四、国生みの神

 虚空から放たれた弾丸が、烏有の白シャツの腹を穿ち、真っ赤な鮮血が飛び散った。全てが停滞して見えた。


 倒れる烏有の姿に、まどろむ神に見せられた光景が重なる。ここと同じ礼拝堂で、腹から血を流しながら倒れる父の姿が。

「烏有さん!」

 私は彼を抱き止める。体重と体温が全身にのしかかった。生温かい血が滲み出す。


 銃弾はどこから放たれた? 祖父は座り込んだまま動いていない。他に生きている者はいない。まがつ神の眼窩の炎が歪む。笑っているのだとわかった。

 あいつだ。


「宮木!」

 片岸さんが駆け寄り、烏有の腕を自分の肩に回す。穐津がもう片方の腕を取り、ふたりで彼を抱え上げた。烏有が掠れた声を漏らす。唇の端から溢れた血が玉の緒を引いた。

「礼ちゃん、お前の爺さんが……」


 私は振り向いた。祖父は目と口元を歪めて、まがつ神と同じ笑みを浮かべている。あの神は祖父の祈りで動いているんだ。


 祖父は譫言のように呟いた。

「礼、神に身を任せなさい」

「お祖父ちゃん、こんなものを信じてどうしたいの!」

「国生みの神に約束されたんだ。いつか京子きょうこを返してくれると」

 京子、私が生まれる前に死んだ祖母の名前だ。自分の妻を生き返らせるために、こんなことをしていたのか。怒りが燃え燻るのを感じた。


 足元に一丁の銃が落ちていた。

 片岸さんと穐津が、烏有を引き摺りながら進んでいく。梅村さんが扉の前で私たちを呼んでいる。全身を焼かれた件の神が蠢いている。

 私は銃を拾い、祖父に突き付けた。


「まがつ神を止めてください。私たちの邪魔をするなら撃ちます。お祖母ちゃんに会う前に死にたくないでしょう」

「礼……」

「神は万能じゃない。今から証明してあげます」


 祖父が虚な視線を返した。祖父の願いを、馬鹿げている、とは言えなかった。神に縋って信じられないことをする人間をたくさん見てきた。祖父も善でも悪でもない、ただの弱い人間だ。



 私たちは礼拝堂を抜ける。外に出た途端、絡みついていた血の匂いが春の夜風に洗い流された。

 片岸さんたちが石段の上に烏有を下ろす。梅村さんが青ざめた。

「お前、その傷……馬鹿かよ!」

「今更気づいたのかよ。遅えな」

 烏有は悪童のように笑い、腹を押さえて呻いた。

「ここにいたら思い出しちまった。銃が出るなんてな……」


 今ならわかる。あのとき、血の海の礼拝堂で、父を助けようとしていた青年が烏有だ。まがつ神はひとが忌み嫌う死の穢れを体現する神だ。烏有が私の父を襲った凶弾を恐れていたから、まがつ神が銃弾を生み出したんだ。


