう」
豊穣の神は何重もの歯を鳴らし、嘲笑った。
「……神とは善しも悪きも無くただ凄まじき者。ただひとりに添う者にあらじ。いわんやひとにその性を定むべからずや。然れど、今の爾はさなりしためしを喜べり。是豈に神の性ならんや!」
***
獣じみた笑い声が山中に響く。
宮木は泥に足を取られながら、破壊された道を進んだ。
「あった……」
倒木の間に、朽ちかけた古い看板が埋もれていた。木板は少し力を込めれば砕けそうなほど腐り果てている。宮木は掠れてほとんど読めない筆文字に目を凝らす。
「傑の神……」
宮木は素手で泥を掻き分けた。
––––片岸さんならもっと賢い方法が浮かんだだろう。烏有さんならもっと優しい方法が浮かんだろう。
「ふたりがいなくてよかった」
––––あの神を殺せるのは私しかいない。
宮木は看板を拾い上げ、両手に力を込めて左右に引き裂く。
「桀」の字を記した木板が崩れ、後には人偏だけが残された。
「人間だったなら食べられるんですよね」
宮木は雷鳴と哄笑が轟く方へ、看板の残骸を掲げる。
「豊穣の神、貴方に贄を捧げます」
***
搩の神は巨大な軟体生物のようにうねる枝を見下ろした。
「お前こそ堕ちた神ではないか。数多の罪なき贄を喰らいつつ、私から逃げ回る程度の力しか持たぬとは。もう恥を晒さずとも良いようにしてやろう」
四つ腕が振るわれる。
雷鳴の代わりに響いたのは、くぐもった呻きだった。
搩の神はひとつの手で口元を押さえる。女のような細指の間からどす黒い血が漏れ落ちた。
青白く透ける目が見開かれ、自らの身体を見下ろす。
緑と白の打掛の腹は丸く抉られ、千切れた背骨と肉が露出していた。
赤黒い丸穴から、白髪の男の姿が覗く。
「逃げ回っちゃいねえよ。これでよく見えるだろ」
搩の神が振り返るより早く、天地が鳴動した。
上下から刀の束が生えたように何重もの歯が迫り来る。
「堕ちた神にも敬虔な信者がいたらしいぜ。お前を捧げてくれたんだ」
豊穣の神は笑い、自身の薄い腹を撫でる。
「よかったなあ。これからは夫婦水入らずでずっと一緒だ」
歯の檻が閉塞し、搩の神をすり潰す。血の怒涛が噴き上がった。
宮木が森を抜けると、豊穣の神は顎にマスクをぶらさげ、煙草を吹かしていた。
「宮本、よくやったなあ」
「宮木です。わざと間違えてますよね?」
「まあな。神に名前を取られたらろくなもんじゃねえぞ」
宮木は曖昧に頷き、土に混じる血の跡を見つめた。
「倒したんですか?」
「何と言えばいいかねえ。俺が食ったのは奴の人間の部分だ。神としての部分は残ってるかもな。まあ、今までみてえなことはしねえだろうよ」
血でぬかるむ泥を踏み越えて、穐津が現れた。宮木が顔を綻ばせる。
「穐津さん、よかった!」
「私は大丈夫。豊穣、お前……」
「俺は人間の願いに応えただけだぜ。神らしくな」
穐津は哀しみに耐えるように項垂れた。
「だから、言ったんだ。宮木さんは危ないって」
「私は、ですか?」
「今の宮木さんを見てると、たまに神義省にいた頃を思い出す。あの頃知った人間の汚さも、悍ましい神への失望も覚えてるから当たり前かもしれない。でも、怖いんだ」
「穐津さん……」
「いつか、神を封じるために神を利用したひとたちみたいになってしまわないかって」
宮木は穐津の色素の薄い瞳を見つめ返した。
「大丈夫ですよ」
「本当に? 神を利用した人々の末路を私は知ってる。烏有さんもそう。私は宮木さんにそうなってほしくない」
「大丈夫です。私は嫌なものだけじゃなく、人間の優しさも、助けてくれた神様たちのこともちゃんと覚えていますから」
「そう……」
「私が間違ったら止めてくれる穐津さんも烏有さんもいるじゃないですか。それに、父も今何も知らず幸せに生きてる片岸さんたちだっています。道は踏み外しませんよ」
穐津はやっと安堵したように口元を緩めた。
宮木はその後に浮かんだ言葉を言わなくてもよかったと思う。
––––もし、自分が神すらも支配下に置けると錯覚してまっても、その驕りを嘲笑い、無力を思い知らせて全て終わらせてくれる神もいる。
煙草を吸い終えた豊穣の神は宮木に視線をやると、全て見透かした笑みを隠すように、マスクを押し上げた。
「とっとと帰ろうぜ。次の飯も探さなきゃならねえしな」
「お前少しは取り繕ったらどうだ」
「まあ、今回は豊山さんに助けられたんですから。穐津さんもどこかで食事にしましょう」
ひとと神の上で大樹が揺れる。
雷鳴が響くことはもうなく、静かな木々のざわめきだけが広がった。
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