三、国生みの神

 江里さんは古紙が張り巡らされた壁を指す。

「昔、ここに大量の領怪神犯が収容されていた。対策本部は記録ではなく、積極的な神の利用を目的としてたらしい……」

 冷えた刃が心臓の横に差し込まれたような気がした。

「父も、そうだったんですか?」

「まさか。あの朴念仁がそんな器用なこと考えるかよ……」

 一瞬安堵し、すぐに別の不安が過ぎる。体制派ではなかった人間の末路は想像に固くない。

「反対派も僅かにいた。ひとりはお前の父親の切間。もうひとりは強制的に対策本部に入れられて、切間とバディを組んでた烏有だ。お前と片岸みたいな関係だな」

 私は横目で片岸さんを見る。彼は無言で先を促した。


「推進派と反対派はここで神の利用を巡って衝突した。結果は血みどろの内部争い。更に、収容していた神々が暴走して、手当たり次第に調査員を殺しまくった。今と同じ状況だ……切間は流れ弾に当たって、瀕死の重傷を負ったらしい」

「じゃあ、父はもう……!」

 江里さんは答えようとして火傷の痛みに呻く。言葉の代わりに喘ぐような息が漏れた。


「違うよ、彼は死んでない。烏有さんが生かしたから」

 穐津が代わりに言った。

「彼は切間さんや他の調査員が知られずの神に彼らを消させたんだ。そうすれば、命は奪われずに神の下に行けるから。切間さんがそうしろと言ったの」

「そんなの、あんまりじゃないですか……」

「烏有さんは、切間さんの代わりに貴女と貴女のお母さんを託された。彼はそれを守り続けたんだ。いつか切間さんたちを取り返せる日を願って、ずっと」

 江里さんが肩を抑えながら言った。

「切間も烏有も本物の馬鹿だが、お前らを騙そうとしてたことは一度もない。それだけは確かだ」


 喉の奥に言葉が詰まる。私は何も知らなかった。父は私たちを捨てたんじゃない。烏有は私を騙して、父の居場所を奪い取ったんじゃない。ふたりとも自分を押し殺して、誰からも顧みられなくても、他人のために戦い続けた。それはまるで人間というより、守り神のような在り方だ。


