三、豊穣の神

 私は江里さんに急かされて再び歩き出した。


 ゴミ捨て場のように観光客の私物らしきものが散らばるあの空間は何なのか。困惑したまま洞窟を抜けると、纏わりついた冷気が剥がれて、温かな西日が降りかかった。


 入り口には穐津が立っていた。私は慌てて歩み寄る。

「穐津さん、置いていってすみません!」

「別に……」

 彼女は微かに不機嫌そうだったが、すぐに目を丸くした。

「宮木さん、背中に何かついてる」


 穐津に肩を叩かれて視線を下げると、スーツの上着にべっとりと赤茶けた泥のようなものがついていた。

「本当だ、洞窟でついてしまったみたいですね……」

「考えなしに歩き回るからだ」

 江里さんが呆れ混じりに呟く。私は何度も泥を払ったが、血のように滑って布地に染み込むだけだった。


 穐津が私の袖を引く。

「貸して」

「大丈夫ですよ、帰ってから洗いますから! ちょっとみっともないですけどね」

「早く落とさないと。あっちに水場があった」



 彼女に引っ張られて洞窟の裏側に回ると、折り重なった岩から湧水が垂れる水場があった。石と石の間に捩じ込まれた枯れ竹の先端から雫が落ちている。


 穐津にスーツを剥がされ、冷気の幕がシャツの上から貼りついた。

「自分で洗いますよ!」

 私は彼女から上着を引ったくって、細く漏れる水に浸す。穐津の細い指が私の手に重なるように水を掬って、布地を掻き始めた。

「手が冷えちゃいますよ」

「それは宮木さんも同じ。ふたりでやった方が早いから。スーツは高いし、大事にしないと」


 穐津は爪の間に土が入るのも構わず布を擦り続ける。固まった泥が透明な水に溶けていった。

「穐津さん、すみません」

「全然」

 貴女を警戒していたこと、今も少ししていること、とは言えなかった。



 少し離れたところで居心地悪そうに煙草を吹かしていた江里さんが呟いた。

「俺と、お前の親父の故郷の話を聞きたいんだったな」

 江里さんは指で煙草を折るように挟んで訥々と語る。

「結論から言うと、殆どなくなった」

「なくなったって……?」

「十年前の地震のせいだ。陸地には被害はほぼなかったが、津波で漁に出ていた漁船は帰らず、浜辺もめちゃくちゃになった。村の名家の人間は殆ど行方不明だ。船の残骸や土が大量に流れ着いて、漁業は廃業になった。若者は出て行って、今じゃ廃村だ」


 私は絶句する。江里さんは自嘲の笑みを浮かべた。

「笑えるだろ。領怪神犯に支配され続けた村がそんなことで失くなるなんて。神を鎮める儀式をやらなきゃ何が起こるかわからないと思ってた。だが、廃村になった後も異変の報せが来たことは一度もない。弟を死なせてまでやったことは全部無駄だった」

「弟さんが……」

「ああ、お前の親父と仲が良かった。あいつはずっと弟のことを悔やんでたんだろう。そのせいで生き急いだ」


 私は唇を噛む。冷たい水が手の甲を滑り、指先の感覚が失くなっていった。


「村人全員が諦めていた中で、お前の親父は違った。あの男を、切間を連れて村に戻って、儀式に乱入してめちゃくちゃにした。本当に馬鹿だろ」

「すごい、そんなひとだったんですね……」

「向こう見ずで猪みたいだった。お前に似てる」

 私は少し口角を上げて答えたが、上手くできたかはわからなかった。


 穐津がびしょ濡れのスーツを絞ってから私に渡す。

「ありがとうございます」

「まだ着られないね。早く乾くといいけど」

「大丈夫ですよ! 下山すれば温かいはずですから!」


 石を抱いたように冷たい上着を小脇に抱えたとき、江里さんが私の肩を小突いた。彼は脱いだばかりの自分のスーツを私に押し付けた。

「そんな、お気遣いなく」

「お前に風邪でも引かせたら切間がうるさいんだ」

 江里さんは心底面倒そうに呟いた。私は礼を言って、上着に袖を通す。煙草の匂いと体温の名残りが肩を包んだ。



 江里さんは煙の向こうに透ける夕陽を睨んだ。

「もっと早く馬鹿をやるべきだった。だから、俺は招集を受けて特別調査課に入った。俺ができることなんて何もないが、ひとりかふたり助かるくらいの誤差は出せるかもしれない。切間はもういないからな」

「切間さんが……?」

 私の問いに江里さんは目を見開き、小さな声で言った。

「……あいつは馬鹿をやれない立場になったから、ってことだ」

 江里さんは地面に煙を吐きかけるように俯く。穐津はただ沈鬱に目を伏せた。



 何か問おうとしたとき、若い男女の言い合う声が聞こえた。


 洞窟から出てきた夫婦らしきふたりは私と目が合うなり、バツが悪そうに会釈した。

「すみません、この辺りで女の子を見ませんでしたか?」

「娘とはぐれてしまって……」

 洞窟でマスクをした男性に抱えられていた少女のことだ。

「学芸員さんと一緒にいましたよ。親御さんを探すと言っていたのでもうすぐ出てくるかと」

 夫婦は安堵の息を吐いてから再び睨み合った。

「お前がちゃんと見てないから!」

「貴方が手を繋いでたんでしょう!」


 気まずい空気の中、穐津が囁いた。

「学芸員さんは私とずっと話していたけど」

「ああ、別の方もいたんですよ」

「こんなところにふたりも……」


 こぽりと、岩場から水の泡が弾ける音が聞こえた。割れ竹から湧水が渾々と溢れる。零れた雫は夕陽と泥のせいか、赤黒い血のように見えた。



 元来た獣道と吊り橋を辿り、山麓に戻ると、村は別世界のような賑やかさだった。


 牡丹を描いた提灯が藍色の空を朱に染め上げ、土産物屋が露店を並べている。通りにひしめく村人や観光客は照り返しで頰を染めていた。

 人混みを白装束の女性たちが通り抜ける。何人かは昼間、土産物屋で見た娘たちだ。店番をしていた素朴な姿とは別人のように、衣装と金の飾りに提灯の赤を映して厳かに進んでいる。


