二、●●●神

 写真を持つ手が震える。


 私は彼を知っている。まどろむ神に見せられた。

 堅牢な竹の柵の向こうに広がる廃墟で、血溜まりの中に倒れていた男性だ。浅黒い肌と体格の良い佇まい。幻覚の中では乱れていた前髪がオールバックに固めてあるが、間違いない。

 いや、それよりもっと前から、私は彼を知っている。


「大丈夫か、宮木」

 片岸さんの声で私は我に返った。「大丈夫です」と答える自分の声が、別人のように響いた。

「お前と同じ名字だから関係があるんじゃないかと思ったんだ」

「そう、ですね。知らないはずなのに、知っている気がします……彼は対策本部時代の調査員なんでしょうか」


 片岸さんは気遣わしげに私を見ながらゆっくりと続ける。

「変なこと言うけど、この男、口元の辺りがお前に似てるよな」

 心臓に杭が打ち込まれたように鼓動が重く響いた。写真を握る指に力が加わり、セピアカラーの表面がひび割れる。私が手を離すと、写真は歪んだままテーブルに落ちた。


 私は手についた粉を布巾で拭い、呼吸を整える。

「片岸さん、見てほしいものがあるんです」

「何だ?」

「祖父から渡されたものです。無理にとは言いません。私も何が入っているかわからないので……」

「見るよ」

 片岸さんは私を落ち着かせるように穏やかな声で言う。私は封筒を取り出し、刀を鞘から抜くように中の資料を引き出した。



 現れたのは拍子抜けするほど薄い、数枚のコピー用紙だった。折れ畳まれた紙面を広げ、片岸さんにも見えるように置く。


 最初の一枚は東京の地図だった。赤いペンで地名に矢印と走り書きがある。


 "庭取る神:荒川区・九十六年十二月二十一日"、"虚渡しの神:江戸川区・九十九年一月十五日"、"かかりの神:足立区・百二年六月二十三日"。


「東京に領怪神犯が出現した記録か……?」

「今までの調査の暗数を考慮すれば、おそらく実際はもっと多いはずですね」

 私は乾いた唇を舐める。最低でも三柱の神が確認されているのに、私たちは何も知らされていなかった。



 次の頁は虫のような染みが点々とついた和紙のコピーだった。古書のようだ。判読できない筆文字の横にボールペンで注釈が入っている。

 "現神(現つ神?) 対策本部に記録なし。特別調査課に要確認"

 私たちは無言で紙を捲った。



 "三原凌子、そこに在わす神の実用性について"

「三原さん、対策本部の調査員ですね」

「写真の女が書いたレポートみたいだな」


 朧げにわかるのは、扉型の領怪神犯について何度か実験を試みたが、何の成果も得られなかったということだけだ。


 文面は暗号のような文字や不規則な数字の走り書きが連続して意図が取りにくい。羅列された被験者の名前にひとつ見覚えがあるものがあった。


 "切間 蓮次郎れんじろう 出入りの後、僅かな記憶障害あり。現実の認識が不確か。神による影響か。"

「切間さん……」


 次の一文にはまた知らない名前がある。

 "烏有うゆう定人さだひと 異状なし。そこに在わす神の特異性は一日一回のみ効果を発揮するのでは。"

 "今までの被験者に起こった記憶障害を考慮し、そこに在わす神は記憶又は現実を改変する権能を持つと考える。要検証"


「これが神義省の持ってる神か……」

「何故、祖父は私にこれを教えようと思ったんでしょう」



 私が封筒を握ると、奥に貼り付いていたもう一枚の紙が剥がれ落ちた。こちらは更に印刷が粗く、黄ばんでいた。

 破れないよう注意深く皺を伸ばすと、中央に写真のコピーが貼られていた。


 車の中から隠し撮りしたような狭い画角だ。東京の街と雑踏が写っている。焦点は、人混みの中のふたりに絞られていた。


 左側は対策本部の写真にいた宮木という男性。私が知っているはずの、忘れた誰か。

 右側にいるのは一目では何者かわからなかった。私の知る彼は、いつも前髪を上げ、表情も服装もきっちりとしていたからだ。洗いざらしのアロハシャツで寝癖も整えていない、痩せこけた青年とは結びつかなかった。

