三、火合う神

 煤の匂いがこびりついている。役所に漂っているのか、私に纏わりついているのかわからない。


 書庫に着くなり、深川さんが険しい表情で詰め寄ってきた。

「何か知っていますか」

 突然の言葉と剣幕に私が狼狽えていると、片岸さんが間に割り込んだ。

「急に何だよ。それじゃ何もわかんねえよ」

「昨夜から墨田さんと連絡が取れないんだ。最後にあったのは君たちだろ」

「墨田さんが……」

 喫煙所に残った人型の煤が脳裏を過ぎる。


 深川さんは一瞬憎悪の視線を向け、すぐに表情を打ち消した。

「君たちに話したのが間違いだった。僕個人で調べる。切間さんに聞かれたらそう伝えてくれ」

「待てよ、冷静に……」

 彼は片岸さんの制止を振り切り、私に身体をぶつけて去っていった。


「何て奴だよ……大丈夫か?」

「全然大丈夫ですよ。それより墨田さんと深川さんの方が心配です」

 私は硬い衝撃が残る肩を摩る。指先から焦げた匂いがした。手の平に黒い煤が尾を引いて、私は思わず後退った。


「どうした?」

 片岸さんは私の手を見て、目を見開く。私はスーツの裾に汚れを擦り付けながら言った。

「片岸さん、喫煙所に来て、確認してほしいものがあるんです。私がおかしいのかどうか、もうわからなくて……」



 喫煙所の壁には茫洋とした跡があった。清掃員が拭き取ろうとしたのか、昨日より薄れていた。いるはずのない誰かの影だけが差しているように見える。

「昨日、墨田さんのいたところです。それから、私のマンションの階段にも同じものが……」

「例の炎の領怪神犯か? だとしても、役所や調査員にまで影響が及ぶなんて今まで……」

 片岸さんは沈鬱に呻き、私の肩を叩いた。

「宮木、これ以上関わるのはよせ。何があるがわからない。深川にも調査を止めさせる」

「でも……」



 廊下の隅から靴音が響き、六原さんと三輪崎さんが顔を覗かせた。

「葬式帰りのような顔だな」

「年中喪中みたいなあんたに言われたくねえよ……」

 片岸さんが悪態をつく。三輪崎さんが柔和に微笑んだ。

「隣ええかな?」

「勿論です……六原さん、あんたは吸わねえだろ」

「宮木も喫煙者ではないはずだが」

 片岸さんは舌打ちすると、私の方に身を寄せて空間を空けた。



 紫煙が窓外の東京を霧の都のように霞ませる。私たちの話を聞いた六原さんは、静かに言った

「あれから例の切り抜きの記事に近い年代の領怪神犯で炎に関わるものを調べた。ふたつあったがいずれも問題なしと処理されている」

「ふたつって?」

「ひとつは火中の神。これはある村の中でしか権能を持たないらしい。もうひとつは東京下町で観測された火合う神だ。これが炎男の正体だろう」

「その特性は?」

「ただ人型の炎が巷を彷徨いているという記録だけだった。怪談の幽霊にも及ばない」

「善でも悪でもない、まさに領怪神犯だな」

 片岸さんは眉間に皺を寄せる。


 六原さんは独り言のように呟いた。

「貴きも賤しきも善も悪も、死ぬればみな此ノ夜見ノ国に往く」

「何だって?」

「古事記だ。善人も悪人も死ねば皆黄泉の国に生き、世の中の悪いことは全て黄泉の国の穢れから来ているのだと」


 私は黙り込む片岸さんに代わって返す。

「昨日六原さんが言っていた穢れの話ですね。イザナギが冥界下りから帰って払った穢れが、この世の穢れを司る禍津日神になったとか」

「そうだ。穢れは悪ではなく、病や怪我、死など避けられない凶事を指す。俺たちから見れば悪いことでも、神にとっては必然の結果だ」


 片岸さんは煙草を歯に挟んで六原さんを睨んだ。

「だったら、火合う神についての調査で何があっても受け入れろってか?」

「まさか。ただ何の特性もない神に見えても、俺たちに計り知れない権能があるかもしれないと思っただけだ」

「回りくどいんだよ」



 三輪崎さんが細い煙を吐いて苦笑した。

「話聞いてて思うたんやけど、火合う神と知られずの神は何かしら関係があるんやろか」

「どういうことですか?」

