【FA動画御礼】下、だいだいの神
俺たちは重い足を引き摺りながら沿岸通りを進んだ。
濡れたジーンズが腿に張り付いて、水分が気化するほど寒くなる。足元から亡霊が飛び立っていく気分だ。乾いた潮が白い欠片になってパラパラと落ちた。
切間はもっと悲惨だ。胸まで海に浸かったせいでスーツがぐしょ濡れだ。
海の向こうからくぐもった漁船の汽笛が聞こえる。切間は何も言わない。俺は張り詰めた横顔を見上げた。
「あんたのせいじゃねえよ」
「……わかってる」
とてもそう思っているようには見えなかった。
さっきまで赤かった空が、熱が冷めたような藍色に変わって、余計に寒く感じた。星の代わりにまばらな街灯が空を点々と照らし、潮風で錆びた納屋や自転車を浮かび上がらせた。
辿り着いた先は、見るからに鄙びたビジネスホテルだった。
痛んだ豆腐のようなデカい直方体が地面から生えている。掃除することを諦めたのか、埃と潮の色に編曲した両開きのガラス戸の向こうに、赤い絨毯と黒電話が見えた。
切間はフロントの電話を借り、電話で
カウンターの中の老人から、スケルトンの棒状のキーを受け取り、切間は短く「行くぞ」と告げた。
「泊まりがけなんて聞いてねえぞ」
「もう列車がない。領怪神犯の本質にもまだ迫っていないしな。それに……」
切間は黙りこくってかぶりを振った。浅黒い肌がいつもより色を失って見えた。
緑の鉄の扉を開けると、蝋燭の灯りのような仄かな橙の照明の部屋が広がった。
簡素な白いベッドふたつと、中央にライトを置いたら他に何も置けないほど小さな机。独房じみた部屋だ。
切間はスーツの上着を脱ぎながら言う。
「下のランドリーで洗濯してくる。お前の服も持っていくか?」
「俺は……後でいいや」
「汚れたままベッドに座るなよ」
「あんたは親かよ」
「詐欺師を育てた覚えはない」
さっさとガウンを羽織った切間は、悲惨なシミができたネクタイをきっちりとハンガーにかけて部屋を出た。
静まり返った見慣れない部屋が急に孤独を際立たせた。
両親が生きていた頃、親戚の集まりで親たちがいなくなって独り取り残されたときのようだ。切間が一生帰ってこないような気がした。
やけに響く時計の秒針が心音に重なる。俺は気を紛らわすため、透明な灰皿を引き寄せて煙草を吸った。
二本吸い終えたとき、切間が戻ってきた。
俺は深く息を吐く。
「他人の顔を見て溜息を吐くな」
「違えよ……それより、大丈夫かよ」
「何が?」
切間は向かいのベッドに腰掛け、組んだ足に煙草の箱を乗せる。脹脛に古い擦り傷がいくつもあった。
「ライターを失くしたな」
切間は灰皿の横にあったマッチを擦って煙草に火をつける。
マッチの台紙には「三百六十度オーシャンビュー、港町のオアシス」「ホテル橙」と書いてあった。海しかない田舎でも、物は言いようだと笑いそうになる。
切間は煙を吐きながら言った。
「だいだいの神についてだが、お前、見たんだな」
「ああ、井戸の底と海で二回見かけた。頭がデケえ爺さんだった。人間の二倍くらいある。禿頭で白い髭で着物を着てた」
「……福禄寿みたいだな」
「福禄寿?」
「七福神だ。正月なんかに飾り物でよく見るだろ。福禄寿は長寿延命の神だ」
「この村に合ってるな」
俺の答えに切間は難しい顔をする。
「だが、本来福禄寿が持っているのは橙じゃなく桃だ」
「じゃあ、別モンか」
「恐らく橙の実を落とす儀式の方が先にあって、村人が無病息災を願い続けたことで、信仰が似た福禄寿に姿が近づいたんだろう」
「なるほどね。また、ひとの願いが神を歪めたって訳か」
俺は独り言のように呟いた。
「悪い神には見えなかったんだよなあ……」
「子どもを消し去った神が、か?」
切間が眉間に皺を寄せる。俺は両手を振った。