 でも、紛うことなくこれは切間さんだ。随分古い写真だが全く変わっていない。



 写真の下の文字に目が釘付けになった。

 日焼けした長身の男性に紐付けされた"切間蓮次郎"の字。そして、私の知る切間さんの右側に"烏有定人"とある。


 片岸さんが声を漏らした。

「どういうことだ。左の男は宮木で、右が切間さんだよな? 今とは随分雰囲気が違うけど……」

 頭が熱い。記憶を焼き潰していた黒い焦げ跡が再び熱を持ったようだ。今の切間さんはあの男性に似ている。似せているのだ。


「宮木、大丈夫か。顔色が酷いぞ」

 片岸さんが伸ばした手から煙草の匂いがした。幼い記憶の中で、同じ匂いのする手が私の頭を撫でたことがある。顔を上げると、長身の背が作る影にすっぽりと覆われたのを思い出す。彼の口角を微かに吊り上げる不器用な笑い方を覚えている。

「お父さん……」

「宮木!」


 指先に錯覚ではない強烈な熱を感じて、私は弾かれたように紙を手放した。机に落ちた紙が一瞬で燃え上がる。片岸さんが咄嗟にグラスの水を被せる。燃え殻が燻りながら黒煙を上げて縮こまった。


 店員の女性が駆けてくる。

「如何なさいましたか?」

 答えられない私に代わって、片岸さんが手の平で燃え殻を覆い隠した。

「失礼、煙草の火を落としてしまっただけです」

 女性は不安げにこちらを伺いながら去っていった。


 蒼白な顔の片岸さんが私を見る。

「宮木、その手……」

 私の指先は赤く膨れ、爪の先が熱で歪んでいた。熱と痛みはほとんど感じない。頭の中が混乱で埋め尽くされていた。


 喉から引き攣った笑い声が独りでに漏れた。

「火合う神の仕業でしょうか……私が思い出そうとしたから……」

 片岸さんは布巾に氷水を付け、私の指先に被せた。

「とにかく冷やせ」

「ありがとうございます……」

「……宮木、何を思い出した?」


 私は布巾を握りしめる。火傷の痛みが遅れて訪れた。

「写真の中の彼、私の父だと思います」

「何だって? 生まれる前に失踪したんじゃなかったか」

「私もそう思っていました。でも、確かに覚えてるんです。何で今まで忘れてたんだろう……」

 じくじくと痛みが増す。何で今まで、切間さんは教えてくれなかったんだろう。



 片岸さんは煙草を取り出そうとしてやめた。

「宮木って男が親父ってことは……切間さんは……いや、お前の親父が切間か? 駄目だな、混乱してきた」

 苦笑の裏に隠した言葉はわかっている。彼が私の父親だったなら、今いる切間蓮次郎は何者なのか。切間さんは何故私の父と同じ名を名乗って、現在まで私を騙してきたのか。父は何故消えたのか。


「父は火合う神や知られずの神のような存在に消されたんでしょうか」

 片岸さんは目を伏せる。神に消されたんじゃない、人間にだ、と言いたかったのだろう。私もわかっている。信じたくはなかった。



 私は呼吸を整え、濡れた布巾を置いた。店の暖房が痛みを研ぎ澄ます。

「真実を確かめたいです。東京の領怪神犯のことも、父のことも、切間さんのことも」

「気持ちはわかる。でも、また今みたいなことが起こったら……」

「もう火合う神に目をつけられてるんですから、逃げられませんよ。大丈夫です。ついでに墨田さんや深川さんのことも探してきます」


 片岸さんは沈黙の後、意を決したように言った。

「俺も付き合う。もう全部忘れて蚊帳の外なのはごめんだ。実咲みさきのこともわかるかもしれないしな」


 座席からはまだ焦げる匂いが漂っていた。

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