「知られずの神の周りでは失踪事件が起こっとる。火合う神について調べた調査員が消えとる。何や繋がってそうや思うて」


 彼は眼鏡の奥の瞳を鋭くした。

「三人とも知られずの神を調べて、どう思いました?」

 片岸さんはかぶりを振る。

「どうって何も……」

「何もなかったんやなく、あったことを覚えていられんと違うんかな」

 私は息を呑む。頭の中に空いた空洞に冷たいものが流れ込んだ気がした。


「僕は任務の後、もう一度個人的に調査に行った。そんで、補陀落山の旅館を訪れたとき、お客さんが記念に書き込むノートみたいなもんがあって……そこにな、自分の字で四回目って書いてあったんや。それから、僕はおかしゅうなってしまって、そんで休ませてもらったん。あのまま補陀落山にいたらどうなっとったんやろな」

「……知られずの神は人間の記憶を消す神だということですか」

「わからへんけど、その線はあると思う」



 六原さんの視線が刃物のように尖る。彼がこれほど表情を変えるのは初めてだった。傍の片岸さんが蒼白な顔で唇を震わせた。

「だったら、宮木の記憶が消えたのは俺のせいじゃないか。俺が調査に付き合わせた……」


 私はかぶりを振る。

「片岸さんのせいじゃないですよ。私の仕事でもありました。それに三輪崎さんは補陀落山から戻ってから回復したんですよね? だったら、東京で起こってる調査員の失踪とは関係ないはずでは」

「僕も確かなことは言えんけど、知られずの神が他の領怪神犯と同じように力を増しとったら、不可能とは言えんと違うんかな」

「違いますよ」



 平坦な声が響いた。

 廊下の隅で、影に溶け込むように佇む、色素の薄い女性の姿があった。

「穐津さん……」


 穐津は私たちへ歩み寄ると慇懃に礼をした。片岸さんが煙草を折る。

「お前……探したぞ」

「申し訳ありません。急遽前職の引き継ぎがあってお休みをいただきました」


 私は穐津の袖を引いて、三輪崎さんの前に押し出す。

「彼女が昨日お話しした、領怪神犯の記録に詳しい調査員です」

「ああ、どうも……さっき違うって言うてはったね」

「立ち聞きした上、割り込んで申し訳ありません。知られずの神は仰る通り、人間の記憶の抹消に関わる神です。それが全てではありませんが」

 六原さんは鋭い目つきのまま彼女を見た。

「何故断言できる?」

「……知っているからです。これ以上は言えません」


 穐津は言葉を区切り、顎を上げた。

「そして、知られずの神は補陀落山以外で権能を発揮することはありません。それは現時点でも変わっていません」

「ならば、何故……」

「火合う神が、知られずの神に似た権能を持っているためです」


 私たち四人は言葉を失った。穐津は色素の薄い目で私を見る。

「宮木さん、だって、貴女が記憶を失ったのは補陀落山から戻ってからでしょう」

 言葉が詰まって喉から出なかった。片岸さんが視線を泳がせる。

「確かに、お前は調査から戻った後もここで何か妙なことを言ってたよな」

 思い出せない。それでも、不安より、片岸さんの顔に血の気が戻った安堵が勝った。彼がこれ以上自分を責めることはあってはいけない。


 三輪崎さんが煙草の灰を零す。

「でも、何で火合う神がそんなことになっとるんやろか」

 雑誌の切り抜きと壁に残る煤の跡が栓を結んだ。

「東京大空襲……」

「宮木?」

「あの記事で、火合う神は空襲の脅威から生み出されたものだと考察されていました。ひとの営みを全て焼き払った炎が、人間の記憶や存在を消し去る領怪神犯になったのでは」

 穐津は目を伏せて頷いた。もし、そうだとしたら。墨田さんも、深川さんも、私も。


 片岸さんが低く唸る。

「調査はここまで。一旦切間さんに伝えよう。俺たちに危険が及ぶとわかったらあのひとも断行しないだろ」


 頭上を這い回る煙が、澱のように重く垂れ込める。

 墨田さんに次いで、深川さんも消息を絶ったと知ったのは、翌日のことだった。

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