二、火合う神

 穐津はとうとう一日中現れなかった。片岸さんは「研修期間中に無断欠勤とは期待の新人だ」と笑っていた。


 帰路に着く間、私はわざと賑やかな商店街を通った。飲み屋の赤提灯のとろりとした明かりが夜闇を溶かし、バスロータリーを行き交う学生が本屋の袋を片手に笑い合っている。

 水面下で何が起きていても、ここだけは平和に見えた。


 自宅のマンションに着き、階段を上る。切れかけの蛍光灯に虫がぶつかり、明滅した。私はふと足を止めて今来た道を振り返る。階段に泥まみれの靴跡がついていた。擦れたような黒い跡は、私の踵に続いていた。

 私は靴を脱いで裏側を確かめる。劣化していたが、汚れてはいない。踊り場に焦げたような匂いが漂った。この跡は泥ではなく、煤だと思った。



 翌朝、出勤するまで気が晴れなかった。鼻腔に煤の匂いが染み付いているような気がする。


 私は努めて平静を繕い、書庫を訪れた。スチールの書棚の間に、昨日のメンバーと、見慣れない男女がいた。三輪崎さんが私を見留めて手を振る。

 彼らが昨日聞いた、切間さんから神義省の調査を任されたふたりらしい。


 色白でループタイを結んだ、中性的な男性が会釈する。

深川ふかがわです。元は文化振興課にいたけど、歴は片岸さんと同じくらいかな」

 隣にいた長身の女性が朗らかに笑った。髪で隠した耳朶にピアスが三つ並んでいた。

「元オカルト雑誌記者の墨田すみだです。雑誌にはあることないこと書いたけど、こっちの調査はちゃんとやってるから心配しないでね!」

 私は礼を返す。和やかな空気だが、どこからか滲み出す煤の匂いが強くなった気がした。



 深川さんがブリーフケースから資料を出す。

「まず僕から。神義省と領怪神犯の関わりについて調べる上で気になった点があるんだ。これは神義省のある場所の入場記録だけど……」

 六原さんが口を挟む。

「ある場所とは?」

「表向きは書庫ということになっているけれど、違うと思う。この入場記録の日時と、領怪神犯についての記録で誤謬があった調査日がほぼ一致してるんだ」

「ここで記録の改変が行われたということか。もしくは、記録以外のものの改変か……」

「正直、歴史を改変できる神がいるというのはまだ信じてないよ。それより、もっと気になることがある。これを見て」


 深川さんが紙面を捲り、最後の頁で止まった。細い指がさす文字を見て、私は声を漏らす。入場記録には、切間蓮次郎の名前があった。

「切間さんが、どうして……」

「この記録を根拠にするなら、彼も神義省や記録の改変と関わっていることになる」


 私は混乱する頭で必死に言葉を紡いだ。

「そんなはずないですよ。だったら、何故三輪崎さんたちに調査をさせたんですか?」

「罠にかけようとしてるのかも」

「罠って……」

「彼から調査を言い渡されたメンバーが何人か消息を経っているんだ。記録ごと消えているひともいる。僕は切間さんを全面的に信用してる訳じゃない」

 言葉を失う私に、深川さんは冷然と首を振った。生温い書庫の温度が急速に下がっていくように感じた。


 三輪崎さんが独り言のように呟く。

「そんなら、東京のど真ん中におるのは別の神やないですか」

「どういうことです?」

「切間さんは神義省の神については既に掴んではる。その上で、別の危険な神の存在を掴んで、僕らに調べて欲しがってるんと違うかな」

「流石に無理筋ですよ」

 深川さんは不服そうに黙り、ループタイのカメオを弄んだ。



 墨田さんがあっと声を上げた。

「これ、何かの手掛かりになるかしら」

 彼女が鞄から取り出したのは、くしゃくしゃの紙だった。古い雑誌の切り抜きのコピーだ。大きく記された「続・怪奇!東京に潜む炎男」の見出しとフォントが旧時代的だった。


 片岸さんが乾いた笑い声を漏らす。

「墨田さん、何ですかこれは」

「私がライターをやってた雑誌社で出版されたものよ。『テリブル日本』ってオカルト誌。二十年前に廃刊になって、今は『ワンダーテリブル日本』って名前で復刊されたの。これは旧版の頃の記事ね」

