三、●●●神
喫茶店の奥で電話が鳴り響いた。店員の女性が受話器を取り、声を張り上げる。
「片岸様、いらっしゃいますか?」
私たちは身を強ばらせる。女性は店内を見渡して言った。
「三輪崎様からお電話です」
片岸さんはようやく表情を和らげた。
「ここに来るって伝えておいたんだ。ちょっと行ってくる」
彼が先を立つ。焦げついた匂いが濃くなった。私の周りを焼け死んだ亡霊が取り巻いているように、煙に混じって髪と肉が焦げる匂いが滲み出した。
永遠にも思える時間の後、片岸さんが戻ってきた。
「深川が最後に失踪した場所がわかったらしい。行けるか?」
私は強く頷き返した。
店を出ると、雨は止んでいた。しっとりとした空気が漂っているのに、私の周りだけ頬がひりつくほどやけに乾燥している。
白いバンが滑り込んで、目の前に止まった。運転席には三輪崎さんが、助手席には六原さんがいる。片岸さんが呻いた。
「休日に見たくない顔が見えたな」
助手席の窓が降り、六原さんが小さく眉を動かす。
「職場で会ったら嬉しいのか?」
「聞こえてたのかよ……」
私たちは急かされるまま車に乗り込む。シートベルトを締めると同時に発車した。
窓についた水滴が剥がれ、滝の中から外の光景を見ているようだった。
私と片岸さんは喫茶店で話したことや見た資料について語る。前のふたりは静かに聞き終えてから、同時に溜息を吐いた。
「東京の領怪神犯に関しては納得がいった。故郷で神を見たときに感じたのと同じ違和感をここで度々感じることがあったからな」
「切間さんに関しては……そないなことするひとには見えんけどな。宮木ちゃんを疑ってる訳やないけど」
「私も何か事情があるんだと思いたいです。できれば、会って話したいです」
六原さんは淡々と口を挟む。
「話たところで真実が聞けるかどうかはわからない。今接触するのはやめた方がいい。片岸、お前も気をつけろ」
「何で俺が出てくるんだよ」
「神隠しされた人間について思うところがあるのでは」
片岸さんは車窓に肘をついて目を逸らす。
人間を消し去る神がいるなら、彼の奥さんの実咲さんの失踪も関わりがあるかもしれない。やっと気持ちの整理がついただろうに、また蒸し返してしまった。
私のせいで巻き込んだら、ふたりが会う機会は二度とないかもしれない。それだけは絶対にあってはならない。
ワイパーが涙を拭うようにフロントガラスの水滴を払う。私はは前を見つめた。
「今は何処に向かってるんです」
「市ヶ谷の大本営陸軍部地下壕や」
「第二次世界大戦時に本土決戦を想定して造られたという防空壕ですか」
「うん。二十年前、冷戦が激化して第三次世界大戦になりかねんかったって聞いたことあるやろ。ここだけの話、何かあったときのため皇居と地下壕を秘密で繋げたらしいわ」
「私たちが許可なく入れるんですか」
「普通は入られへんよ。けど、墨田さんと深川くんが隠し通路を見つけてはったらしい」
三輪崎さんはハンドルを回し、脇道に逸れる。左右を流れるビルの壁が濃緑の木々に代わり、都会の喧騒が吸い取られたような静寂が満ちた。
しばらく進むと連綿と続く砂色の壁が現れた。道端に倒れた灯篭が等間隔で並んでいる。六原さんが横目で窓を眺めた。
「かつては地下壕を隠すため、日本庭園に偽装して、通気孔の上に灯篭を置いたらしい。ポツダム宣言の受諾決断を伝えたのもこの場所だったとか」
「終戦の場所に新たな火種を埋めたとはな」
片岸さんが吐き捨てる。
砂色の壁に開いた丸穴の前で、車が停まった。
「ここや。見張りに誰かひとり残ってください」
片岸さんはシートベルトを外しながら言った。
「六原さん、あんたが残ってくれ」
「何故?」
「俺たち両方に何かあったら実咲のことはどうする?」
六原さんは微かに眉を動かし、首肯の代わりに目を伏せた。
