四、●●●神

「三輪崎さん!」

 私と片岸さんは上着を脱いで、彼に纏わりつく炎に被せる。火炎はしぶとく、何度払っても餓鬼のように追い縋ってくる。

 やっと火が消えたときには、三輪崎さんの腕は暗闇でもわかるほど赤く爛れていた。


 焦げたシャツから覗く背は血の赤と炭の黒が混じり、煙が上がっている。息はあるが、危ない状態だ。

 片岸さんが注意深く彼を横たわらせた。熱で変形した眼鏡が落ち、レンズが破れる。

「早く病院連れて行かねえと……」

 三輪崎さんが荒い息を吐いて言う。

「僕はええから、この先にあるもんを……」

「でも……」

「このまま帰ったら深川くんたちが死んだんも全部無駄や」

 片岸さんは唇を噛み、苦痛に耐えるように頷いた。


 退路は塞がれた。三輪崎さんを助けるにしても、先に進まなければ道がない。

 私と片岸さんは暗闇に踏み出した。



 靴音がやけに反響する。この空間は相当広いようだ。

 乾燥と熱気が支配していた道のりとは対照的に、ここには神聖な冷気が満ちている。


 片岸さんがペンライトを振ると、黒い闇の中に仄かな赤が浮かび上がった。

「これは、鳥居か……?」

 三メートル以上ある鳥居が茫洋と佇んでいる。二本の柱は太く、巨人の足が天井から突き入れられたように見えた。鳥居の上部には錆びた鎖が巻かれている。

 目と鼻を突くような強い腐臭がそこから漏れていた。


「宮木、気をつけろ」

「はい。急ぎましょう」

 私たちは周囲に警戒しながら手探りで進む。鳥居を潜り抜けると、異界に迷い込んだような光景がそこにあった。



 古い木製の木戸が佇んでいる。何処にも繋がっていない、ただの引き戸だ。

 報告書にあった、そこに在わす神の名が頭を過ぎる。しかし、木戸は上半分が黒く焦げつき、半ば壊れかけている。火事にあった民家から引き剥がしてきたような有様だった。


 その背後に、鳥居よりも更に巨大な何かが聳えている。脳が理解を拒んだ。


 最初は灰色の仏像かと思った。

 表皮は岩のようにひび割れ、いくつもの層になっていた。目を凝らすと、かろうじて人型を保っているそれの頭部に、黒い毛髪と錆びた金の髪飾りが垂れているのが見える。胸元にはくすんだ勾玉がかかっていた。

 巨大な女の腐乱死体。


 その腹部には、鮮血を湛えた裂傷があった。違う、縦に入った裂け目から、黄ばんだ歯が覗き、熱く臭気を纏った空気が噴き出している。口だ。



 私たちは言葉を失った。片岸さんが声を震わせる。

「何だよ、あれ……ここにいるのは火合う神じゃなかったのか……」

「はい、あんな領怪神犯は聞いたことがありません……あの引き戸はそこに在わす神だと思いますが、焼き潰されて……」



 女が頭を振った。金の髪飾りと錫が揺れ、禍々しく神々しい響きを奏でる。黒髪がザラザラと動き、灰色の面差しが垣間見えた。こんな神は聞いたこともないはずなのに、何故か覚えがあった。

 女の腹に生えた口から舌が覗いた。舌先が蛇のように蠢き、空気を探る。


 私たちが一歩後退ったとき、照明が灯り、地下空洞に白い光が広がった。



「お前ら、そこで何してる!」

 頭上から鋭い声が降った。鳥居と巨大な女の後ろに設置された非常階段の踊り場に、切間さんと梅村さんがいた。片岸さんが奥歯を軋ませる。

「来やがったか……」


 切間さんが身を乗り出して青ざめた。

「三輪崎……!梅村、救急車を呼べ。その前に応急処置だ」


 梅村さんが非常階段を駆け降りてきた。彼が浅い呼吸を繰り返す三輪崎さんに歩み寄ろうとしたとき、片岸さんが道を塞いだ。梅村さんは呆れたようにかぶりを振る。

「死なせたくないだろ」

 片岸さんは一瞬迷ってから身を引いた。


 私は遥か上の切間さんを見上げる。

「いいか、お前ら。ここを動くなよ!」

 怒鳴る彼の顔は蒼白で、ここからでもわかるほど冷や汗をかいていた。本心から三輪崎さんを心配しているんだろう。私が子どもの頃、体育の授業で骨折したと聞いて、駆けつけてくれたときも同じ顔をしていた。


 まだ気持ちが揺らいでいる。父から奪い取った場所で、父の代わりをしていた彼は、どんな気持ちだったんだろう。

 私は震えを堪えて声を張り上げた。

「ずっと騙してたんですか、烏有さん」


 彼が殴られた少年のように目を見開く。いつも厳しく険しかった仮面が剥がれ、写真の中の烏有定人が現れた。

「何で……礼ちゃんが……」



 彼の声を掻き消すように、背後で轟音と爆風が轟いた。

 鋼鉄の扉が凄まじい勢いで吹っ飛び、壁に突き刺さる。瞬く間に炎が膨れ上がった。


「宮木!」

 片岸さんに腕を引かれて退いた私の目の前を、竜のような火が駆け抜ける。鮮烈な赤い光と炎熱が鼻先を焼いた。


 梅村さんは三輪崎さんを抱えて壁側に避ける。業火が彼の真横を掠めて這い上がり、天井を舐め上げた。

「滅茶苦茶すぎるだろ……」


 私たちの目の前で渦巻く炎が、徐々に輪郭を帯びていく。燃え盛る燭台の炎に、ひとの顔が浮かんだ。苦悶の雄叫びをあげているようにも、嗜虐の笑みを浮かべているようにも見える。

 火合う神だ。扉を焼き溶かして追ってきたのだ。私たちを殺すために。



 炎が揺らめき、触腕のように先端を伸ばす。梅村さんが叫んだ。

「切間!」

 非常階段の上で、烏有定人はシャツの襟を握りしめた。頼む、と掠れた声が聞こえた。


 そのとき、揺らめく炎に糸のようなものが絡みついた。真っ白で艶のある絹の糸だった。

 絹糸は炎の勢いに負けてすぐに焼け焦げ、黒い塵になる。負けじと無数の糸が白波のように押し寄せた。

 火合う神が憤怒の表情に変わる。炎は悶え苦しみながら、だんだんと絹糸に負け、絡め取られていく。炎の赤は白い繭に完全に包まれ、見えなくなった。


 片岸さんは呆然と呟いた。

「領怪神犯か……?」

 繭が弾けた。炎は跡形もなく消え去っている。焦げつく匂いと黒い煤だけが残されていた。


 天井から影が挿し、見上げると純白の羽が広がっていた。頭上に大きな蚕娥が飛んでいる。

 白く柔らかな毛はところどころが焦げていた。


 蚕娥は私たちを見守るように旋回してから、炎が破壊した扉の跡を抜け、飛び立っていった。



「ありがとうな、桑巣の神……」

 烏有定人は祈るように目を閉じた。

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