五、国生みの神

 全てが夢のように消え去った。

 私は燻る煙草の火が光を失うまで見つめ続けていた。

 烏有は昔、ここで対策本部の人々を消し去り、ひとりで戦おうと決めた。片岸さんは必ず戻ると約束して行った。白い神の彫像は人々の誓いを黙して見守ってきた。

 私もまだやるべきことがある。



 私と穐津は目だけで合図し、再び石段を登った。

 恐る恐る礼拝堂の破れた扉に手をかける。木戸は音を立てて傾いた。

 斜めに切り取られた闇の中に、座り込む祖父が見えた。まがつ神はいない。片岸さんがやり遂げたのだ。

 祖父は私に見向きもせず、血の海の中に見えない神の姿が映っているかのように俯いていた。


 穐津が励ますように私の肩の触れる。私はその手に自分の手を重ねて礼拝堂を後にした。



 鬱蒼とした木々から陽光が差し込む。空の頂点にはまだ夜の色が残っていたが、裾野は薄紫に変わっていた。薄雲が波の花のように寄せては消えた。

 人間たちに何が起ころうと変わらない、泣きたくなるほど清廉な夜明けだ。


 私と穐津は一段ずつ階段を下る。鉄柵の前に車が一台、雲海を映して停まっていた。江里さんのものだ。キーが差したままだった。もしかしたら、自分が戻れないことを察していたのかもしれない。


 私は唇を噛む。

「東京に戻りましょう」

「うん。でも、問題がひとつ」

 身構えた私に、穐津は真剣な顔で眉を下げた。

「免許を持ってない。戸籍がないから」

「神ですもんね」

 私は苦笑してドアを引いた。



 江里さんの車の中は煙草と畳のような匂いが微かにした。

 吸殻が散らばるダッシュボードに古い写真がある。海を背にして立つ三人の少年だった。中央の小柄な少年だけは笑っていて、他のふたりは硬い表情だった。僅かな面影でわかる。右は江里さん、左は私の父だ。

「宮木さん、どうしたの?」

「何でもありません」

 私は落ちた灰で汚れないように写真を避け、ハンドルを握った。



 車は木の根や道路の溝にぶつかって大きく跳ねながら、山道を降った。錆びたポストや、木造のコインランドリー、廃線の駅が見えるフェンスと、枯渇した足湯。

 いつか片岸さんと見た光景が次々と流れた。時が止まったような山道で、空の色だけが忙しなく変わっていく。


 私はアクセルを踏みながら隣の穐津に言った。

「皆を取り返すことはできるでしょうか」

「そこに在わす神なら頑張ってくれると思う」

「……でも、亡くなった調査員の方は戻らないですよね。ひとの死を変えることはできないんでしょう?」

「それも、できるかもしれない」


 穐津は正面を見つめて言った。

「そこに在わす神は一瞬で世界を変えると思われているけど、本当は丸一日かけているんだ。だから、実際には一日分のズレが生じる。それが積み重なって今、五年近くの誤差になっているんだよ」

「じゃあ……」

「それを全てなかったことにできれば取り返せると思う」

 私は答える代わりにハンドルを強く握った。朝日がフロントガラスを染め、穐津の色素の薄い肌や髪を透けて見える。毛先に絡んだ光の粒を見て、初めて彼女が神なのだと実感を持った気がした。



 補陀落山が遠ざかり、徐々に街並みが都会染みていく。

 覚えのあるバスロータリーが見えてきた。私の家の近くだ。

 すずらん型の街灯が等間隔で並ぶ道路を進むと、ドラッグストアと書店がある。駅前には違法駐輪の自転車の群れが、日差しを受けて燦然と輝いていた。

 学生服の少年たちが鞄をリュックのように背負って駆けていく。もう春休みだ。数週間後には緑の幌が垂れた書店で教科書を買うのだろう。

 神に支配された国で何も変わらず日常を続けるひとびとがいる。


 穐津が唐突に呟いた。

「平和だね」

「そうですね」

「ムカつくって思ったことある?」

 私は驚いて彼女を見返す。

「自分たちが世界を必死で守ってるのに、何も知らずに安穏と生きてるひとを見て」

「……神義省にいたときはそう思ったこともありますよ。穐津さんが言った通り、幸せでいるためには無知な方がいい。私たちにはもうそれができませんでしたから」


 私は苦笑した。

「でも、特別調査課のひとたちを見て変わりました。彼らも本当は平和に幸せでいるべきだった」

「そっか」

「今そこら中を歩いている何も知らないひとたちは、本来片岸さんや烏有さんたちがそうあるべきだった姿です。特別調査課の皆の幸せを願うなら、彼らの幸せも願わなきゃいけない。上手く言えませんけど……」

