一、国生みの神
車の窓に貼られた黒いスモークが、夜空を完全に塗り潰した。
私と
六原さんがいつの間にか手にしていたビニール袋をガサガサと漁り、おにぎりとペットボトルのお茶を取り出した。片岸さんが眉を顰める。
「いつ買ったんだよ。遠足じゃねえぞ」
「お前と
「何をどう受け取ったらその答えになるんだよ」
「食べておけ。空腹だとまともな判断ができなくなる」
六原さんは声を低くした。
「ここからは誰を信用していいかわからない」
「……前からだろ」
片岸さんはぶっきらぼうに袋を受け取って、私に回した。
「ありがとうございます……」
ここに来る前、祖父から聞いた。二十年前、補陀落山で領怪神犯の研究をしていた調査員たちが殆ど全員姿を消したそうだ。今となっては総数も不明らしい。その中に私の父もいたはずだ。
惨劇があったか、それすらもなかったか。私たちはこれからその場所に行く。全ての清算になるかもしれない。冥界を下るような気持ちで口に運んだおにぎりは何の味もしなかった。
座席が小さく跳ね、車が停まった。
先に降りた運転手が後部座席のドアを開け、私たちを促す。
外はまだ夜闇の中だった。緑の雲海に遮られて星も月も見えない。森の中に砂色の三階建ての建造物が見えた。蔦に覆われた洋館だ。破れ窓にぶつかった風が啜り泣きのような音階を奏でる。かつて私たちが訪れたときも禍々しく思えた。夜だからか、それとも、ここであったことを知っているからだろうか。
黒服の面々が鉄柵の扉にかかった南京錠を難なく外す。片岸さんが視線を鋭くした。
「こいつらの管轄だったか」
私には促されるまま石段を登った。木々の根元に枯れ葉に埋もれたものが覗いている。
スカイブルーのダウンジャケット。臙脂色のポシェット。黴で灰色に変色したオレンジのセーター。黒と白のギンガムチェックのスニーカー。失踪者たちの遺留物だと今ならわかる。
建物の背後に白い像の胴体が覗いていた。私は巨像を睨み上げた。
洋館の破れ窓から、風の音に混じって、潜めた声が漏れ出した。言い争っているような声だ。私たちは歩みを早めた。
山頂に辿り着き、分厚い木戸を前にする。六原さんが私たちを追い越して扉を押した。
ステンドグラスが微かな明かりを反射し、視界を七色に染めた。ささくれた木の床とタイルの剥がれた天井が魚鱗のように輝く。
礼拝堂じみた空間で、私の祖父と神義省の面々、
「
烏有が私に気づき、低く唸った。
「てめえの孫娘まで巻き込むのかよ」
聞いたことのない言葉遣いと見たことのない表情だった。祖父は呆れたように首を振る。
「巻き込んだのは君だろう。礼、来なさい」
私は慎重に足を進め、双方の間に立った。片岸さんが私に歩調を合わせ、隣に並ぶ。梅村さんが嘲るように笑う。
「人質かよ。二十年経ってもこの組織は変わりませんね、宮木さん」
「変わらぬべきだった。君たちがそれを捻じ曲げた。そこに在わす神を利用しているつもりで利用されたのだろう」
「神に利用されているのは貴方たちでしょう」
祖父は冷徹な視線を返し、私に向き直った。
「二十年ここで対策本部の内乱が起こった。烏有調査員と梅村調査員は領怪神犯を悪用するため、反対派を粛清し、組織を作り替えた」
「ふざけんなよ!」
烏有が吠えた。
「神を使おうとしてたのはあいつらだ。だから、俺たちは……」
「彼らを消したのか?」
祖父の問いに烏有が唇を噛む。沈黙が肯定を示していた。
礼拝堂に響く風の音と木々のざわめきが、何故か車のエンジン音に聞こえた。
祖父は神託を受け取るように天井を仰いだ。
「君たちは何故またここを訪れた。我々を消し去るためだろう」
「……ああ、そうだよ」
烏有は鋭く言い放った。目の前が暗くなるような衝撃が走る。たたらを踏んだ私の肩を片岸さんが支えた。
烏有は苦しげな表情で続ける。
「あんたらは国生みの神の言いなりだ。放置してたら国を乗っ取られちまう。消えてもらうしかねえよ」
