二、白長の神

 調査を言い渡された村は、よくあることだが、一見では何の変哲もなく見えた。


 アスファルトで舗装された広い道の左右には田んぼが広がっている。ロードミラーが電線と民家のブロック塀を歪めて写した。足を止めて見上げる私の疲れた顔も歪んでいた。



 雀が松の木に刺された柿の実を啄んでいた。穐津が穏やかな目で呟く。

「長閑だね」

「はい、退職したらこういうところで過ごしたいって思うような村ですよね」

「宮木さん、隠居したいの?」

「まだまだ先の話ですよ!」

 穐津が少し口角を上げた。


 向こうからトラックがガタガタ音を立てて進んでくるのが見えて、私たちは路肩に避ける。

 傷だらけの車体が目の前で停まり、タオルを頭に巻いた老人が顔を覗かせた。


「あれ、村のひとじゃないね?」

 口調に排他的なところはなく楽しげだった。私は頭を下げる。

「土地の調査で東京から参りました」

「東京は美人が多いんだなあ」

 穐津が無言で目を逸らす。老人はハンドルの下からビニール袋を取り出して私たちに渡した。

「うちで取れた柿、食べてみな」

「いいんですか、ありがとうございます!」

「ここは何もないけど、米と果物は美味いよ。頑張ってね」

 老人は満面の笑みを浮かべてトラックを発進させた。


「初対面なのにいいひとでしたね」

 私が話しかけても穐津は答えなかった。彼女の視線はトラックの荷台に注がれていた。

「どうしたんですか?」

 穐津が指さす。私は目を疑った。

 荷台にかけられた緑の幌が微かに盛り上がっている。その裾から白くパサついた毛髪が覗いていた。


 呆然としていると、すぐにトラックが停まり、先程の老人が降りてきた。私と穐津は咄嗟に身構える。

 彼は笑顔のまま進み、自ら幌を捲り上げた。

 小豆色の割烹着を着た老女が腹を押さえて蹲っていた。

「心配してくれたんだよなあ。悪い悪い、うちの女房だよ。畑仕事してたら背中が痛いって倒れちまって」

「そ、そうなんですね……」

 私は頰を引き攣らせながら答える。老女は視線を上げ、気まずそうに目礼した。


「隣に座らせようと思ったのに、寝転がりたいって言うからよお。うちに帰って早く寝かせないとな」

 老人はまた幌を戻して妻を覆い隠した。


 トラックが再び発進した後も、私たちは立ち尽くしていた。穐津が低い声で言う。

「今回の調査の依頼人に会いに行こう」

 私は顎を引いて頷いた。



 黄色と黒のカバーを巻かれた電柱、歯科医の錆びた看板、補助輪付きの自転車が停まった庭。

 穏やかな光景を抜けた先に、目的の家があった。


 低い塀の周りには猫避けのペットボトルと赤い花の鉢植えが置かれている。

 磨りガラスの戸が開き、品のいい中年の夫婦が私たちを手招きした。



 樟脳の匂いがする廊下を抜け、玉暖簾を潜ると、ちゃぶ台のある居間が現れた。数十年前から時が止まったような古風な部屋の中で、テレビだけは真新しい。

 夫婦は私たちに緑茶を差し出してから、見上みかみと名乗った。


「何と言えばいいものか……」

「私たちはいろいろな案件に対処してきました。信じられないようなことでも仰ってください。力になります」

 居間に沈黙が広がった。後ろのブラウン管テレビが夫婦の後ろ姿と、棚の青い花瓶や風水の占いのカレンダーを移していた。

 棚には他にも、マッサージのツボを記した手首の模型や、湿布と包帯が入った籐の籠が並んでいる。


 私は少し迷ってから切り出した。

「失礼ですが、お家に体調の優れない方はいらっしゃいませんか?」

 見上夫婦と穐津が私を見る。夫婦はようやく口の中で言葉を転がしていた言葉を吐き出した。

「娘なんです……」

「娘さんが?」

「娘の乙女おとめは高校生なんですが、三ヶ月ほど前に背骨が痛いと言い出して。部活動で痛めた訳でもないし、病院に行っても脊髄に問題はないって……」


