一、火合う神

 この仕事についてから、全てを見る目が変わった。

 土地も、暮らしも、ひとびとも。

 電車の窓に夏山と鳥居が映ったとき、神社の夏祭りに向かう浴衣姿の親子を見たとき。何の変哲もない風景に、善悪も人智も超えた神が潜んでいるのを想像してしまう。


 私が気づかないだけで、この国は昔からそうだったはずだ。私自身が変わっただけ。

 こうして見る切間きるまさんの横顔も、子どもの頃、ラーメン屋の座席で見たものとは別物になってしまった。



「白長の神と見上みかみ家、いずれも狙いは特別調査課か」

 切間さんは会議室の机の上で腕を組む。

「見上家の娘さんは白長の神に祟られ、私たちを連れてくれば見逃すと言われたそうです。結果は……」

「お前らの仕事は生贄になることじゃない、記録を持ち帰ることだ」

「はい……」

 そう答える私の脳内に、岩場に反響した絶叫と温かい血の雨が生々しく甦る。まだ鼓膜の裏側で白い百足が這い回っているようだ。



 切間さんは硬い表情のまま言った。

「いくら領怪神犯と関わりがあるとはいえ、一般人が俺たちの情報に辿り着けるとは思えない。宮木、お前はどう見る?」

「突拍子もないと思うかもしれませんが……領怪神犯が私たちを脅威に感じて排除しようとしているのでは」

「俺も同意見だ。領怪神犯の報告が増えたのは九十六年以降。俺たちが本格的に知られずの神の調査を始めてからだ」

「では、全ては知られずの神が仕組んでいるということですか」

「……いや、知られずの神にそんな力はない」

「でも、あの神の全貌は殆どわかっていません。私たちが把握していないだけで、可能なのではありませんか」

「それはない。悪いが、これ以上はお前にも言えない」


 切間さんは僅かに唇を噛む。私が父について尋ねたときと同じ顔だ。古傷が疼く痛みを堪えるような顔を見て、私はそれ以上聞けなかった。


 切間さんはポケットから煙草を出し、中身を出さずに箱の縁をなぞった。

「そういえば、穐津あきつはどうした」

「今日はまだ会っていません。連絡先も知らなくて」

「そのくらいの距離を保て。奴は俺を介さず、神義省から直接配属された。出自も不明なところが多い。信頼しすぎるのもよくないだろう」



 私は会議室を出て、暗い廊下を進んだ。

 私の中で不安や混乱が膨れ上がっていくのに、身体の真ん中には穴が空いて、何かが絶えず零れ落ちていくように感じる。

 ふと、焦げくさい匂いが漂った。


 廊下の果てには喫煙所がある。でも、これは紫煙というより何かを燃やした後の匂いだ。火の不始末かもしれない。

 私は資料片手に煙草を吸う片岸かたぎしさんが、よく紙面に灰を落としかけていたことを思い出した。彼に会って話をしたくなる。



 足を進めると、喫煙所の方から潜めた声が聞こえた。

「穐津さんは今の段階では呼ばん方がええな」

「皆警戒しすぎじゃないですか」

「神義省の人間だ。当然だろう」

 片岸さんと六原ろくはらさん、最近復職した三輪崎みわさきさんの声だ。

「それと、片岸くんには悪いけど、宮木さんにも会わん方がええ。あの子も同じやろ」


 心臓を直に殴られたような気分に、足が止まる。三輪崎さんの疑念は正当だ。私が彼の立場でもそう思う。

 いっそ、私が神義省で知ったことを覚えていれば、疑いを覆せるくらい力になれたかもしれないのに。何もない肩に無力だけが募る。今日ここに来なかった穐津も、私と同じ気分でいるのだろうか。


 片岸さんがはっきりと答えた。

「宮木は信頼できますよ。自慢じゃないが、俺は何度か規則を破って私情で調査を行った。上層部の息がかかった人間ならとっくに俺を見捨ててるはずだ。でも、宮木には何度も助けられました」