「すごい名前から更にすごい名前になったな」

「『テリブル日本』は今ほぼ現存してないけど、この切り抜きだけは切間さんが持ってたのよ。眉唾ものの三文記事にも領怪神犯の情報が隠されてるって」


 墨田さんは切り抜きを広げて見せた。

 一見よくあるオカルト雑誌の特集だが、古今の宗教や民間信仰まで詳しく調べられていた。

 記事によれば、当時の東京で炎男と呼ばれる怪異が目撃されていたらしい。

 後半で述べられている、東京大空襲と都市伝説の関連は、私たちが領怪神犯についての調査で行う考察に近いものだった。


 三輪崎さんが感嘆の声を上げる。

「よく調べてはりますね。このライターさんに連絡を取れへんやろか」

 墨田さんは首を横に振った。

「雑誌社でもこっちでも調べたけど全く消息が掴めないのよ。あの頃はコンプライアンスが緩いから記者の失踪なんてよくある話だったしね」

 片岸さんは難しい表情で文末の記者名を読み上げた。

「冷泉か……」

「片岸くん、何が知ってるん?」

「いや、何でもないです」

 片岸さんはそれ以上答えなかった。



 深川さんがまだ納得いっていない顔で呟く。

「オカルト雑誌の記事ごときを手掛かりにするのは気がひけるな」

「あら、喧嘩売ってる?」

「墨田さんに言ってる訳じゃないよ。ただ、これだけで領怪神犯と見なすのは早計だ」


 六原さんが淡々と割り込んだ。

「俺はそうは思わない。この記事の通り、火と神は密接な関係がある。特に日本神話で多くの神を産み出したイザナミの死因となったのも火の神だ。イザナミの死は夫であるイザナギの冥界下りや、人間の生死、穢れの発生にも繋がる。強大な領怪神犯として東京の中枢に潜んでいても不思議はない」

「どうでしょうね。問題なのは、この神を調査していた者の失踪だ。それが神によるものが人為的なものか。より踏み込むなら最も僕達が危険視すべきなのはそこですよ」


 私は少し迷ってから言った。

「領怪神犯の記録を網羅するほど記憶力のいい調査員を知っています。彼女に全貌は明かさず、それとなく聞いてもいいでしょうか」

「どうぞ、その方を信用できるなら」

 深川さんは肩を竦める。片岸さんは大きく溜息を吐いて肩を回した。

「いちいち突っかかるなよ。それじゃあ、また穐津探しの旅だな。ついでに煙草吸ってくる」



 私と片岸さんが喫煙所に着くと、墨田さんが現れた。

「ご一緒していい?」

「どうぞ」

 ガラス窓を背に三人で灰皿を囲む。墨田さんは外国のタールの重い煙草を吸いながら微笑んだ。

「ごめんね、深川くんピリピリしてたでしょ。失踪した調査員には彼と仲が良かったひともいるの。それで、切間さんと関係のあるひとには強く当たるみたい。宮木さんは関係ないのにね」

「いえ、お気持ちはわかります」

「切間さんからあの切り抜きをもらうとき、ちょっと聞いてみたの。記者の冷泉さんのこと何か知ってるみたいだったから。結局教えてもらえなかったけど、何でかな、悪いことを隠してるとは思えないのよね」

「私もそう思います。切間さんは私たちを巻き込まないようにしたくて、でも、探らなきゃいけないこともあって、それで苦しんでるように見えます」

「よかった。彼にも理解者がいて」

 彼女は髪を掻き上げた。三つのピアスが鈍く光った。


 墨田さんは腕時計を見た。

「いけない、報告書の提出があるんだった。またね」

 彼女は半分残った煙草を灰皿に放り込み、慌てて駆けていく。

「慌ただしいひとだな」と片岸さんが苦笑した。私も笑みを返そうとして、硬直した。


 墨田さんがもたれていた壁と窓ガラスに、人型の黒い汚れが染み付いていた。

 まるで、今さっきまで焼死体が置かれていたように。

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