二、豊穣の神
牡丹峠までの道のりは、峠とは程遠い吊り橋だった。
黒い木々と剣の峰のような切り立った岩場が連なり、不安定な足場と相まって、冥界を下っているような気持ちになる。真下から響く水音で川が流れているのだとわかるが、遥か下の水面は見えず、壮絶な音を立てる闇が広がるだけだった。
先頭の江里さんは後ろ姿から疲れが滲み出ていた。
「全部見なかったことにして帰ってしまおうか……」
「聞こえてますよ、江里さん!」
私は縄でできた手すりを握りしめながら進む。手垢で汚れてベタついた黒い縄は解れた髪を寄せ集めたようだった。パンプスの踵が足場の隙間に嵌るたびヒヤリとする。
穐津は私の後ろで見守っていた。
「大丈夫?」
「はい……やっぱりスニーカーできた方がよかったですね」
穐津はふと息を漏らした。
「ここは昔名前通りの峠だったけど、大きな土砂崩れがあって崩落したんだって。過去に何度もそういう天災が起こってる。伝説では、その後に山神の助言で吊り橋をかけたって」
「元々ひとが住むのは難しい環境なんですね」
私の答えに穐津は沈黙を返した。
橋を渡り切ると、林を無理に切り拓いたような道が広がっていた。村人が舗装したようだが、削れた斜面と露出した木の根が、大きな獣が蹂躙した痕に見えた。
江里さんは淡々と先を歩いていく。
「江里さん、もう少しゆっくりでいいですよ!」
「固まらない方がいい。何かあったとき、お前らが無事なら帰って報告できるだろ」
私は小走りに進んで彼の隣まで追いついた。江里さんが不機嫌そうな顔をする。
「話聞いてたか?」
「これでも死線は潜ってます。江里さんだけ犠牲にするような真似はしませんよ!」
「父親そっくりだ。いや、あいつなら自分が前に出たか。じゃあ、俺の方が同じじゃないか……」
彼は靴先についた泥を払うように地面を何度も踏むと、諦めたように私に歩調を合わせた。
獣道を進むと、急に視界が開けた。
山肌をスプーンで抉ったような洞窟があった。石が折り重なった入り口は苔蒸し、細く冷たい風が吐息のような音で流れ出していた。
『牡丹峠』と示した木の看板と提灯がある。湿気で濡れた岩が提灯の赤を映して、血塗れのように見えた。
神聖というより、底知れない闇が滲み出したような薄寒さを感じた。
私たちが立ち尽くしていると、ダウンジャケットを着て眼鏡をかけた男性が駆け寄ってきた。
「こんにちは。よかったら、入場料もありませんので!」
元気な声と商売人のような態度に、先程までの不安が解れる。私は会釈してから切り出した。
「東京から参りました。観光地のガイドマップを製作している者で。お話伺ってもよろしいですか」
「大歓迎ですよ! 嬉しいな。僕はここの出身で、大学でもずっと伝承の研究をしてたくらいなんですけど、他所の方に興味を持ってもらえることも殆どないですから。資料も少ないんで仕方ないんですけどね」
男性は目を輝かせ、私たちを洞窟へと導く。空気は粘質で冷たく、蛇に巻きつかれたような感覚を覚えた。
パンプスの底に水が染み込むのを感じながら踏み出すと、江里さんが小さく呻く声が反響した。
「何だあれは…」
彼が指差した方は照明で薄く照らされていた。黄色の粘ついた灯りの中に、人型のものが浮かび上がる。死体かと思った。
一歩後退ると、男性が慌てて駆けてきた。
「すみません、最初はびっくりしますよね! 大丈夫、人形ですから!」
目を凝らすと、確かに精巧に作られた人形だった。白い和服を纏い、黒い髪を垂らしている。不気味なのは、飾られているというより、打ち捨てられているような姿で岩場に投げ出されていることだ。
穐津が言った。
「山伏、ですか?」
「そうです。村の開墾に纏わる伝説でして、一言で言うと、村に悪いことをしようとした山伏ですね」
「伝説では、山神がそれを退けるために戦って土砂崩れを起こしたとか」