 私は立ち尽くしたまま胸を抑える。視界が滲んで、パンプスの爪先に反射する蛍光灯がプリズムのように砕けた。


「まあ、片岸くんが言うなら……」

 三輪崎さんの声に重ねて、六原さんが言った。

「だそうだ。もう出てきていいぞ」

 私は再び呆然とする。慌ただしい足音の後、廊下の角から三人が現れた。


 私は咄嗟に馬鹿みたいな笑顔を作ったが、上手くできたかはわからなかった。

「どうも、今来たばかりで……何のお話ですか?」

 片岸さんと三輪崎さんの気まずそうな顔で、上手くできなかったことがすぐわかった。六原さんだけはいつもの無表情だった。



 私たちは薄暗く冷たい空気が漂う、霊安室のような書庫に集まった。


 三輪崎さんは背表紙にラベルのないファイルが並ぶ棚に背を預け、溜息をついた。

「領怪神犯が僕らを狙っとる。そんで、いろんな神をけしかけてる……その元凶が切間さんの言ってはったもんやろか」

「切間さんが?」

「この際言ってしまうけど、僕が調査を任されたんは神義省そのものやない。あそこが抱えとる神についてや」


 私と片岸さんは同時に息を呑んだ。片岸さんが裏返った声で言う。

「待ってください。じゃあ、切間さんは東京の中心部に領怪神犯がいて、神義省がそれを利用してると思ってるんですか」


 六原さんが能面のような顔で答えた。

「有り得ない話じゃない。人間がいるところに信仰は生まれる。最もひとが集まる東京に領怪神犯がいないと考える方が不自然だ」

「あんた、簡単に言うけどな……」

「古くは天皇の権威付けに神が利用された。現在の首都で同じことが行われているなら、その神はとてつもない力を持っているだろうな」

 片岸さんが絶句する。



 私は小さく手を挙げた。

「それ、私が穐津さんから聞いた話と関わりがあるかもしれません」

「穐津から?」

「はい。詳しくは聞けませんでしたが、世界の歴史を丸ごと改変するほどの力を持った神がいるのではないかと言っていました」

「何だよ、それ……」

 三輪崎さんが自分の唇を指でなぞる。

「信じたくない話やけど、仮にそうだとしたら、片岸くんに見せた資料の妙な年号や年代のズレも納得いくわ……ああ、後でふたりにも見せなあかんね」

 私と片岸さんは目を逸らした。既に見たとは言わないでおく。


「でも、それやったら、実際に神が何かしらやったとしても、僕らには気づけへんやろな」

「資料に残された僅かな違和感から探していくしかありませんね」

「僕の他にも切間さんから調査を任されたひとがいてるらしい。連絡してみよか」

「私も資料を探してみます。片岸さんはどうしますか?」

「俺は元々神道も民俗学も素人の範疇だからな。いつも通り足で稼ぐか。まずは穐津を探そうぜ」



 私と片岸さんはふたりに会釈して書棚を抜けた。静まり返った書庫に暖房が駆動する音が響き、温風が埃の匂いを巻き上げる。

 背後から三輪崎さんの声が聞こえた。

「しかし、そないな神が僕らを睨んどるとして、太刀打ちできるんやろか。知られずの神の調査もろくにできてへんのに」

「できなくてもやるしかない」

 六原さんが静かに答えた。

「妹について義弟も奪う気なら、神でも地獄に堕ちるべきだ」

 片岸さんが口をへの字に曲げた。

「好き勝手言いやがって……」



 無機質な書庫を歩みながら、片岸さんは独り言のように言う。

「宮木、答えられないなら無理に答えなくていい。神義省の神について何か知ってるか? お前、たまに変なこと口走ってたよな。第三次世界大戦とか」

「……知っていたと思います。でも、思い出せないんです」

「そういうことにしておくか」

「違うんです!」


 私は思わず声を上げた。片岸さんが足を止めて振り返る。

「すみません。知ってれば協力できたのにと思ってます。私が疑わしいのも自覚してます。でも、自分で嫌になるくらい何も思い出せないんです……」


 彼は穏やかな目で私を見下ろし、肩を叩いた。

「働きすぎで呆けたんだな。だったら、しょうがねえ」

 温かい手だった。片岸さんはふと目を丸くし、私の肩を叩いた手の平の匂いを嗅ぐ。

「……臭かったですか?」

「いや、お前煙草吸わないよな?」

 私が頷くと、彼は眉間に皺を寄せた。

「焦げたみたいな匂いがした」


 火気のないはずの書庫に、煤が漂うような匂いが鼻をついた。

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