三、白長の神
「穐津さん、今の……」
「うん、報告書にあった領怪神犯だ」
私は冷水が背筋を伝うような感覚を覚えながら思い返す。どこかで、あれを見たことがある。
穐津は電柱の影を見つめて言った。
「谷には行かない方がいいかもしれない。見上の娘さんが特別調査課を知っていた。情報が漏洩しているなら不測の事態が起こりかねないよ」
「私は行きますよ」
「どうして?」
私は柿が詰まったビニール袋を抱えた。
「私たちは東京に逃げ帰ることができます。でも、ここに住んでいるひとたちは違う。自分だけ安全ならそれでよし、なんて思えませんから」
「宮木さんは優しいし、責任感もある。そっくりだ。だから、心配なんだよ」
穐津は独り言のように呟いた。
「そっくりって、誰にですか?」
私の問いは、けたたましいエンジン音に遮られた。
先程の老夫婦のトラックが目の前で停まる。タオルを巻いた老人が顔を覗かせた。
「また会ったなあ」
私たちは曖昧に頷く。彼の妻も背中の痛みを訴えていた。ふたりも白長の神の祟りを受けているとしたら。
助手席に老女の姿が見えた。私は平静を装って聞く。
「もうお加減は大丈夫なんですか?」
「お陰様で。年だから仕方ないのよ。もう湿布も貼ってるから」
彼女は割烹着の襟を下げて、湿布を貼った首と背を見せた。乙女の背中とは違う、コブも腫れもない。
老人は何の衒いもなく笑う。
「心配してくれてありがとうなあ。まだお仕事なんだろ? 荷台でよけりゃ乗っけて送って行こうか?」
私が逡巡している間に穐津が答えた。
「調査で清水の湧く谷に行かなければいけないんです」
「あんなところまで大変だなあ。いいよ、乗りな」
私と穐津はトラックの荷台に乗り込み、隅に溜まった泥から逃げるように身を寄せ合う。折り畳まれた緑の幌に水滴が溜まって、一匹の蜘蛛が雫を啜っていた。
トラックが走り出し、車体が激しく揺れる。音も振動も、真横でマシンガンを連射されているような気分になる。私たちは荷台にしがみつき、騒音に紛れ込ませるつもりで呟いた。
「穐津さん、話したいことがあるんです」
「この状況で?」
「聞こえないくらいでいいんです。情報漏洩ですから」
「……じゃあ、聞こえていないことにするね」
私は高速で左右を流れていく田園を見つめながら、片岸さんから見せられた資料について話した。穐津は振動に揺られつつ、時折しっかりと頷いた。
畦道を抜け、険しい下り坂に差し掛かり、揺れが激しくなる。頭上を覆う黒い木々から葉が落ちて、私の膝に乗った。穐津はそれを払って言った。
「それらの年号は、本当にあったものかもしれない」
「どういうことですか?」
「例え話だけど、寝る直前に麻酔を打たれて家から運び出されて、一晩の間に家を壊されて、家具も造りも全部そっくりに作り直されて、再び部屋に運び込まれてベッドで目覚めたら、そのひとは気づくかな」
「……気づけないと思います」
「うん。でも、元の部屋を完璧に再現することはできないから、何処かで微細なズレや形跡が生じる。それが、その記録なんだと思う」
私は乾き切った唇を舐めた。突拍子もない話なのにどこかすんなりと腑に落ちた。ずっと前から知っていたことを確かめたような気がする。
「穐津さんの例え話と同じように、私たちの知らない間にこの世界の何かが変わっているということですか。歴史ごと全く別のものになってしまうような……」
私は答えない穐津に畳み掛ける。
「領怪神犯が関わっているんですか? それとも、特別調査課に携わる神義庁が?」
「私にはこれ以上言えない。宮木さんが自分で辿り着いてほしい。知るべきかはわからないけど」
穐津は泥道に続くトラックの轍を見つめた。
私は荷台の縁を握る。
「そんな神がいたとして、人間に利用できるんですか?」
「そう難しいことじゃないよ。古来、神はこんな山そのものが神体とされて、境として山麓に鳥居があるくらいだった。それが、神社が造られるようになって、神は人間の生存圏の狭い場所に閉じ込められた。いや、閉じ込めたと思い込んでるだけかな」
トラックのタイヤが石を踏んで、突き上げるように荷台が跳ねた。振動が止まる。運転席から老人が身を乗り出した。
「着いたぞお、谷にはここから降りられるよ」
私たちは荷台を降り、何度も礼を言った。夫婦が優しく笑う。
「暗いから気をつけな」
「大変よねえ。見上さんに言われてきたんでしょう?」
私は硬直する。
「何故そう思うんですか?」
夫婦は顔を見合わせて言った。
