三、搩の神

「やっぱり……」

 宮木は一歩後退り、唇を震わせる。


「おかしいと思っていたんです。伝説には、娘を生贄に捧げた家族の後日談が何もなかった。悪事を見張る神を教訓にするなら、彼らが罰を受けたなり改心したなり顛末が語られるべきです。それなのに、何もなかった」

「おかしいとこは他にもあるだろ」

 豊穣の神が平然と答える。


「あの話で御神木を見つけた奴らが名をつけたってとこだ。元からそういう木だったからそうはならねえ」

「生贄の娘の願いを受けて神の姿が変わったということですか……?」

「だったら、前と比べてどうなったかって話になるだろ。そうじゃなかったのは、比べられなかったからさ。昔を知ってる奴らが軒並み消えちまったからな」

「まさか……」

「雷で焼き払われたって人影、本当に悪霊だったのかね」


 豊穣の神はマスクの下からでもわかるほど口角を上げた。

「齧ってみてわかったぜ。あの木の幹には老人も子どもも男も女も、いくつもの筋が混じってやがった。娘ひとりじゃねえ。百はくだらない数の人間が呑まれてるだろうな」


 木々が風に揺れる音が漣のように周囲を埋め尽くす。穐津は奥歯を軋ませた。

「宮木さんの違和感の通りだ。搩は腕のような枝と残った桀の字の看板から連想された後付けの名前だったんだ」

「じゃあ、この神の本当の名は……」

はりつけの神、だろうね」



「それも昔の名だ」

 涼風と木々のざわめきに混じって、凛とした声が答えた。ここにいる誰のものとも違う、男の声だった。辺りを見回しても人影はない。


「上だ」

 大樹の上、深緑の雲のような生い茂った枝葉の間から双眸が覗いた。青白く光る瞳は雷電を凝縮したようだった。


 宮木たちがたじろぐ間もなく、巨木から何かが舞い降た。人型の影が地面に着地する。

 三者の前にいたのは、木々の色を映したような深緑の髪を持つ男だった。


 整った凹凸の面差しと滑らかな肌は、丹精に掘り抜かれた仏像を思わせる。薄い白の襦袢に青と緑の打掛を羽織り、草木と白む空を合わせたような出立だ。

 美丈夫にも見える姿だが、袖口から覗く四本の腕が彼を人ならざる者と語っていた。

 しなやかだが硬質な男の腕に、細く頼りない女の腕が重なっている。



「随分とまあ……」

 豊穣の髪がせせら笑う。四つ腕の男が不快そうに眉を顰めた。

「血生臭い。地獄の釜の蓋を開いたらお前のような匂いがするのだろうな。斯様な者を連れてくるとは……」


 青く透ける瞳が宮木を睨む。

「そこの人間、何する者ぞ」

「……貴方の調査に来ました」

「無粋な真似を。我が妻を奇異の目で物色することは許さん」

「そんなつもりはありません。私たちが知りたいのは貴方の本質です」


 男神は打掛の袖を広げ、四本の腕を組んだ。

「聞きたくば教えてやろう。私の本質は我が妻の祈りを全うすることだ」

「我が妻とは生贄にされた娘さんのことですか」

「左様。ひとに虐げられ、自ら命を投げ打った。ならば神が救うしかあるまい」


 神が口を開くたび、薄明の森に満ちるような冷気が押し寄せる。宮木は泡立つ肌を押し隠して答えた。

「貴方は先ほどここにいた男性を消しましたね。取り込んだというべきでしょうか」

「咎めるつもりか。あの男に生きる価値があるとでも」

「それを決める権利は貴方にも私にもありません」



 四つ腕の神は鼻梁を僅かに上げ、冷たい息を吐いた。

「我が妻が私の下に訪れたとき、私は贄を断った。私にそのような力はないと。彼女はそれでいいと言った。村や家族に命を懸けて尽くす気はない。ただ、この苦しい生から逃れられればいいのだと。そうさせてくれるだけで貴方は立派な神だと言った。儚げな身体を折って擦り切れた手を地について祈ったのだ。どうして見捨てられよう」

「だから、彼女を虐げた村人に復讐を?」

「それだけではない。二度と我が妻のような不幸な娘を生み出さぬ為だ。その為の神になると私は誓ったのだ」



「違うでしょう」

 穐津は短く呟き、大樹の元を指す。軟体生物のように絡んだ太い根の間には、カメラや三脚が組み込まれていた。

 宮木は目を見開く。

「これは……」


 搩の神は緑の髪の間から穐津を睨んだ。

「ひとかと思えばお前もか。随分と匂いが薄いものだ。まだ幼いな」

「私も貴方と同じだよ。ひとの願いから生まれた。貴方と違って何もできないけれど、貴方が語ってくれたおかげで輪郭が掴めた」

「何?」

「貴方は弱者を虐げる悪人だけじゃない。自らがそういう神として在るために、その秘匿を脅かす者たちまで取り込んだ。そうでしょう」



 穐津の視線が真っ直ぐに射抜く。四つ腕の神は眉間に皺を寄せ、重々しく告げた。

「幼き神よ。ならば、どうする?」

かつぎの神、貴方を放ってはおけない」

「それも昔の名だ。私は悪を裁く英傑として望まれた。今の名はすぐれの神」



 迅雷が言葉を掻き消した。

 緑の森を閃光が染め上げる。遅れて轟音が木立を揺らし、地面が捲れ上がった。


「宮木さん!」

 穐津が衝撃で飛ばされかけた宮木の腕を掴む。暴風が周囲を震撼させる。根本からへし折られた木々が次々と倒れかかった。


「めちゃくちゃだ……!」

 穐津は唇を噛んで上空を仰ぐ。大樹の元に佇む神は腕を組んだまま微動だにしない。豪雨のように降り注ぐ雷光が天地の境なく辺りを輝かせた。


 宮木と穐津は風に煽られながら森林を逃げ回る。

「このままじゃまずいです!」

「わかってる。でも、私には……」

 穐津は深く項垂れ、憎しみを押し殺すように奥歯を軋ませた。


「豊穣!」

「お前が俺に頼るのかよ」

 豊穣の神は笑みを零すと同時にマスクを外す。

「神なら祈りに応えなきゃなあ?」

 禍々しい花が咲くように、何重もの歯で覆われた口腔が開いた。



 大地の隆起と剥離に合わせて、豊穣の神が地を蹴った。

 白い旋風が雷光の中を跳ぶ。風は一瞬で搩の神に肉薄し、痩せた踵が虚空を裂いた。

「邪神が……!」


 間一髪で避けた搩の神の真横を蹴撃が穿つ。

 大樹の幹がみしりと軋み、中央が陥没した。飛び散った木片が雷に触れて炎を起こす。


「何処か邪神だよ。ひとのために戦ってやってるんだぜ」

 搩の神が打掛を翻し、四本の腕を伸ばした。下の二本に囚われる前に、豊穣の神は上の両腕を踏みつける。か細い腕に血が滲んだ。


「我が妻に触れるな!」

「触れやしねえよ」

 豊穣の神が牙を剥き出す。食らいつかれる寸前、搩の神は太い腕を跳ね上げた。


 無数の歯が腕を削り、緑髪の頭ごと齧りとる。

 反撃に放たれた稲妻が豊穣の神を弾き飛ばした。



 爆風に乗って木々の間を飛び、手近な大木の幹に垂直に着地する。剥き出した牙には引き剥がした木皮が絡まっていた。

「食わせるなら人間の部分にしてくれよ」

 豊穣の神は木片と唾を吐き捨てる。


 雷光と土煙で烟る先に、搩の神が佇んでいた。抉られた顔の右半分から蛸足のように樹木が生え、傷を修復する。搩の神は憮然として睨みつけた。

「ちったあ笑うなり泣くなりしろよ。嫁さんに愛想尽かされるぜ」

「我妻を使って愚弄するな」



 電撃が再び降り注いだ。豊穣の神は絶え間ない雷鳴の間を飛び、齧る瞬間すら見せず木々を切断して防壁を作る。


「お前のような悪神がひとを守るとはな。あの娘を逃すつもりか」

「俺はいつでも人間の味方だぜ。牧場主は家畜に愛を注ぐもんだ」

「大方あの人間も利用しているのだろう」

「人聞きの悪い……この騒音じゃ誰も聞いちゃいねえか」


 豊穣の神は倒壊する木々を足場に後退する。背後に泥を被ったスクーターが見えた。

 豊穣の神は痩せこけた脚で後輪を蹴り上げる。


 鉄塊が風を切って飛び、搩の神に迫った。

「くだらん」

 一条の稲妻が走り、スクーターを爆散する。漏れたガソリンに引火し、火球が炸裂した。



「人間の文明の力も利用しなきゃなあ」

 針金のように痩せた指が炎を突き破った。豊穣の神は炎が絡みつくのにも構わず、搩の神に接近する。四つ腕に焼けた鎖が絡みついた。


 燃え盛るスクーターから伸ばされたチェーンが搩の神を巻き取る。豊穣の神は焼け爛れた頰で笑い、剥き出しの歯を見せた。



 チェーンが回転する。黒縄地獄が顕現したように、燃える鎖が搩の神を森林の果ての崖へと突き落とした。

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