「俺にキレたってしょうがねえだろ。何ていうか、あのガキを消したとき、だいだいの神がすげえ悲しそうな顔してたんだよ」
切間は深く長く煙を吐き出した。ベッドの間に霧の橋がかかる。
「本来、だいだいの神はただの守り神でしかなかったんだろう。それが、戦後の混迷で人々が縋るようになり、身の丈に合わないことを求められた。怪我や病気を完全に防ぎきる権能なんかねえ」
「だから、怪我人や病人を消し去った。最初から存在しなきゃなかったことになるから。ってことか?」
切間が首肯を返す。顔を強ばらせ、組んだ脚をじっと眺めていた。
神に対しての怒りを吐き出すのかと思ったが、切間は灰皿で吸殻を擦り潰し、急にベッドに横になった。
「何だよ、職務怠慢か?」
「気分が悪い」
神の所業に関して、ではなさそうだ。切間の顔は青ざめ、額に脂汗が浮いている。
「おい、切間さん。大丈夫かよ」
「大したことねえよ。年甲斐もなく海に飛び込んだから少しイカれただけだ。すぐ治る」
切間は喋るのも億劫そうに枕に後頭部を預けた。
フロントで言いかけたのは、体調が悪いからこのままじゃ帰れない、ということだったのだろう。
俺はベッドから立ち上がって右往左往する。
「熱中症か? こういうとき何すりゃいいんだっけ。水か。冷蔵庫にあるよな? 勝手に飲んでいいんだっけ」
「よくねえよ。帰りに金を払うんだ」
「じゃあ、今は勝手に開けていいんじゃねえかよ」
「盗むのかと……」
俺は小さな冷蔵庫に駆け寄ったとき、窓の外からコツンという音がした。小石でもぶつかったのかと思った。そんなはずはない。ここは三階だ。
エアコンの効きが悪く温かったはずの空気が急に冷えたような気がした。カーテンが音もなく揺れている。
俺は窓際に向かい、橙の草模様のカーテンを押し開いて、息を呑んだ。
窓の下、ぼやけた夜闇の中に白い半円が浮かんでいる。窓枠に縋りついている、何かの頭だ。
ぬらりと丸いあの形は、だいだいの神だ。
この村で、病人が出ることは許されない。日射病の患者がいたとしたら。
俺は切間を振り返る。ぐったりと横たわる姿は死人のようだった。窓枠がカタカタと揺れる。
俺は咄嗟に窓を開けた。
「ふざけんなよ、消されてたまるか!」
どっと潮の匂いの風が流れ込んだ。神の姿はない。夜空との間が曖昧な黒い海が見えるだけだ。
俺は辺りを見回し、窓枠に今にも落っこちそうな何かが乗っているのに気づいた。恐る恐る手を伸ばすと、硬い皮の感触が触れ、柑橘類の匂いが弾けた。
老婆の声が蘇る。熱中症に効くんですよ。
真っ白な衣が視界の端で翻った。俺は夜風で冷え切った夏蜜柑を握りしめた。
「烏有?」
切間の声が聞こえる。俺は窓を閉じてから、冷蔵庫の水を取り出した。
ペットボトルの底で腹を突くと、切間が顔を上げた。
「何があった?」
「土産もらった」
小机に夏蜜柑を置く。切間は怪訝な顔をした。
俺は薄橙の皮を剥く。
だいだいの神はただの守り神だ。人間の願いに何とか応えようと誤りを続けながら、本当はただこのくらいの施しだけをしたかったのだろう。
俺は半分の夏蜜柑を切間に放り投げた。
「消されんなよ、切間さん」
切間は全てを察したように頷く。
「消されなかっただろ」
「今回のことだけじゃねえよ」
切間は何も答えず、マッチの台紙を手に取り、少し眺めてから懐にしまった。
何となく、それが墓標になるようで恐ろしかった。こいつもだいだいの神だ。他人に応えようとしすぎる。
俺は半分の夏蜜柑を齧りながら、窓の外を眺めた。波間にポツリと浮かぶ、夜漁の船の赤い灯が見える。マッチの火のようだと思った。
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