「世界を構成するのは個人だからね。それでいいんだよ」

「今の言い方、神様っぽいです」

 穐津は小さく笑った。



 車窓を流れるビルが林に変わり、砂色の壁に変わる。私は壁穴の前で車を停めた。地下壕の入り口は開かれたままだ。


 私たちは車を降り、暗い地下壕へ踏み出す。これで全て終わりだ。

 地下道に炎の気配はない。ただ霊安室のような冷たい闇が横たわっているだけだ。数々の神話の冥界下りもこんな様相だったのだろうか。



 最奥までの扉は破壊され、残骸が乱杭歯の生えた口のように開いていた。踏み出しかけた爪先に何かぶつかる。拾い上げてみると、黒い煤で汚れたペンライトだった。片岸さんの忘れ物だ。調査に赴いた先で何度も暗闇を照らしてくれた。


「宮木さん?」

 唐突に泣きたくなったのを堪えて、私はペンライトをポケットにしまう。血塗れ泥まみれのスーツの袖で目頭を拭った。

「何でもありません。行きましょう」



 私たちは一歩ずつ確かめながら進む。

 闇に巨大な鳥居が浮かび上がった。二本の赤い柱の真下に、焼け爛れたそこに在わす神が佇んでいる。


 暗がりに慣れた目が、その背後にあるものも見た。禍々しく錆びた金の装飾を頭上に戴く、腐乱した灰色の女神。生傷のように開いた腹部の口は、喘ぎながら舌先で虚空を探っていた。


「国生みの神がまた新しい神を生み出すかもしれない。急いで」

「はい。終わらせましょう」

「宮木さん、領怪神犯のいない世界を願って。できるかわからないけど、そこに在わす神なら手伝ってくれるはず」

「……穐津さんも消えてしまうんですか」

「そうかも」


 私は穐津を盗み見る。彼女は神聖な静けさで佇んでいた。

「本当はもうちょっと一緒に、いろいろしたかったです」

「ずっと一緒にいたよ。私は特別調査課の皆の祈りで生まれたんだ。宮木さんのお父さんや烏有さん、貴女を大事に思っていたひとたちの記憶は、全部私の中にある」

「それは、何だか恥ずかしいですね」

「全部知ってるよ。つぶあんのたい焼きとラーメンが好きなことも」

「知らなくていいですよ!」

 私は苦笑いを作る。



 穐津に促され、私は前に進み出た。目の前の引き戸は、炎の爪痕が痛々しいが、蝶番はまだ残っている。あと一度は使えそうだ。


 私は炭化した戸に手をかけ、穐津に向き直った。

「穐津さん」

「何?」

 ありがとうと言おうとしてやめた。言うべきことは他にある。

「また会いましょう」

 あきつ神は目を見開いた。神聖なヴェールが剥がれ落ちた。彼女は目を伏せて頷く。叶わないと思いつつ祈る、人間のようだった。

 私は踵を返し、戸を引いた。



 井草の匂いと炭の匂いが鼻を突いた。パンプスの底が焦げて硬くなった畳を踏む。

 大火の後、かろうじて焼け残ったような和室が広がっていた。


 障子はほとんど煤になり、黒ずんだ木枠だけが残っている。壁も天井も炎が舐め上げたように惨憺たる状況だった。


 堂の奥で、所々焦げた白布を被った人影が座り込んでいる。影が質量を持ったように真っ黒な巨人だ。

 煤まみれの矛を杖の代わりに縋り、人影がゆっくりと進み出る。

 私は靴を脱ぎ、影の方に向かった。



 そこに在わす神が私を見下ろした。

 布の中は宇宙が広がっているような途方もない闇だった。不思議と怖くはなかった。


 私は神の前に膝をつく。

「今までずっと人間の味方でいてくれてありがとうございました」

 そこに在わす神は身を傾けた。瑣末な生き物の声を聞き取ろうとしているようにも、くたびれて項垂れたようにも見えた。


 全ての神を消したら、私たちを守ってくれた神々も消えてしまう。彼らは穐津と同じように覚悟を決めているのかもしれない。

 でも、私はそれでいいと思えなかった。ひとも、神も、報われるべきだ。


 私は口を開く。本当はこんな曖昧な願いに全てを託すべきじゃないとわかっている。神の真意は計り知れない。解釈の余地がある言葉は思わぬ結果を生んでしまう。

 それでもいいと思った。私は信じたい。


「ひとも、神も、世界を守ろうと戦った全ての存在が報われるようにしてください」


 そこに在わす神は矛を振り上げた。壮絶な音と風圧が押し寄せる。



 引き戸が開く音がした。

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