一、白長の神
仄暗い会議室を、テレビの液晶の明かりがぼんやりと照らしていた。
画面は「土砂崩れ」「被害甚大」「電気水道復旧の見込み未だ立たず」の文字が躍る。
青い太枠の中には、頂から麓にかけて巨大な獣が一舐めで抉ったように赤土が露出した山が映っていた。
泥の山に鬼灯のような赤提灯と潰れた屋台の骨組み、目を凝らしてやっとわかる白装束の端が埋もれている。
昨日まで私たちがいた村だ。
私と
切間さんがテレビの電源を落とす。
「大惨事だな」
「すみません、私が気づくのが遅れたせいで……」
「
鋭い言葉に私はただ目を伏せる。
片岸さんが一歩進み出た。
「切間さん、宮木の処遇はどうなりますか」
「どうもしない。俺たちが一丸となって対処しすべき事案だ。今、貴重な調査員を減らせるか」
片岸さんが小さく息を吐く。
「第一、責任は一番上の人間が取るものだ。江里には今回の事案の報告書をまとめさせた」
切間さんは江里さんに視線を向ける。
「豊穣の神は人間に恵みを与える振りをして定住させ、人口が増えるたびに食い荒らしていた。あの村は奴の牧場だった。それがお前の見解だな?」
「ああ……例の領怪神犯は人間と変わらない見た目と立ち振る舞い、言語能力を有していた。今までの神とは異なる」
「進化していると見るべきか。元々潜んでいた危険なな領怪神犯が表に出てきたと見るべきか……どちらにせよ理由の究明が必要だな」
切間さんは溜息を吐いた。
「近年、領怪神犯の活動が活性化し、危険度も上がってきた。それに関して探らせていた調査員がいる。入れ」
低い声が会議室に反響する。一拍置いて、静かに扉が開いた。
現れたのは、三十代くらいの眼鏡をかけた、知的で穏やかそうな男性だった。今まで見たことがない。片岸さんが目を見開く。
「
男性は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「どうも、三輪崎です。ご無沙汰してます。片岸くんも久しぶりやな。元気そうでよかった」
片岸さんは信じられないという顔をした。
彼の名前には覚えがある。知られずの神の調査で補陀落山に赴いたとき聞いた、かつて片岸さんの先輩だった調査員だ。彼は心神喪失で休職中だったはずだ。
切間さんは部屋の中央に彼を呼び寄せる。
「三輪崎は健康面の問題で休職していた。本来もっと早く復帰できる状況だったが、特別調査課から離れて独自に動ける駒として働いてもらっていた」
六原さんが瞬きする。
「我々から離れて動くべき理由は何ですか」
「三輪崎からの報告を聞けばわかる」
三輪崎さんは皆の注目の中、ブリーフケースから書類を取り出した。
「切間さんが言ってはった通り、昭和九十六年以降、領怪神犯の動きが各地で活発化してます。同年に何があったか。日本の神事を司る神義省の大規模な人事異動とそれに伴う記録の編纂です」
「神義省……」
脳の奥に杭を差し込まれたような重い頭痛が走った。
三輪崎さんは静かに続ける。
「ご存知の通り、特別調査課の上層部の大半は神義省の人間で構成されとります。彼らの動きは全部僕らに反映される。事実、九十三年に行われた、一回目の知られずの神の調査の後、神義省からの禁止が出て、五年間再調査ができへんかった」
「では、神義省が領怪神犯の発生と隠蔽に携わっていると言うことですか」
六原さんの言葉に梅村さんが苦笑を返す。
「危ないことをはっきり言うなよ、六原くん。まだ疑いの段階だ」
「お前もだ、梅村」
切間さんは乾いた唇を擦った。
「現段階では双方の関係性は不明瞭だ。だが、調査の必要はある。それと同時に各地の実地調査も継続して行ってもらう。六原、片岸、お前らは三輪崎に協力してもらう」
片岸さんは聞こえるかどうかの呻きを漏らした。
「不満か?」
「いえ、三輪崎さんとの協力に異存は……」
「なら、決まりだな」
項垂れる片岸さんのつむじを六原さんはじっと見つめていた。
「宮木、お前はまた別の村に行ってもらう。危険の早期発見に努めろ」