「命を軽く扱うものだな。神も殺人も恐れぬか」
「それはあんたらだろ! 国生みの神に火合う神を生ませて、不都合なことを調べる奴らを殺させた。
「聞くな、礼。国生みの神はひとを害すことは望まない。諸悪の根源は彼らだ。お前の父と同郷の江里調査員を殺したのが何よりの証左だろう」
言葉が反響するたび、心臓を針金で締め上げられるような痛みが走る。何を信じていいかわからない。神も、人間も、縋ることはできない。
そのとき、扉の向こうから騒ぎ声が聞こえた。
外を警備していた黒服と誰かが揉み合っている。礼拝堂に混乱が広がった。
「何だ……」
殴りつけるような音の後、辺りが鎮まり、重い扉が開け放たれた。
「誰が死んだって?」
細い月光の下に、包帯を巻いた江里さんが立っていた。
「江里!」
烏有が安堵の声を上げた。祖父と神義省の面々が目を剥く。
「何故お前が……」
「漁師崩れだからな。日焼けは慣れてる」
自嘲の笑みを浮かべた江里さんの肌は赤く火脹れを起こし、包帯に血膿が滲んでいた。彼は私に視線を向ける。
「宮木、奴らの話は出鱈目だ。もうわかってるだろ」
私は顎を引く。
祖父が喉仏を上下させた。
「江里調査員もそこに在わす神の影響を受けていたか。特別調査課の上層部が皆あれの支配下だったとは……」
「それは違いますよ」
機械のように平坦な声が響いた。
皆が息を呑む中、私は確信する。私が思い出した、唯一信じられるものがそこにあった。
江里さんに隠れていた人影が歩み出る。
月光に色素の薄い髪と肌を透かし、
片岸さんが叫ぶ
「お前、生きてたのか! よかった……」
「ご心配をおかけしました」
穐津は慇懃に一礼した。
「待て。じゃあ、あの焼死体は誰だ」
「それは私です」
「何……?」
穐津は当惑する片岸さんを追い越して足を進め、私の祖父を見下ろした。
「殺したはずなのに、と思っているでしょう。残念、私はこの世に領怪神犯がいる限り死なないよ」
目を瞬かせる祖父とは対照的に、烏有は何かを悟ったように俯いた。
穐津は礼拝堂の中央で、教えを説く宣教師のように全員を見回した。
「今までの話には誤謬だらけ。まず、人間を支配しようとしているのは、国生みの神。あれは神への信仰が衰えた現代を憂い、もう一度神の時代に戻すために暗躍してきた。皆、気づかなかったでしょう。国の中枢があれに乗っ取られていたことに」
片岸さんが上ずった声で聞く。
「いつからだ……?」
「第二次世界大戦の直後です。天皇を神と同一視する時代が終焉を迎え、現人神への信仰が消えた。そこに滑り込んだのがあれですよ」
「そんなに前から……」
「国生みの神は人間たちを徐々に洗脳し、危険な領怪神犯を増やし、異変に気づきたものを殺し続けた。自身がいる東京から離れた場所にも領怪神犯を生み出し、日本を支配下に置こうとした」
穐津は言葉を紡ぎ続ける。
「それに対抗しようとした神が二柱いる。ひとつは、そこに在わす神。人間の願いによって世界を作り替え、国生みの神の影響を遠ざけようとした。結果、国生みの神はあれを壊すために躍起になった」
祖父が掠れた声を上げた。
「もう一柱は礼の覚書にあった神か」
私は答えない。代わりに穐津が頷いた。
「そう。でも、そこに在わす神と違って、その神には何もできなかった。力に関しては人間と変わりない」
だから、その神は戦後廃れた信仰の名で呼ばれたのかもしれない。この世にひとの姿を持って随時現れる、霊験あらたかな神。
「その神を生み出したのは、君たち特別調査課だよ。記録することへの信仰が神を作った」
祖父が目を吊り上げ、烏有がかつて彼女に向けたのと同じ言葉を発する。
「……お前は何者だ」
穐津は微かに口角を上げた。笑い方が朧げな記憶の中の父に似ていた。
「全ての領怪神犯を記録するための領怪神犯。あきつ神」
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