「こんなに賑やかになるなんて、すごいですね」

 私は人々の声に負けないように声を張り上げる。江里さんは通行人の肩を避けながらうんざりした声を出す。

「今日は夜七時まで隣村への臨時バスが出るらしい。帰るなら今だぞ」

「まだ調査が終わってませんよ! 穐津さんもお祭りに参加しますよね?」

「うん、調査だから」

「お前ら、遊びたいだけじゃないのか」



 穐津が急に足を止めた。通行人の肩にぶつかるのも構わず彼女は立ち尽くす。

「どうしたんですか?」

「あれ……」


 喧騒の中、甘い煙と春風に揺れる提灯の間に影が揺らいだ。

 穐津が指さした先にいたのは、洞窟で見たマスク姿の男性だった。明かりの下で見ると、彼の髪が老人のように白いことがわかった。黒髪の頭が並ぶ中で殊更際立って見える。


 彼は私を見留めて軽く手を挙げた。

「ああ、さっきの」

「お世話様です。迷子のは大丈夫でしたか?」

「両親と会わせたよ」


 ふと横を見ると、穐津が壮絶な目で彼を睨んでいた。震える唇から血が滲むほど噛み締めた歯が覗く。

「お前……」

 穐津が憎悪の声を吐き出す。彼女が初対面の相手に乱暴な言葉を使うなんて。私は穐津と彼を見比べた。

「あの、おふたりは……」


 男性が乾いた笑いを漏らした。

「こんなところまで来たのかよ。領怪神犯特別調査課だっけ?」

 心臓を素手で握られたように鼓動が跳ね上がった。

「何でそれを……」

「知ってるよ。でもなあ、こっちだって知恵をつけてるんだ。人間には何にもできやしないよ。お前は充分わかってるだろうけどな」


 男性は嘲笑い、マスクを下ろす。彼は口を広げた。真っ赤な口腔には無薄の歯が何層もの円を描き、牡丹の花弁のように広がっていた。



 生温い風が吹いた。

「逃げろ!」

 鋭い叫びで、私は我に変える。男性の姿は消えていた。追おうと踏み出す前に、硬い手に肩を掴まれた。

「江里さん、今……!」

「わかってる。もう駄目だ。呼び潮の神と同じ……」


 彼は苦々しく呻き、雑踏に向かって声を張り上げた。

「お前ら逃げろ! 土砂崩れが起きるぞ!」

 江里さんの吠えるような声に何人かが振り返る。

「何あのひと、どうしちゃったの……」

 村人の怪訝な視線が突き刺さる。私と穐津は同時に叫んだ。

「そうです、逃げてください!」

「ここにいたら危険です!」

 人々は一瞬視線を泳がせ、何事もなかったように背を向けた。


「本当に危険なんです、どうか……!」

 江里さんが私を押し留める。

「これ以上は無駄だ。行くぞ」

「待ってください。まだ……」

「お前らまで巻き込まれたら情報を持って帰れない。うちの本質は記録だ。忘れるな」



 彼は両手で網を引くように私と穐津を引きずる。和やかな賑わいと明かりが遠のいていく。生温かい風が提灯を揺さぶり続けた。


 江里さんに連れられるがまま、祭りを抜けると、古びたマイクロバスが停まっていた。

 江里さんは私と穐津の背を押して車内に押し込むと、運転手に迫った。

「早く出してくれ、土砂崩れが起こる」

「何の話ですか?」

「いいから!」

 運転手は困惑気味に腕時計を見下ろした。

「あと二分で出発です」


 江里さんは舌打ちして前の座席に腰を下ろした。私と穐津は後ろに座り、車窓を眺める。祭りの明かりが点々と暗闇に散っていた。不穏な胸騒ぎが心臓を打つ。


 エンジンがかかり始めたとき、中年の夫婦と小学生くらいの男の子がバスに乗り込んできた。彼らは私を見てから不安げに言葉を交わす。

「土砂崩れが起きるって……」



 バスが大きく揺れて発車した。

 震動で後頭部が硬い座席に打ちつけられる。そのとき、外から絹を裂いたような悲鳴が轟いた。


 私と穐津は身を乗り出して窓に張りつく。祭りの方からいくつもの叫び声が折り重なった。

 遠く向こうの暗い山が獣の背のように震え、山頂から麓に向けて、何かが凄まじい勢いで駆け降りる。一拍遅れて土煙が山陵を埋め尽くした。



 後ろの席の親子が震えながら抱き合う。ガラスに反射する三人の姿が土煙で掻き消された。窓がピシリと音を立て、小石が弾ける。

 運転手は蒼白な顔でアクセルを踏み、速度を上げた。


 私は呆然と座り込み、傍の穐津を見た。彼女は痛みを堪えるように項垂れ、泥で汚れた爪先を睨んでいた。

「また何もできなかった……」


 悲鳴と崩落の音が遠のき、車内がエンジン音で埋め尽くされた。

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