 梅村さんは烏有の腹を探り、沈鬱にかぶりを振る。

「今から下山して病院に連れて行っても間に合うか……」

 片岸さんは返り血を拭った。

「六原さんと江里さんもまずい状態です。何とかしないと」

「何とかって言ったって……」

「俺が知られずの神に願って、まがつ神を消すつもりです。後のことは宮木と穐津がそこに在わす神に託す。それまで保ちますか」

「そんな作戦立ててたのかよ……正直言って、保たないな」


 穐津が私を見つめているのがわかった。やるべきことは知っている。結局また同じ轍を踏むんだろう。

 私は頷いた。

「今怪我をしているひとは皆、知られずの神に消してもらいます」

「宮木?」

 片岸さんが目を見張る。

「死ぬ前に連れて行ってもらえば命は助かる。そうですよね、烏有さん」

 烏有は身を震わせ、観念したように頷いた。


 私は彼の前に屈み、視線を合わせた。

「何も知らなくてごめんなさい。父のことも、私たちをずっと助けてくれたことも、ありがとうございます」

 彼の瞳に映った月光が、波立つ湖のように揺れた。

「悪い、もっと上手くやれたはずなのにな。俺は馬鹿だから。結局、切間さんも連れ戻せなかった」

「私が代わりにやりますよ。勿論、烏有さんも取り戻しますから」

 烏有は目を閉じる。きっと同じように約束をしたんだろう。叶わないかもしれないとわかっていても、祈るのが人間だ。



 梅村さんが溜息を吐いた。

「烏有たちを消すのは俺がやらなきゃな」

「梅村さん……」

「欲張っていくつも願ったんじゃ叶えてもらえないだろうし。片岸くんは神を消す、俺は人間を消す。これでいいだろ?」

 彼は夜風が撫でる石段を見下ろした。

「二十年前、俺はあそこの下で蹲ってるだけだったんだ。気づいた頃には全部終わってた。やり直すいい機会だよ」


 梅村さんと片岸さんは踵を返し、山頂を見上げた。粗雑に彫り抜かれた白い像が佇んでいる。

「じゃあ、行こうか」

 片岸さんは踏み出した足を止め、私に向き直った。

「宮木」

「はい」

「またな」

 彼は歯を見せて笑う。私は祈るように頷いた。

「絶対ですよ!」


 ふたりは礼拝堂を横切り、緑の霧が烟るような山頂に向かって歩き出す。一際強い風が吹いた。


 柔らかい初春の風が視界を霞め、目の前に蓮華畑が広がった。私は目を疑う。

 花の中に小柄な女のひとが立っていた。目の下の泣き黒子が六原さんに似ていた。

「またなって言っただろ」

「……馬鹿」

 女性は呆れたように微笑んだ。穏やかで幸せそうな、愛情に満ちた笑顔だった。



 風が吹き、蓮華畑が消える。

 片岸さんと梅村さんも消えていた。辺りには静謐な夜の森が広がっていた。


 烏有さんはまだ石段に座っていた。写真の中の父のように固めていた前髪が額に下り、幼さの残る青年のような面差しが際立った。


「まだちょっと時間があんのかな……」

 彼は震える手で懐を探ったが、腕は力なく垂れ下がった。穐津が歩み寄り、彼の胸ポケットから何かを取り出す。

 外国のタールの重い煙草と、ビジネスホテルで配っているような紙の台紙のマッチだった。


 穐津は煙草を取り出して彼に咥えさせ、マッチを擦る。

「悪い、俺これで火つけんの苦手なんだよな。無駄にしちまいそうで中々吸えなかった……」


 烏有は煙草を深く吸い、血を吐いて噎せた。彼は苦しげに呻きながら、確かめるように煙草を口に運び、小さく笑った。

「全然まともに生きられた気がしねえんだけど、最後が切間さんと同じなら、少しはまともに生きられたのかなあ……」


 落ちた煙草が石段に跳ねた。烏有の姿はない。

 甘い香りの紫煙が、夜空に上って風に靡いた。



 ***


 柔らかな昼下がりの光で満ちた、長閑な山道が広がっていた。

 俺は自分の腹を探る。傷はない。痛みも消えている。


「煙草、吸い始めたばっかりだったのに……勿体ねえ」

 真っ先にこんなことを考えるなんて、やっぱり俺は馬鹿のままだった。二十年経っても何も変わらない。

 俺は辺りを見回した。並木の向こうから桃色の蓮華畑が覗いていた。梢に泥のついた農具と洗いざらしの麻の着物が掛かっていた。大昔の農村みたいだ。


 俺はもう痛くもない足を引き摺りながら山道を登り出した。


 この先に遥か昔に消された俺の先祖たちがいる。

 冷泉れいぜいもきっといる。梅村の奴が先に行ったから、今頃顔を合わせているかもしれない。あいつは歳をとって、今じゃ妻子もある。昔告白した女に会ってどんな気持ちか想像すると笑えた。


 あの夜、俺たちが消した対策本部の連中もいる。凌子りょうこもいるんだろうか。あの女が呑気に田舎暮らしをしているところが浮かばない。自分が消して来た冷泉たちに会って、一体どんな状況になったんだろう。凌子と出くわすことを考えると、梅村を笑っている場合じゃなくなった。



 茂みが途切れた。ちょうど礼拝堂があった山の中腹だ。和やかな日差しが差し込む方に踏み出したとき、目の前に影が差した。


 俺は息を呑む。久しぶりに実物を見てみると、毎日鏡の前で真似をしていた俺とはやっぱり似ても似つかない。

 二十年間忘れたことがない姿だ。

「切間さん……」


 今まで自分を操っていた糸が切れたみたいに、俺はその場に座り込んだ。ずっと押し留めていたものが堰を切って流れ出す。喉からもつれた言葉の塊が溢れた。

「ごめん、俺、全然まともに生きられなかったよ、切間さん。結局礼ちゃんも巻き込んで、あんたも取り返せなかった。礼ちゃんは俺よりずっとしっかりしてて、俺がやれなかったことの後始末を全部押しつけちまった。本当にごめんな……あんたの名前をもらったのに……」


 切間は俺のふくらはぎを軽く蹴った。この痛みも二十年ぶりだ。

 切間の指が俺のシャツの胸ポケットに伸びる。煙草とマッチが地面に落ちた。切間は最後の一本を抜き出して火をつけた。紫煙が顔にかかる。


「切間さん……?」

「吸うのは久しぶりだ。ここに煙草屋はないからな」

「そっか……」

「お前が来るまで大変だったぞ。初めの頃、冷泉と凌子さんがどうだったか聞きたいか?」

「聞きたくねえ……」

「で、何だその格好は」

 俺は答えられない。切間は浅黒い顔に呆れたような表情を浮かべた。硬く熱い手が俺の肩をしっかりと掴む。


「ここに来た特別調査課の連中から大体の話は聞いてる。まともな生き方とは言えないが、よく頑張ったな。烏有」

 僅かに口角を上げるような、不器用な笑い方だった。見るのは二十年ぶりだ。俺が声を上げて泣いたのも、あの夜以来だった。

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