五、●●●神

 焦げついた地下壕を抜け、地上に出た頃には夜の帳が下りていた。


 駆けつけた救急車が三輪崎さんを搬送し、神義省から派遣された黒服の群れが私たちと入れ替わりに地下壕に雪崩れ込み、祖父が派遣した車に乗せられる。


 全てが流れるように進み、私は身を任せるしかなかった。

 車窓を過ぎる夜景は、オフィス街の清潔な光から、歓楽街の猥雑なネオンに切り替わり、やがて夜闇に滲んで消えた。


 車が停まった場所は病院だった。

 光の束を掻き集めたような病棟が煌々と輝いている。

 病弱な母が昔、何度も入院していた場所だ。泊まり込みのときはいつも切間さん、烏有が一緒にいてくれた。夜闇に沈む藍色の病室で、母の寝息を聞きながら見上げた横顔が浮かぶ。



 病院の入り口から片岸さんと六原さんが現れた。

「三輪崎は重傷だが、命に別状はないそうだ」

 短く告げる六原さんを片岸さんが睨む。

「あんたの見張りは何の役にも立たなかったな」

「俺は切間たちだから通したんだ。彼に言われた。『このままじゃ全員殺される。嫌なら俺たちを案内しろ』と」

「それで馬鹿正直に信じたのかよ」

「結果、助かっただろう」

 片岸さんは呆れ混じりの溜息を吐く。



 杖の先がアスファルトを打つ、冷たい響きが聞こえた。私たちが振り返ると、闇に紛れるように黒い帽子とコートを纏った祖父が立っていた。

 私は姿勢を正す。祖父は片岸さんたちには目もくれず、真っ直ぐに私に歩み寄った。


「礼、地下壕であれを見たのか」

 私は顎を引いて頷く。祖父は帽子を目深に被った。

「あちらに在わすのが我々が保護している神、領怪神犯を生み出す領怪神犯、国生みの神だ」

「領怪神犯を生み出す……?」

 片岸さんたちが息を呑む音が聞こえた。


「国生みの神は古来から日本を脅かす外敵を守るため、様々な叡智を持った神を生み出し、護国に務めてきた。彼女がいなければ冷戦が第三次世界大戦になり、日本は打撃を受けていただろう。神義省はこの国の中枢である彼女を守るために編まれた」

「国の中枢……」


 私は祖父の言葉を繰り返した。火合う神が消えてから、私の脳裏を焼いた炎が鎮まり、冷たく確かな記憶が徐々に戻ってくるように感じた。

 私は神義省にいた頃、国生みの神を見たことがある。そのときの絶望感は、今日地下壕で感じた理不尽な恐怖とは違う。日常は、私が生まれる前から異常に塗り潰されていたのだと気づいた、諦観だった。この国はとっくに神の支配下だったのだ、と。



 祖父が唾を飲む。皺が寄った首の喉仏が別の生き物のように蠢いた。

「だが、彼女を脅かす存在があった。そこに在わす神だ」

「地下にあった引き戸のような神、ですか」

「そう、人間の欲望のままに現実を改変する強力な領怪神犯だ。更に恐ろしいことに、あれは使用した人間を自らの支配下におく。この意味がわかるか」

「そこに在わす神を利用しているつもりで、神の意志のままに世界を作り替えるようになるということですか」

「聡い子だ。そこに在わす神の眷属となったのが、切間、いや、もう知っているだろう。烏有定人だ」


 私は衝撃を押し殺し、拳を握りしめる。

「彼は……何をしようとしているんですか」

「私にもわからない。そこに在わす神に改変されたものの差異は確かめる術がない。私も騙されていたことに気づくのに時間がかかった。確かなのは、彼がお前の父を抹消し、居場所を乗っ取って、特別調査課を意のままにしたことだ」

 沈鬱に語る祖父の顔は帽子の庇で表情が見えない。


「国生みの神は、そこに在わす神を消し去ることができる神の創造を試みた。何度も失敗し、ようやく生まれたのが火合う神だ。しかし、それは我々が思う以上に危ういものだった。お前まで危険に晒し、すまなかったと思っている」

 骨張った硬い手が私の肩を掴む。祖父の肩越しに見える片岸さんは、疑心と不安の混じった顔をしていた。


「だが、元凶は烏有と梅村 まもるだ。彼らは火合う神の存在を知った途端、あろうことか自分に叛意を示す調査員の抹殺に利用しようとした。今日未明、江里 潤一じゅんいちも自宅で大火傷を追い、緊急搬送された」

「そんな、江里さんまで!」

「幸い一命を取り留めたがしばらく動けまい。彼はお前の父と同郷だ。お前に真実を仄めかすことを恐れたのだろう」

 江里さんがふと漏らした言葉を思い出す。切間はもういない。確かに彼はそう言っていた。


「他にも被害に遭った方はいるんですか」

「穐津だ」

「ちょっと待て、穐津が? 無事なのか?」

 片岸さんを割り込んだ。祖父は冷たく一瞥し、すぐ私に向き直る。しばしの沈黙の間、重い唇が開かれた。

「地下壕で三体の焼死体があっただろう。先程検死が終わった。墨田 さくら、深川 雪夫ゆきお、穐津 未可みかの三名で間違いないそうだ」

 片岸さんがふらついて後退る。後ろに倒れかけた彼の背を、六原さんが支えた。


 私は首を横に振った。

「嘘ですよね。そうでしょう、お祖父ちゃん」

「信じがたいのはわかる。お前と彼女の仲は良好だったのも知っている。だが、今すべきことは被害を食い止めることだ」

「被害って……」

「烏有と梅村が補陀落山に向かった。知られずの神を利用し、真実を知る者たちを消し去るつもりだろう。止めなければならない。お前も来るか」


 私は深呼吸し、頷いた。片岸さんが身を乗り出す。

「我々も同行させてください」

 祖父が怪訝な視線を向ける。六原さんは変わらず無表情で口を挟む。

「それが事実なら我々にも危険が及ぶ。同行する権利があるはずです」

「……いいだろう」


 祖父は渋面で首肯を返し、声音を変えて言った。

「ところで、礼。神義省にいた頃のことは思い出したか」

 背筋に微かな痺れが走った。私はそれを気取られないよう曖昧に答える。

「頭がぼんやりしていて、まだ少ししか……」

「そうか。お前があの頃に残した覚書について、何か手がかりになるかと思ったが」

 彼はコートのポケットから罫線ノートの切れ端を取り出す。私の字で乱雑な走り書きが残されていた。


 "●●●神。元はこの世にひとの姿を持って随時現れる、霊験あらたかな神を指す語。"


 私は覚えていないと答える。祖父は僅かな落胆が滲ませたが、すぐに表情を打ち消した。


「思い出したら教えてくれ。急ですまないが、事態は深刻だ。すぐに車を手配する」

 祖父は踵を返し、杖で地面をついて去っていった。


 片岸さんが私に駆け寄る。

「今の話、本当だと思うか。烏有定人のことも、国生みの神のことも、穐津のことも……」

「烏有定人の意図はわかりません。ですが、祖父の言っていたことも本当かどうか……私たちの味方はどちらでもないかもしれません」


 冷えた春の夜風が私の肌を撫でた。祖父は私に期待などしていなかった。私の情報だけが目当てだと確信した。


 国生みの神を見たときと同じ落胆がのしかかる。私が思い出したことは誰にも悟られてはいけない。


 夜風に研がれた三日月が私を見下ろしていた。

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