 穐津は見透かしたように頷く。

「彼らの願いで私は生まれたんだ。神に縋れない彼らに応えたかった。私は何もできないけれど、ひとつだけ勝算があったから」

「勝算って……?」

「知られずの神だよ。本来、誰にも気づかれないあの神に信仰が集まることはなかった。でも、特別調査課が調査を続れば、それはひとつの畏怖の形になる」

 穐津は色素の薄い目を見開いた。

「私は知られずの神を使って、国生みの神を消したかったんだ」



 私たちは呆然と彼女の言葉を聞いていた。片岸さんが唇を震わせる。

「できるのか?」

「わかりません。この二十年で知られずの神の力は格段に向上しました。でも、国生みの神に勝てるかどうか……その前に、まがつ神を何とかしなければ」

 穐津は俯いた。全員やれるとは思っていない。でも、やるしかないとわかっている。


 片岸さんが手を挙げた。

「俺が知られずの神のところに行って、まがつ神を消してもらってくる。そうすれば、お前らが自由に動けるだろ」

 私は思わず彼の袖を掴んだ。

「やめてください。行ったら願いを叶えてもらう前に消されるかもしれませんよ」

「それはお前も同じだぜ。誰かしら行かねえと」


 六原さんが力なく首を振った。

「……俺が行く。死に損ないが行った方が無駄がない」

「馬鹿言え、その傷でどうやって山を登るんだよ」

 片岸さんは歯を見せた。

「それに、話を聞く限り、知られずの神は完全に何かを消せる訳じゃなさそうだ。現に俺たちも実咲みさきのことを覚えてる」

「でも、他に手段なんて……」

「そこに在わす神だ」

 私は息を呑む。地下壕で焼け焦げていた、壊れかけの引き戸の神。人間を守るために世界を作り変え続けた領怪神犯。


「壊れかけてたがまだ一回くらいは使えるだろ。奴は人間の味方らしい。あれに領怪神犯のいない世界を願うんだ。宮木、頼めるか?」

「……片岸さんはそれでいいんですか。知られずの神は奥さんを、実咲さんを消した神かもしれないんですよ」

「しょうがねえよ。神に善悪はねえ。願われた通りに動くだけだ。悪気があって消したんじゃなさそうだしな」


 片岸さんはそれから、少し照れたように笑う。

「勘違いするなよ。俺はお前の親父たちみたいな高尚な人間じゃない。ここに来て思い出したんだ。実咲に『またな』って言っちまった」

「じゃあ、行かなきゃ怒られちゃいますね。離婚の危機なら止められません」

 私は努めて能天気な笑顔を作った。上手くいったかはわからなかった。



 微かな息遣いが地下室の空気を熱く澱ませた。無数の神々の記録が貼られた壁は古びて、ひび割れた皮膚のようになっている。

 昔、領怪神犯はゲームのバグのようだと思ったことがある。積み重なった神と人間の間違いを正すときが来た。


 私と片岸さんは視線を交わす。

「六原さんと江里さんはここに隠れていてもらう。俺たちだけで行くぞ」

「わかってます」

「それから、穐津……あきつ神か。一緒に来てもらえるか」

 穐津は神聖さの欠片もない、ぎこちない首肯を返した。

「研修生なので、先輩についていきます」

「神を部下にしちまうとはな」

 片岸さんは肩を竦める。呑気な会話も虚勢だとわかっていた。私たちの武器はそれしかない。


 私たちは六原さんと江里さんを壁際に座らせ、闇に沈む階段を登り出した。



 隠し扉を押し上げた瞬間、切断されたばかりの鉄のような鮮烈な血の匂いが押し寄せた。


 礼拝堂は地獄絵図だった。膨れ上がった人間たちの欠片が、泡立つ血の海に浮かんでいる。両手足を失くした男の胴体や、長椅子に乗った生首、ステンドグラスに腕をかける上半身だけの死体が視界に映る。気が遠くなるのを必死で堪えた。


 地獄の中央に、私の祖父が座っていた。血を吸い上げたコートの裾を広げ、神託を受けるように天井を仰いでいる。黒い靄に包まれた骸骨は厳然と佇んでいた。


 背後の片岸さんが押し殺した声で聞く。

「突破できそうか?」

「まだ祖父とまがつ神がいます。あれを切り抜けないと……」

 最後尾の穐津が鋭く言った。

「私が行く。ふたりは隙を見て脱出して」

「でも……」


 髑髏が震える。青い炎の残像が闇に二条の尾を引いた。勘付かれた。

 そう思ったとき、突風のようなものが扉を破って駆け込み、まがつ神の視線を遮った。



 礼拝堂に咆哮が轟いた。

 二本の角を持った巨大な牛がそこにいた。顔は皺の刻まれた老人のようだった。


 牛は蹄を鳴らし、まがつ神に突進する。双剣のような角が振り下ろされるより早く、髑髏の眼窩が煌めいた。牛の全身が青い炎に包まれる。私の祖父は歓喜の表情を浮かべた。


 破れた扉から烏有と梅村さんが姿を現す。

「件の神!」

 烏有に応えるように、牛が再び咆哮を上げた。件の神と呼ばれたそれは、身を焼かれて尚、骸骨に立ち向かおうとしていた。燃え盛る蒼炎が礼拝堂を染め上げる。


 穐津が私の背を押した。

「今だ、行って」

 私は意を決して礼拝堂に飛び出す。足音で片岸さんと穐津がついてくるのを確かめた。

 件の神は身を焦がしながら、まがつ神を角で一歩ずつ押しやっていた。


 今のうちに脱出するしかない。まがつ神が歯を鳴らす音が響いた。青い炎が天井を駆け、降り注ぐ。

「礼ちゃん!」

 扉の前の烏有がこちらに駆け出した。彼は躊躇いの後、手を差し出した。私は右手を伸ばす。


 指先が触れる寸前、一発の銃声が鼓膜を揺らした。

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