【FA動画御礼】中、だいだいの神
俺は首筋を陽射しの嘴に啄まれながら、切間と並んで歩いた。
前を行く老婆は俺が熱中症になったと思ったらしく、家で休んでいけと言った。この暑さで割烹着と藤色の着物を着て、よくぶっ倒れないもんだ。
砂色の防波堤に沿って進むと、老婆が急に足を止めて海辺を見下ろした。
「あら、タケちゃん、カナちゃん」
老婆は飛び降りるんじゃないかと思うくらい防波堤から身を乗り出し、大きく手を振った。
俺と切間が真下を見下ろすと、砂浜の波打ち際で遊んでいた兄妹らしい、小学生くらいの男子と女子が顔を上げた。
麦わら帽子を被った少女は手を降り返し、俺たちに会釈までしたが、坊ちゃん刈りの生意気そうなガキの方はふいと顔を背けた。
「クソジャリがよ」
呟いた俺の頭を切間が小突く。老婆は顔中の皺を濃くして笑った。
「孫たちが遊びに来てるんです。ちょっと寄り道してもいいかしら。体調は平気?」
何故か俺の代わりに切間が問題ないと返した。
老婆は足の階段を降って砂浜に降り、切間が後を追った。俺も仕方なく切間に続く。薄い靴底から靴下に砂が入り込んで不快にざらつくのが想像できた。
浜辺に降り立ち、濡れた砂を踏み締めると、海岸が燦然と輝いた。
嫌々ついてきたが少しだけ気持ちが上向きになる光景だ。だが、切間は眉間の皺を隠していた。
いつも訳もなく険しい面をしているが、今は理由がある。余程海と故郷が嫌いなんだろう。
俺は切間の背をどついた。
「切間さん、サイダーでも奢ってくれよ」
「どういう話の脈絡だ」
「どうせ経費で落ちるんだろ。あの婆さんの家で休むはずが寄り道する羽目になったんだからさ」
「ガキかお前は。ひとしきり調査が終わった後だ」
切間は溜息を吐き、砂浜を歩き出した。表情は見慣れた程度の険しさに戻っていた。
唾液のように泡立つ白波を眺めていると、老婆がふたりの孫を連れてこちらへ歩いてきた。片手には砂でべとべとの籐の籠を提げている。
「ちょうどよかった。サイダーを冷やしていたんですよ。おふたりもよかったらどうぞ」
切間が「経費で落とさずに済んだな」と呟いた。
老婆は着物の袖が揺れるのも構わず籠を漁る。麦わら帽子の少女がさっと駆け寄って、老婆から瓶を取り上げた。
「お祖母ちゃん、重いでしょ」
「あら、ありがとうね」
坊ちゃん刈りの少年は後ろでモジモジしていたかと思えば、急に姉から帽子を取り上げた。
「武、返してよ!」
少女が追いかけるが、瓶を両手に持っているせいで帽子を取り返せない。少年は走り回って挑発する。
ついに少女は瓶を浜辺に置いて弟を軽く叩いた。
「ぶった! 最悪!」
少年は海に帽子を投げ捨てた。少女の方は弟と流される帽子を見比べて狼狽えている。
ろくでもないガキだ。ここはろくでもない大人の俺が出る幕だろう。
俺は少年に歩み寄って耳を摘んだ。
「悪いことしちゃいけねえな。何でかわかるか?」
「離せよ! 大人のくせに!」
「ああ、悪いことするとな、もっと悪い大人が出てくるんだよ」
ガキは顔を真っ赤にして大袈裟に喚いた。小さいくせに案外強い力で暴れる。
俺の手を振り払おうとする少年に蹴られながらどうしたもんか迷っていると後ろからデカい影が射した。
「おい、ガキども」
切間が太陽を背に俺を見下ろしていた。逆光で黒い肌がより黒く、鋭い眼光だけ浮き出して見える。さっきまで暴れていた少年が嘘のように静かになって抵抗をやめた。とんでもない迫力だ。今まで切間に追い詰められた犯人たちが哀れになった。
「烏有、離してやれ」
切間はそう言い捨てて、踵を返した。手にはいつの間にかずぶ濡れの麦わら帽子を持っていた。
俺が耳を摘んでいた手を離すと、少年は捨て台詞を吐いて逃げていった。
俺は裸足で蹴られて砂がついたアロハシャツを払って、元いた方へ戻る。
少女は切間から帽子を受け取り、礼儀正しく頭を下げた。切間の娘に似ているような気がした。
老婆が困った顔で微笑む。
「ごめんなさいね。あの子はやんちゃばっかりで……ユミちゃんにごめんなさいするまで、タケちゃんはサイダーはお預けね」
少女は濡れてしばらく被れそうもない帽子を胸に押し当てた。白い飾りリボンは取れて何処かに消えていた。
老婆は潮の跡が白い弧を描くサイダーの瓶を開けて俺たちに配る。瓶の口から柑橘類の匂いがして、井戸で見たものを思い出した。陽射しは熱いのに、背中が寒気で泡立った。
切間は礼を言ってサイダーに口をつけてから切り出した。
「先程見た井戸に関してですが、この村にはあれにまつわる信仰があるのですか」
「信仰なんて大したものじゃありませんよ。暮らしに根付いたものですからね」
「橙の実を落とす習慣はいつから始まったんです」
老婆は頰に手を当てて少し考える。