「その通りです! その後も何度か災害があって、山神様がまだ村に悪いものがいると思って起こしてるんじゃないかってことで、もう山伏は退治されましたよって示すために置いてるんです。いや、詳しいですね!」
男性は穐津ににじり寄り、村の伝説を早口で捲し立てた。流れるような声が洞窟に反響する。穐津の乏しい表情でも少し困っているのがわかった。
私が助け舟を出そうと思ったとき、江里さんに肩を掴まれた。
「学芸員はあいつに任せておけ。こっちは勝手に調べるぞ」
「でも……」
骨張った手に引き摺られ、私は穐津を置いて洞窟の奥へ進んだ。
洞窟は所々裂け目があり、細い日差しが唾液のように滴っている。突き出した岩は雨垂れに削られて丸くなり、凹凸が獣の口腔のように思えた。
縄で仕切られた道の端に、無数の石灯籠や、鍾乳洞に腹を貫かれて死んでいるような巫女の人形があった。
「趣味の悪い洞窟だな」
「村に害を成したひとたちとはいえ、わざわざ死体を人形にして見せつけるのはちょっと怖いですね」
「陰気な場所だ。ろくでもないことを思い出す」
江里さんの低い声が暗闇に吸収された。私は一歩ずつ進みながら、彼の横顔を見上げる。
「話は変わりますが、江里さんと私の父の故郷にも領怪神犯がいたんですよね」
「話が変わってない」
「すみません……それは、父の失踪にも関わっているですか?」
「何と言えばいいかわからないな。あの頃のことはいろんなことが複雑に絡みすぎてる」
江里さんは陰鬱にかぶりを振った。
「ひとつ言えるのは、お前の親父は領怪神犯に従って何かをやらかした訳じゃない。寧ろその逆だ。逆らって大馬鹿をやらかした」
「そうなんですね……」
私は浮かんでは消える言葉を呑み込む。話で聞く父の姿も輪郭を掴む前に消えてしまう。
何か言おうとしたとき、洞窟に子どもの声が反響した。火がついたような泣き声が、岩の凹凸にぶつかって四方から響き出す。私と江里さんは顔を見合わせた。
「行きましょう!」
「また面倒事に首突っ込みやがって……」
彼がぼやきながらもついてくるのを確かめながら、私は小走りに進んだ。
岩の裂け目から射す薄明かりの中にふたつの人影がある。
ひとつは泣きじゃくる少女で、もうひとつは彼女の手を握る、ひどく痩せた男性だった。私は意を決して飛び出した。
「何があったんですか!」
男性がこちらを向く。染めているのか色素が薄いのか、灰色じみた髪が枯れた蔦のように垂れていた。顔半分は白いマスクで覆われていた。
彼の鋭い眼光に怯みそうになる。胸騒ぎを押し殺して近寄ると、男性は急に眉を下げた。
「この子の親御さんか?」
思いの外気さくな声だった。私が呆気に取られていると、江里さんがうんざりした声を出す。
「どこをどう見たらそう思うんだ」
「何だ、違うのか」
男性は肩を竦めた。少女は泣き止み、彼と私たちを見比べる。
私はしどろもどろで問いかけた。
「あの、何をなさっていたんですか?」
「何って、休憩時間だからここで煙草吸ってたんだよ。そうしたら、女の子が泣きながら走ってくるからどうしたもんかと思ってさ」
「学芸員の方ですか?」
「そうだよ、託児所の職員じゃないぜ」
男性は眉と目を困った形にして苦笑した。
「参ったよな。必ず進路を外れて迷う子どもがいるんだから。じゃあ、お父さんとお母さんを探しに行くか」
そう言うと、男性は少女を抱え上げた。少女は従順に頷く。
「あんたらも今夜の祭りを見に来たんだろ。楽しんでいきなよ。ひとが多い方がいいからな」
彼はマスクを少し下げて笑うと、少女と共に消えていった。
「あの学芸員、さっきの眼鏡と相性悪そうだな」
「江里さん、聞こえますよ」
私は苦笑してふと視線を脇にやった。
洞窟に亀裂が入り、岩が転がる小さな空間が見えていた。私は息を呑む。
仄暗い空間には、煙草の吸い殻と共に、片方だけの子どもの靴や、夏物の衣類の切れ端、折れた懐中電灯が散らばっていた。
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