車を降りると、熱い風が吹きつけた。周囲は無風だ。壁に開いた丸穴から、高温の炉に顔を近づけたような空気が漏れ出ている。
不安げに私を見る片岸さんに大丈夫だと示すため、私は真っ先に足を踏み入れた。
暗い地下道に、水の滴る音と私たちの足音が反響する。
片岸さんがペンライトを点けると、暗闇が丸く切り取られ、薄汚れた灰色の壁が浮かび上がった。床には便器の跡か、小さな穴が空いていた。
歩みに合わせてライトが揺れ、錆びた手すりや明かりの灯らない非常灯が映し出される。
湿気が満ちているはずなのに、先程から舌が乾いて肌がひりついていた。声を出そうとして、灰で喉の奥が詰まったように咽せ返った。
「大丈夫か?」
「はい、埃っぽいですね……」
私は笑って誤魔化す。埃というより、火葬場の灰の匂いに似ていた。骨を焼いたばかりの白い煤塵が散っているようだ。
壁に黒い字で「No Smokig」と書かれていた。三輪崎さんが呟く。
「戦後すぐはGHQの占領下やったからな。そこかしこにアルファベットが書いてあるわ」
「日本に返還されたのはだいぶ後だったらしいですね」
「主権回復から七年後に急に返されたとか。何で心変わりしたんやろな」
丸い光が、壁の"Danger"の文字を映した。煤の匂いが強くなる。私たちは歩みを進めながら周囲を見渡す。片岸さんが壁を指した。
「あれは……」
ライトが照らしたのは無数の英単語だった。要注意、立ち入り禁止、正体不明。不穏な文字が並ぶ中に、一際大きく赤いマーカーで書かれている。"FIRE"、炎だ。
壁に気を取られていた私は何かにつまづいた。爪先が床より柔らかい何かを蹴る。枯れ木を折ったような乾いた音が響いた。
「どうした?」
「いえ、何かが足元に……」
ペンライトが真下を照らす。私がさっき蹴ってしまったものがはっきりと見て取れた。私の悲鳴は声にならず、乾きかった喉に握り潰された。
駆け寄った片岸さんと三輪崎さんもくぐもった声を漏らす。
黒い塊が三つ、壁にもたれかかっていた。炭のように縮こまって乾き果てていたが、まだ人型を保っている。私が踏みつけた一体は膝から先がなく、折れた脚が傍に転がっていた。三つの焼死体だ。
「マジかよ……」
片岸さんの動揺を示すように光が揺れる。ふたつ並んだ死体の細部が見えた。一体は耳に熱で変形した三つのピアスが残っている。もう一体は焼けて白濁したループタイのカメオが胸に張りついていた。
「墨田さん、深川さん……」
混乱する頭にひとつ疑問が浮かぶ。もう一体は誰だ?
答えを出す前に、背後から眩い光が差し込んだ。それと同時に凄まじい熱気が膨れ上がる。
私たちの退路を、燃え盛る巨大な炎が塞いでいた。
三輪崎さんが鋭い声で叫ぶ。
「走れ!」
私たちは一斉に駆け出した。背中に熱がジリジリとせまる。暗闇に充満する、肉の焦げた匂いと脂を纏った空気が息を詰まらせた。
ざっと黒い煤が舞い上がる。通り抜けた炎が墨田さんたちの死体を再び焼いたのだ。
怒りも哀しみも、酸欠でぼやけていく。私は全てを押し殺してひたすら走った。
炎の照り返しが先を照らした。目の前に堅牢な鉄の扉がある。
じり、と髪の焦げる匂いがした。火合う神が真後ろにいた。
「俺が開ける」
片岸さんが扉を押す。微かな隙間が開いたのと、目の前で炎が揺らいだのはほぼ同時だった。
身を焼く熱を感じた瞬間、背中を強く突き飛ばされた。
三輪崎さんが押したとわかった瞬間、彼の背後から炎が覆いかぶさるのが見えた。
「三輪崎さん!」
扉が閉まる寸前、片岸さんが炎に包まれる三輪崎さんの腕を引く。眩い炎が鋼鉄の扉に遮られ、周囲が完全な闇に包まれた。
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