「先の大戦の直後だと思います。あの頃は若いひとが皆兵隊さんに取られて、村には年寄りや徴兵検査に受からなかったひとばかり残ったんです。このままじゃ村が潰れてしまうってことで、無病息災を祈って、藁にも縋る思いで始めたんですね」
追い詰められた村人の願いが神の形を捻じ曲げる。よくある話だ。この仕事についてから痛感した。
「でも、それから本当にこの村では病気も事故もなくなったんですよ。だから、感謝してお返ししなくちゃと思って」
「橙の実を落としているんですか」
「そうです。元々この村では夏蜜柑や檸檬がよく採れるんです。夏バテにも効くので神様の贈り物って皆大事にしてるんですよ」
切間は難しい顔をした。老婆の話が本当なら、別段悪いことは起こっていない。だが、悪くなくても異常なことは確かだ。本当に怪我人も病人も出ない村があり得るのだろうか。
暑さのせいもあって、考えがうまくまとまらない。俺は思考をやめて海を眺めた。
波は規則的にうねって、巨大な青い魚の腹のようだと思う。海に来たのなんか何年ぶりだろう。きっと家族四人が揃ってた頃以来だ。
老婆が俺の顔を見つめる。
「大丈夫ですか? まだ眩暈がしてるんじゃない?」
「ああ、いや、考え事を……」
「貴方にもお蜜柑を持ってこなくちゃね」
俺はふと思う。もし、俺が熱中症だと認めたら、この村で病人が出たことになるのだろうか。そうすれば、神が現れて何かしらしようとしてくるんじゃないか。
俺の考えを見透かしたように切間が睨む。悪ガキを一瞥で黙らせた視線だ。射抜かれるような気がした。
そのとき、海の方から叫び声がした。
穏やかだった波が急に高くなり、黒い壁のようにそそり立っていた。先程の少年が激しい回転に揉まれて浮き沈みしている。
「タケちゃん!」
老婆が叫ぶより早く、切間が駆け出した。切間はスーツのまま迷いもせずに波の巨壁に飛び込む。海が生き物のように押し寄せた。
「何やってんだよ、あんたまで呑まれるぞ!」
俺は仕方なく切間の方へ向かう。硬い波が砕けて散弾のような水飛沫が弾けた。
切間は腰の辺りまで水に浸かりながら、深い方へ進む。波の間から浮き出た少年の顔はさっきまでの憎らしさが嘘のように、幼い泣き顔に変わっていた。
切間は溺れる少年に手を差し出す。
「掴まれ!」
走る俺の視界の端に何かが映った。波打ち際に誰が立っている。
井戸の中にいた人間の二倍くらいある長い頭の老人だ。老人は髭に覆われた顔を哀しみに耐えるように歪めた。
直感で良くないことが起こるとわかった。俺はざぶんと海に浸かり、切間の腕を掴んだ。切間は俺を振り返る。
「烏有、手伝ってくれ」
少年が波に揉まれながら悲鳴をあげる。
「助けて!」
そのとき、一際大きな波が少年の頭を包み込んだ。
黒い海が小さな身体を覆い隠した。
「くそ……」
切間は更に深瀬へと進んで波を掻き分ける。おかしい。いくら波が高いとはいえ、こんな風に子どもの姿が一瞬で消えるものか。
砂浜で老人がまだこっちを見ている。不穏な気配が更に強くなった。
俺は咄嗟に切間の腕を揺する。
「あんたまで溺れたらしょうがねえだろ」
「そんなこと気にしてる場合か!」
「いいから、早く上がれ!」
「あの子が……」
俺は喉から声を振り絞った。
「領怪神犯がこっちを見てんだよ!」
切間が目を見開き、硬直する。先程まで荒かった海が嘘のように鎮まり、とぷんと波打った。静かに弾く潮が砂を浚う音だけが響く。
俺たちが海のど真ん中で立ち尽くしていると、老婆の声が響いた。
「おふたりとも、そっちに行ったら危ないですよ」
自分の孫が溺れたとは思えないくらい明るい声だ。隣の少女も申し訳なさそうな顔をするだけで、少しも慌てていない。
俺と切間は顔を見合わせる。
戸惑いながら浜辺に引き返すと、老婆が微笑みを浮かべた。
「まあ、ずぶ濡れ。ごめんなさいね、帽子のリボンひとつでこんなに探してくださるなんて」
老婆は腰を折る。俺は首を振った。
「あんたの孫が……」
「はい、ユミちゃんももういいって言ってますから」
少女は「ありがとうございます」と言って、心配しそうに俺たちを見上げた。
切間が掠れた声で呟く。
「タケちゃんが溺れたんですよ。早く救急を……」
「タケちゃん?」
老婆と少女は初めて聞く言葉のように繰り返した。
濡れたシャツの下を風が通り抜け、急速に体温を奪う。
ここは事故も病気もない村だ。だが、もし、事故で誰かが命を落とすようなことがあれば。
「なかったことになる……」
俺は無意識に呟いていた。切間には意図が通じたらしい。
「そういうことか……」
切間は強く唇を噛み締めた。
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