二、搩の神

 穐津は鈍行列車に揺られながら携帯端末を開いた。


 この世界になってからごく自然に存在していたものだ。神々に技術革新を妨害されていた前の世界では考えられなかっただろう。


 穐津は液晶の検索窓に文字を打ち込む。

 "くわすの神 悪神 祓う 呼び方"

 傍の宮木は苦笑を漏らした。

「タクシーじゃないんですから来てくれませんよ……」


 豊穣の神は座席で足を組んで笑う。

「やめとけよ。あのでんでん太鼓の紐が頭についた空飛ぶ毛玉じゃ俺には勝てないぜ」

「でんでん太鼓の紐じゃない、触角だ」

「昔邪魔しに来たんで齧ったが、桑の葉くさいわ鱗粉は喉に張り付くわで食えたもんじゃなかったな。思わず吐き出しちまった」

「お前……」

 穐津は苦虫を噛み潰したように左隣の男を睨み、被りを振った。


「宮木さん、あれから烏有さんは大丈夫だった? 悪神の気に当てられると具合が悪くなるみたいだ」

「まだふらついていたので父を呼んで送り届けてもらいました」

切間きるまさんが……」

「お父さん、『何故かコイツの世話をするのが初めてとは思えない』って首を捻ってましたよ」

 宮木がはにかむと、穐津もつられて小さく口角を上げる。


「よかった……いつか何かのきっかけで思い出すさかもしれない。それが幸せかはわからないけど」

「父と烏有さんの間に私の知らないいろいろなことがあったと思います。ふたりがちゃんと話せるときが来ればいいと思いますけど、烏有さんは同意しないでしょうね」

「うん。きっと、神に巻き込まれずに幸せに生きられる人生の方が真っ当だって言うと思う」

「そうですよね……」

 宮木は目を伏せ、窓ガラスに頭を預けた。


 二柱の神とひとりの人間を乗せた列車は先へと進んでいく。古風な赤い革張りの座席が、木の根を噛んだ線路の凹凸で大きく揺れた。



 三名が列車を降りると、無人駅の改札のすぐそこから鬱蒼とした木々が並んでいた。

 深緑の影が森全体を青みがかった色に見せ、冷たい風も相まって、どこか外界と隔絶されたような神聖な空気が流れていた。


 宮木は辺りを見回し、古びた木の看板に目を留める。


「桀、ですか……」

 穐津は隣に並び、掠れてほとんど読めない筆文字を睨んだ。

「桀といえば、古代中国、夏王朝の最後の皇帝だね。酒池肉林に溺れ、民草を殺した暴君として知られてる。誰かみたいだ」

「俺は肉しか好まねえよ。食う方だけどな」

 豊穣の神が肩を竦めた。


「穐津さんはこの神についても知っているんですか?」

 穐津は首を横に振る。

「世界が様変わりしてから、私の知らない神々がそこら中にいるんだ。たぶん神という概念自体が変わって、その多くが私の管轄外になってるんだと思う。役に立たなくてごめん」