「はい」
切間さんの張り詰めた横顔は、子どもの頃、私や母を食事に連れて行ってくれた彼とは別人のようだった。
会議室を出ると、蛍光灯の明かりが闇に慣れた目を刺した。
微かな頭痛と眩暈に頭を抱えたとき、軽く背中を小突かれた。片岸さんが仏頂面で立っていた。
「宮木、煙草行くぞ。付き合ってくれよ」
窓の雲を映した銀色の灰皿を挟んで、私たちはベンチに座る。
片岸さんは咥え煙草で資料の束を取り出した。
「それ、三輪崎さんの……」
「ああ。あのひとが復帰してたなんて聞いてなかったぜ。薄情な先輩だ」
「その資料、私に見せていいんですか」
「俺の仕事をバディに半分押し付けて何が悪い。それに、お前の前職はあそこ絡みだろ。俺にない見解を見せてくれよ」
彼は口角を上げた。どんな状況でも片岸さんは何も変わらず接してくれるのがありがたかった。私は資料を受け取って捲る。
機械的に羅列された文字は、私でも知っている領怪神犯の記録ばかりだ。違うのは、神が起こした被害に対しての対外的な処置が記されていることくらい。大半は洪水などの理由を付けて報道したことが記されている。
豊穣の神の村にも同等の処置が施されたのだろう。
朗らかな土産屋の女性や、白装束の娘たち、熱心な学芸員を思い出して、胸が痛くなった。
無意識に、紙を捲る手が止まった。
「どうした?」
「これ、何でしょう」
私はある文字を指差す。各年の記録の合間に時折見覚えのない文字が挟まっていた。「応元」「法喜」「平成」「英弘」「令和」「万保」。
片岸さんは難しい顔をする。
「普通に考えたら年号が入る場所だが、聞いたことないもんばっかりだな……」
「何かの暗号でしょうか」
「お前もわからないんじゃどうしたもんかな。他に詳しそうな奴はいるか? 昔の知り合いとか」
私は少し考えてから言う。
「
「あいつか……」
片岸さんは一瞬表情を曇らせてからかぶりを振った。
「まあ、お前が信頼したならいいだろ」
私は首肯を返す。ふと、先程の会議に穐津の影がなかったことを思い出した。新人には未だ招集がかからないのかもしれない。
廊下の先から六原さんと三輪崎さんが進んでくるのが見えた。私は片岸さんに礼を言って席を立つ。
喫煙所を後にして廊下の角を曲がったとき、三人の声が聞こえてきた。
言葉までは聞き取れない、水中で聞いているようなくぐもった声だ。近いのに薄い膜に隔てられて決して触れられない世界から響いているようだった。
役所の中は、窓から射し込む初春の光で温められた空気がわだかまっていた。
冷たい風を浴びたくて、外の非常階段に続く扉を押す。
穐津が踊り場に背を丸めて座り込んでいた。指先にはタールが重そうな珍しい銘柄の煙草が挟まっている。
彼女は気まずそうに頭を下げた。
「宮木さん、昨日は……お疲れ様」
たくさんの言葉を呑み込んだ後の短い挨拶だった。私は彼女の隣に座る。
「穐津さんこそ。ちゃんと休めましたか?」
「休んでる場合じゃないのにね。私が何もできなかったせいで……」
「穐津さんのせいじゃないですよ! それに、ちゃんと休んで次頑張ればよりいい結果が残せますから、大事なことです!」
私は努めて明るく言う。穐津は口角を上げた。
「うん、また頑張ろうね」
彼女の口元を覆い隠すような吸い方で忘れていたとことを思い出した。
この煙草は切間さんと同じだ。いつものものじゃない。ごく稀に、きっと彼にとっての特別なときに吸っていた煙草だ。
煙の向こうにある世界を眺めているような遠い目は切間さんも、穐津も同じだ。
心中を覗ける訳でもないのに、私は穐津と同じ方向を見る。
紫煙が、非常階段の手摺りの間を縫って逃げていく。
ふと、空の向こうを白く長い何かが飛んでいくのが見えた。何処かから飛ばされたタオルかと思っている間に、それは煙の霞に消えて見えなくなった。
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