「だって、この谷の権利を持ってるのは見上さんだものね」
「そうだよ。昔、見上の家は神社だったから今もここを管理してくれてるんだ」
トラックが去っていく。けたたましい音が谷底の静寂に呑まれた。
「見上さん、そんなこと一言も言ってなかったよね」
「はい。それに、ここまでの道のりは長らく誰も通っていないように見えました。祟られたひとを谷に置いていく文化があるなら、もう少し形跡が残ると思います」
穐津は私の意志を確かめるように視線を流した。
「行きますよ。真実を確かめましょう」
私たちは岩に覆われた坂道を降った。一歩進むごとに光が薄れる。暗闇に浮かぶ岩の輪郭が、積み重なった頭蓋骨を思わせた。
足を取られないよう、両脇の石に手をついたとき、手の甲をぞわりとした感触が撫でた。節足動物が横切ったように。私は唇を噛み締め、不安を押し殺して進む。
坂道が終わり、爪先が平板な石を踏んだ。
辺りを見回すと、長年の風雨に削られた石の柱が頭上の闇を突き上げる、暗渠のような空間だった。
何処からか雫が垂れて石を打つ音が響く。それに混じって何かを擦り合わせるような音が響いてきた。かさこそ、かさこそと、鼓膜をくすぐられているような不快な音。
暗闇に慣れた目が音の正体を捉え、喉から呻きが漏れた。黒い闇に無数の引っ掻き傷を作ったように、ひとの背丈ほどある白く長いものが沢山這い回っている。
「百足……」
「違うよ。宮木さんもわかっているでしょう」
私は頷く。あれは、東京で見たものと同じだ。
「ずっと気になってたの。何故伝説の大百足はわざわざ二十四の節があると記されていたのか」
穐津が暗闇を睨んだ。
「そろそろ出てきたら」
岩柱から細い人影が覗いた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「何でわかったの……」
乙女を先頭に見上夫婦が立っていた。
私はかぶりを振る。
「どうして……」
「神様が、特別調査課のひとたちを連れてくれば見逃すって」
「私たちは神を調査して、原因を……」
見上の妻が金切り声を上げた。
「それだけじゃない! 調べて終わり、他に何をしてくれるの!」
たじろいだ私を、乙女が敵意の滲んだ瞳で睨んだ。やつれた顔の眼窩から双眸が零れ落ちそうだった。
「助けてくれる気があるなら、代わってよ」
私の代わりに穐津が言った。
「できない。私たちは記録を持ち帰らなければいけないから」
「嘘つき」
乙女が身体を痙攣させた。薄い腹がぼこりと抉れる。彼女の首筋から、虫が蛹を破って羽化するように何かが突き出した。
何故伝説は終わらなかったのか。何故大百足は生贄を求めたのか。何故祟られた者は背中が腫れ上がるのか。二十四の節はあるものの数と同じ。
白長の神の神体は、人間の背骨だ。
「乙女!」
夫婦の絶叫がこだました。降り注いだ雫が額から頰を伝う。水より粘度が強く、温かく、黒かった。
闇の中で崩れ落ちる乙女の身体と、首筋から白く長いものがしゅるりと出て行くのが見えた。
穐津が私の手を掴み、一気に駆け出す。
岩の隙間からぞばっと白い虫が這い出した。夫婦の悲鳴と、柔らかいものや硬いものを削る音が聞こえる。
穐津に引き摺られて走る私の後ろを、かさこそと無数の足音が追った。
岩場から薄く射した光が、私の身体から垂れる乙女の血がを照らす。赤い百足が這っているようだ。
最悪の結果になった。穐津ひとりならもっと上手く立ち回れただろうか。片岸さんがいれば何か違っただろうか。
私たちは捻れた道を駆け上がり、果ての見えない岩の迷宮から飛び出した。
辺りは谷底と同じくらいに暗くなっている。私は呼吸を整え、血塗れの顔を拭った。いつの間にかパンプスが片方脱げて裸足になっている。
「すみませんでした……」
「宮木さんは悪くないよ」
「悪いですよ。何もできないどころか最悪の結果になって……私が来なければ……」
鮮明なヘッドライトの灯りが闇を切り裂いた。
私たちは目を細める。獣道の向こうにあのトラックが停まっていた。
老夫婦が降りてきて声を上げた。
「どうした、大丈夫かあ?」
「あら、怪我してるじゃない!」
私は慌てて表情を繕う。
「どうしておふたりがここに?」
老人が笑顔でビニール袋を持ち上げた。
「柿、車に忘れていっただろ」
「あなた、手当ての方が先ですよ」
眩しいライトが夜闇を塗り替えていき、私は泣きたくなるのを堪えて、精一杯頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます