一、●●●神

 調査の中止を請う前に、切間きるまさんから招集がかかった。


 火葬の炉を思わせる暗く狭い廊下を進み、最奥の部屋の扉を開く。私たちを出迎えたのは、切間さん、梅村うめむらさん、江里えさとさん、そして、見知らぬ黒服の男女だった。


 傍の片岸さんが頰を引き攣らせる。

「そちらの方々は……」

 切間さんは冷然と答えた。

「神義省だ」

 私たちは声もなく、影のように壁際を取り囲む彼らを見た。切間さんは暗く翳る部屋の中央で告げた。

「お前たちがこれ以上調査を続けられないことはわかった。ここからは神義省に全権を委任する」

「ちょっと待ってください。墨田すみだ深川ふかがわの安否は?」

「それも神義省が調べる」


 黒服の波を割って、山高帽を被った老人が進み出た。私は声を漏らす。

「お祖父ちゃん……」

「公私を弁えなさい」

 祖父は感情のない目で私を見下ろした。彼が私を見るときはいつもこの目だった。水を打ったようなざわめきが広がる。


 祖父は杖に縋って背筋を伸ばした。

「君たち特別調査課が越権行為をしたと切間から報告が入っている。我々神義省の記録を無断で閲覧したとか」

 六原さんが単調な声で返す。

「切間さん、記憶が正しければ、それは貴方が始めたことだったはずですが」

「言い逃れは聞かない。何故俺が調査員に規約違反をさせる?」

 片岸さんが奥歯を噛んだ。

「野郎……」


 切間さんは冷たい声で告げる。

「お前たちには無期限で謹慎を言い渡す。解雇でないだけ恩情だと思え。それと、穐津あきつ

 彼は最後列の穐津を睨んだ。

「会うのは初めてだな。お前は何者だ」

「……切間さんならご存知だと思います」

 穐津が平坦な声で返す。それを合図に黒服の群れが私たちを部屋から押し出した。


「待ってください! まだ……」

 私の言葉を遮るように扉が閉まった。先程までの喧騒が嘘のように隔絶される。

 片岸さんは苦々しく俯き、六原さんは扉の向こうの人々を射殺すような視線を投げた。穐津はただ立ち尽くしていた。


 ぎぃ、と呻きに似た音を立て、扉が細く開く。隙間から影が滲み出すように、祖父が半身を覗かせた。

「お祖父ちゃん、いえ、宮木みやき主任……」

 祖父は私を見つめる。黄斑の浮いた目が卵白のように透けていた。祖父は杖を左手に持ち替え、懐を探ると、一枚の分厚い封筒を取り出した。

「お前が覚えていないことがここに詰まっている。但し、何も知らずに幸せにいたいなら見なくていい」

 祖父はそう言い残すと、足を引き摺って私の横を擦り抜けた。私は渡されたものを握りしめる。紙しか入っていないはずの封筒が鉛のように重い。

 祖父の足音と杖が床を突く音が遠のき、やがて消えた。



 ***



 狭い部屋から黒服の群れが去った後、切間は深く溜息を吐いた。

 隣の梅村が小さく笑う。

「何だよ、自分が謹慎食らったみたいな面して」

 切間は机上で組んだ指を解き、顔を覆った。

「これじゃ凌子りょうこさんたちのやったことと同じだ。権力使って、無理矢理言うこと聞かせて、大事なことは何も教えなくて……まともな生き方からどんどん遠ざかってる」


 背後の江里が窓の外を見下ろして呟く。

「自分がどう思われようとしたの下の世代を守ったんだ。切間と同じだろ」

「……だったら、まだまともかな」

「俺は切間をまともだと思ったことはないがな」

「ひでぇ言われようだ」


 少年のように笑った切間の肩を、梅村が叩く。

「でも、どうするんだよ。火合う神に関してまだ何も解決してないぜ。本当に神義省に任せる気かよ」

「ある村に行ってくる。何とかできるかもしれない。昔散々俺たちの都合で振り回しちまったから、また頼むのは気まずいけどな」

 江里は視線を逸らして尋ねた。

「勝算はあるのか」

「どうだか、俺が消されるかもな」

 切間は椅子を引いて立ち上がった。



 ***



 家に着いた頃には、雨が降り出していた。

 午前中に帰れるなんて何年振りだろう。空の濃紺がカーテンから染み出して、部屋が憂鬱な色に染まっている。貴重な休みを有意義に使おうと思ってみたが、気分は晴れない。


 切間さんが私たちに濡れ衣を押し付けて謹慎処分にした。きっと考えがあってのことだ。それでも、前のように信頼することができなくなっている。


 分厚くて自立する白い封筒が墓標のようにテーブルに立っている。この中身を知らない方が幸せに生きられると祖父が言っていた。なら、何故渡したのだろう。

 祖父はいつも大事なことはひとつも話してくれなかった。私と母を守るためなのか、何の期待もしていないからかはわからない。神義省に呼ばれたとき、やっと祖父に期待されているのだと思えた。それも錯覚だったのかもしれない。


 焦げる匂いはまだ部屋に染み付いていた。窓の外をドロドロと流れる雨水は、炎の気配を消してくれない。

 封筒を開けるべきだろうか。こんなとき、相談できる相手がいない。



 冷え切った床の上で蹲ったとき、黒電話が鳴り響いた。私は慌てて受話器を取る。

「宮木、今話せるか?」

 片岸さんの声だった。



 待ち合わせの喫茶店の前で、私は傘を広げて待つ。

 一組のカップルが楽しそうに笑い合いながら、ドアを押した。店の明かりが路面に滲む。

 ビニール傘の表面を伝う水滴に、小さく歪んだ無数の東京が映っては、新しい雨粒に掻き消された。


「悪い、遅くなった」

 片岸さんが軽く頭を下げて傘を閉じる。私服を見たのは初めてだなと思った。



 喫茶店の照明は仄暗く、ラジオから流れるジャズが響いていた。

 ステンドグラスのランプが影を落とす奥の座席に座り、注文を終えると、片岸さんは灰皿を引き寄せた。

「急に呼びつけて悪かったな。せっかく降って湧いた連休だってのに」

「助かります。家にいても考え込んでしまうだけでしたから」


 彼は煙草を歯に挟んで笑い、すぐ表情を引き締めた。

三輪崎みわさきさんから連絡があった。こちらが辿り着いた火合う神の情報を交換条件に、切間さんが隠していることを訪ねたそうだ。結果は、概ね俺たちの予想通りってとこだ」

「と、いうことは……」

「切間さん曰く、神義省は人類の記録を改竄する力を持つ神を封印しているらしい。俺はその言葉にふたつ嘘があると思ってる」

「ひとつは記録ではなく歴史そのもの、もうひとつは封印ではなく収容した上で利用している点ですね」

「気が合うな」



 店員の女性がコーヒーをふたつ載せた盆を持って現れ、私たちは話を区切る。

 青磁のマグカップからのぼる湯気が店内を霞ませた。カウンター席で野球帽を被った老人が、競馬新聞片手にマスターと話し込む声が、ジャズの音に混じって聞こえた。


 片岸さんは煙草を挟んだ手で額を掻く。

「この前、梅村さんと組んで仕事をしたとき耳に挟んだ。俺たちの前身の対策本部は神の利用を目論んでいた。それが特別調査課になるとき、記録のみを目的にする組織に変わったらしい」

「方針を変えなければいけないほどの失敗があったのでしょうか」

「俺はそうだと踏んでる。話は変わるが……」



 片岸さんはひどく言い辛そうに俯いた。

 私は沈黙に耐えかねてコーヒーを啜る。苦味と酸味が口の中に張り付いた。上着のポケットに入れてきた封筒が、存在を主張するように脇腹を突いた。


 いっそ中身を一緒に見てもらおうかと思ったとき、片岸さんが口を開いた。

「俺もよく覚えてないんだが、知られずの神の調査から帰ってから、資料にこれが紛れ込んでることに気づいた」


 彼は一枚の写真を取り出し、机に滑らせる。

 セピアカラーの写真には六人の男女が写っていた。スーツ姿の男女三人、軍服の男性、私服の老女。右端の白衣の男性は、目元が梅村さんに似ていた。


「裏に各々の名前が書いてある。見てくれ」

 私は言われた通り、写真を裏返す。上田うえだ、梅村、三原みはら都賀つが冷泉れいぜい

「冷泉ってあのオカルト雑誌の……」

「その隣だ」

 文字のインクは掠れていたが、しっかりと読み取れた。宮木。

「その男、知ってるか?」


 記憶を堰き止めていたものが爆ぜ、脳内の回路に電流が走った。

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