 私と穐津は視線を交わす。トラックの荷台で寝ていた老女も背中が痛いと言っていた。

 穐津が細い声で切り出した。

「心身の問題以外に心当たりがあるんですね」

 見上の妻は震える手で顔を覆った。

「祟りです」

「お客さんに変なことを言うのはやめなさい」

 夫の制止に構わず彼女は続けた。


「信じてもらえないのは承知です。でも、ここでは昔からそうなるひとがいるんです。最初は背骨に痛みを感じて、背中がコブみたいに腫れて、まるで毒虫に刺されたみたいに……」

 見上の妻は急に身を乗り出した。茶器が跳ねて薄い緑茶がニスを塗ったちゃぶ台に零れる。

「見上さん、落ち着いてください!」

「大百足の祟りなんです! 背中が腫れて歩けなくなったら、もう駄目だって!」

「駄目って……」

「神様の元にお返しするって、谷があった場所に置いて行かなきゃいけないんです! そんなのは嫌、乙女はまだ十七歳なのに……」


 突っ伏して啜り泣く妻の背を夫が沈鬱な表情で摩った。私と穐津は目を伏せる。

「乙女さんに会わせていただけますか」



 夫婦に案内され、急な角度の階段を上がると、乙女の部屋があった。

 美術の授業で手作りしたらしい、ピンクの絵の具で「ノックしてね」と書かれたプレートが揺れていた。


「乙女、お話ししたお客さんだ。通していいか」

 扉が開く。窓際につけられたベッドに髪の長い少女が座っていた。

「お邪魔します。東京から参りました宮木と穐津です」

「遠くからありがとうございます。パジャマですみません。髪もとかしてなくて……」

 乙女は恥ずかしそうに笑う。壁には学校の仲間と撮った修学旅行や部活動の写真が貼られていた。溌剌とした笑みを浮かべる姿と、今のやつれた青い顔の違いに思わず目を背ける。


「こちらこそ急にすみません。背中を見せてもらってもいいですか」

 彼女は素直に背を向け、パジャマの裾を捲った。背骨が恐竜の化石のように浮き出し、赤く腫れていた。

「三ヶ月前から、ですか?」

「はい、授業の最中急に痛くなって……」


 彼女は小さな声を漏らし、ぎこちない仕草で向き直った。

「お父さん、お母さん、少し出てもらってもいい?」

 夫婦は不安げな顔で扉を閉める。両親が去ると、乙女は張り詰めた顔で言った。

「父と母は内緒にしてほしいんです」

「何を?」

「私を……谷に連れて行ってくれませんか」

 私は思わず問い返す。

「どうして?」

「こうなったひとは谷に行かなきゃいけないんです。そうしないと、家族もみんなこうなるから……私が行けば父と母は無事で済むんです」


 乙女は泣きそうな顔で懇願する。細い身体に耐え切れない想いが滲むように肩が震えていた。私は少女の手を取る。

「乙女ちゃんが行く必要はないよ。私たちは問題を解決するために来たんだから」

「でも……」

「私たちのこと信じてくれないかな」

「……本当にいいんですか」

「うん、私たちで谷を見てくる。原因が何か調べて解決できるように頑張るから」

 私は努めて明るく言う。乙女は震えながら頷いた。

「ありがとうございます。信じます……特別調査課の皆さんのこと……」

 私は思わず傍の穐津を見た。穐津は視線だけで答えた。



 見上の家を出てすぐ、穐津が声を潜めて言った。

「特別調査課のこと、言った?」

「いえ……今回の案件を私に回したのは切間さんです。情報を漏らすようなことはしないはずです」

「じゃあ、どこから漏れたのかな。豊穣の神も私たちのことを知っていた」

 私は口を噤んだ。特別調査課に不穏な影がさしている。


 茫洋とした初春の空を見上げると、電柱の影から白いものが揺らいだ。

 蛇のように見えたが、身体が節くれだって動きがぎこちない。白く長い百足。


 脳裏を過った瞬間、それは帯を解くようにしゅるりと動いて物陰に消えた。

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