「そんなことありませんよ! 実地調査が私たちの本分だったんですから。世界が変わってもそれは同じです」

「そうだね。やれることをやらなくちゃ」

片岸かたぎしさんに聞き込みを押し付けられた経験の活かしどころですよ! 看板の周りに手がかりがないか調べてきますね」

 宮木は小さく拳を握ったが、微笑みには微かな翳りが見えた。



 穐津はその背を沈鬱に見つめる。彼女の色素の頬を紫煙が撫でた。

 穐津は憂いを怒りに変えて傍を睨む。

「豊穣、山で煙草を吸うんじゃない。火事になったらどうする」

「村人が煙に巻かれて死ぬ前に楽にしてやるから安心しな」

 豊穣の神はマスクを下げて歯を見せた。

「俺はこの通り平等だ。信者も疑う奴も全部餌でしかない。だけど、お前はどうだよ。特定個人に神が入れ込んだら始末に負えないぜ」

「……今のは忠告か、それとも、ここの神に関するヒントのつもりか?」

「どうだか」

 穐津は眉間に皺を寄せ、纏わりつく紫煙から逃れるように踵を返した。



 古い写真のネガのように暗く薄ぼけた森道を進むと、木々の隙間から一際太い幹が見えた。

 穐津が細く息を漏らした。

「あれだ」


 三者は足を進める。

 宮木はパンプスの爪先に絡みつく泥を蹴った。この感触も懐かしい。いつも口には出さないが、有事の際に自分を庇えるようにと前を歩いてくれた片岸はここにいない。

 宮木は雑念を振り払うように歩みを早めた。



 視界が開けた先には、深緑の雲海を突くような巨大な樹が聳えていた。

 異様なのは大きさだけではない。幹は節くれて、所々の凹凸が人間の腹部や四肢のように見える。隆起した瘤と洞は無数の人頭が叫んでいるようだった。

 そして、葉に覆い隠された木の上部には、筋の浮いた硬い両腕と、細く頼りない両腕が重なり合ったような、四本の枝が左右から伸びていた。


 宮木は上方を仰ぎながら呟く。

「何というか、禍々しいですね……」

「うん。話によれば悪事を働いた記録はないけど、何故か不穏な感じがする」

 大樹は風に揺られてざわめきを返した。


 豊穣の神は無言で木を眺めていたが、唐突に根本に近づくと、牙を剥き出し、幹に食らいついた。

「何してるんですか! 御神体かもしれないんですよ!」

「だから、調べたんだろ」

 木々のざわめきが一層強くなった。枝葉の擦れ合う音が低い雷鳴のように響き出す。


 穐津が宮木の肩を掴んだ。

「行こう。こいつが雷に撃たれるのはいいけど、巻き込まれたらたまらない」

「神が鳴神の裁きを受けるかよ」

 豊穣の神は唾液で濡れた木の皮を吐き出した。



 三名は木から少し離れたところに退がり、報告書を開いた。

 宮木は細かい文字列を見つめて唸る。

「豊穣……豊山さんからだいたいのあらましは聞きましたが、ここの領怪神犯は搩の神と呼ばれるんですよね」

「今の人間も使う字か?」

「常用しませんね。担ぐとか手で物を測った仏教的な単位としても使われる字のようですが、この字と神の伝承はどうも重ならない気がするんです」


 穐津が首肯を返す。

「私も思っていた。神の名は体を表すものだよ。でも、搩の神には何かを担いだり測ったりした言い伝えはない」

「話によると、この神は生贄になった娘の願いに応えて村を守ったんですよね。やっぱりそぐわない気がします」


 豊穣の神は何重にも連なる歯に引っかかった木片を剥がしながら言った。

「宮本、何か思うところでも?」

「宮木です」

 穐津は肩を怒らせながら「こいつは人間個人への解像度が低いんだ」と口を挟んだ。


 宮木は目を瞬かせた。

「今の、正解かもしれません」

「最近改名したのか?」

「してませんよ。よく私の名字は宮本に間違われることがあったんです。印刷の掠れた書面では特に。あの看板も掠れて偏の部分が読み取れませんでしたよね?」

「ああ、昔からそうらしい。榤とか嵥とか、山に関連する言葉に繋げられてた時期もあったとか」


 宮木は報告書と睨み合う。

「桀がつく漢字だともっと馴染みのある字が思い付きましたけど、神の伝説と合わせるとそちらも結びつかないんですよね。さっき豊山さんが言った、雷と神罰も関連があるような……」



 急に森の向こうから男の怒声が響いた。

「いい加減にしろ、馬鹿が! 本当にノロマだな!」

 侮蔑と苛立ちのこもった声が木々にぶつかってこだまする。宮木たちは身を顰めた。


 木の根に足を取られてふらつきながら進んできたのは、髪がほつれ、やつれ果てた女だった。その後ろから急き立てるように男がついてくる。

 一見真面目そうだが、顔は怒りに歪んでいた。


「こっちは仕事を中断して来てんだぞ。稼ぎもしねえくせに邪魔ばっかりしやがって。誰が養ってると思ってんだよ!」

「もうすぐだから……」

「そればっかりじゃねえか!」

「あの木の近くにトラックで来たひとたちがゴミを捨てて……ここはもう貴方の土地だから困るかなと思って……」

「さっきも聞いたよ! まったく、土地が手に入るって言うからお前みたいな女と結婚したのに、ろくな価値もねえど田舎で、不法投棄まであるとはな」

「ごめんなさい……」


 宮木は穐津に囁く。

「夫婦でしょうか?」

「たぶん。あの旦那さん嫌な感じだね」

「はい……あの女性が言っていたゴミなんてありましたか?」

「私は見えなかったけど……」



 女は森を掻き分け、大樹の元へ進み出た。

「ここなの」

「ふざけんなよ、何もねえじゃねえか!」

 男は叫ぶなり、妻の横面を殴りつけた。枯れ木のように痩せた身体が地面に倒れる。

「俺を馬鹿にしてんのか!」

 殴打の硬い音が響き、血の滲んだ肉が裂ける柔らかい音に変わる。女は倒れ伏したまま衝撃の度に身を震わせた。


 宮木は唇を固く結ぶ。

「止めてきます」



 一歩踏み出した瞬間だった。

 森を引き裂くような雷鳴が轟いた。蒼白な光が辺りを眩ませる。

 宮木は思わず目を瞑った。


「宮木さん!」

 穐津の声に目蓋を開くと、稲妻は鳴り止み、森には神聖な静寂が戻っていた。

 宮木だけでなく穐津も喉を鳴らす。


 大樹の根元にいたはずの、妻を殴りつけていた男の姿がない。

 最初からいなかったように跡形もなく消えていた。


 唖然とする宮木たちの前で女が身を起こす。鼻から垂れた血と顔中の泥を拭い、彼女は嘲笑うように口角を上げた。

「さようなら、貴方」


 女は足を引き摺りながら悠々と森を後にした。

「あの男のひとが、消えた……?」

 宮木は辺りを見回す。彷徨った視線はある一点で止まった。

 豊穣の神が引き攣った笑いを漏らす。

「成程ねえ……」


 大樹の幹には先ほどまで存在しなかった新たな瘤が生えていた。

 檜皮色の節は微かに蠢いている。洞は慟哭を上げる目と鼻と口の形に見えた。


 歪な凹凸は、姿を消した男に似ていた。

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