一、豊穣の神
「あんまり生き急ぐなよ。君のお父さんと
言葉の最後と困ったような表情は自動ドアに遮られた。
役所に戻って、無人の喫煙所に佇み、煙草も吸わずに私は立ち尽くす。
私の父は蒸発したはずだ。私を守ったなんて、切間さんからも聞いたことがない。ただ切間さんからは父親を恨んでくれるなとは何度も聞かされていた。
切間さんは何かを知っていて、隠している。
こんなとき、相談できる相手が浮かばない。特別調査課に入ってから、学生時代の友だちとは疎遠になった。何かあったとき巻き込まないように。
ガラス窓から見下ろす街には小雨が降り、色とりどりの傘の花が無数に咲いていた。数えきれないひとたちが近くにいるのに、私は独りだった。
喫煙所の扉が開いて静かな靴音が響いた。
「
ただ一回の任務で離れただけなのにひどく懐かしく思えた。
「宮木、吸い始めたのか?」
「いえ、ちょっと考え事を……」
「それならいい。こんなもん百害あって一理なしだぞ」
「片岸さんがそれを言いますか」
私は思わず微笑んだ。
片岸さんは咥え煙草でライターを探る。
「
梅村さんの言葉が過ぎって、私は口を噤んだ。
「お前でも難しいなら俺には無理だな。押しつけてよかった」
「何てこと言うんですか!」
口ではそう言いつつ、波立っていた気持ちが凪いでいくのを感じた。片岸さんは探り当てたライターで煙草に火をつける。
「まあ、頑張れよ。悪い奴じゃない」
「……そうですね」
「俺はまた
「それが本音でしょう」
私は片岸さんに穐津や梅村さんのことを言うか迷ってやめた。やっと気持ちにケリがついた彼をまた無闇に巻き込みたくない。
たぶん、切間さんも同じ理由で私に何かを隠しているんだろう。
片岸さんが小さく呻いた。向こうから六原さんが歩いてくる。
「幽霊に会ったみたいな顔しないでくださいよ」
「幽霊のがマシだ。じゃあ、またな」
片岸さんは吸殻を灰皿に捩じ込んで去る。私はその背中を見送る。
六原さんと何か言葉を交わす彼の姿が、滞留する煙に霞んだ。
***
「六原さん、いい加減白状しろよ」
「何を?」
「何でどうでもいい任務にわざわざ俺を連れ出す。意図があるんだろ」
「……お前の新しい部下に近付かせたくない」
「あんた何言ってんだ」
「俺は子どもの頃、故郷に巣食う領怪神犯に何度か近づいたことがある。彼女からはそれと同じ匂いがする」
***
高速バスを乗り継いで辿り着いた目的地は、想像よりずっと栄えていた。
山麓にはささやかだが風情ある茶屋と土産物屋が並び、甘酒を売る露店から甘い湯気が靡いている。日に焼けて色褪せた暖簾が風にはためいていた。
仕事でこういう場所に行ける機会は貴重だ。片岸さんがいたなら遊びじゃないと釘を刺されていただろう。
傍の穐津は赤いブリキのスタンド式灰皿で煙草を吹かしながら呟いた。
「嬉しそうだね、宮木さん」
「つい……仕事なのにちゃんとしなきゃ駄目ですね」
私は笑みを作りながら、内心ひりつくような想いがした。嫌でも梅村さんに言われたことが蘇ってしまう。穐津は私を見つめてから俯いた。
「私も少し楽しみ。自分で旅行に行ったりしないから」
「そうなんですね?」
「うん、行く友だちがいないの」
真剣な顔で肩を落とす彼女を見ていると、先程までの警戒が急速に萎んでいった。
「じゃあ、今楽しみましょう。甘酒呑みますか?」
「仕事中にいいの?」
「地元のひとと仲良くなるのも調査の上で大切ですから。買い物をすると聞き込みもしやすいんですよ」
私は半ば穐津を引きずるように露店へ向かい、甘酒をふたつ注文した。
エプロンをつけた中年の女性が紙コップに勢いよく甘酒を注ぎ、白濁した滴が波打った。
「お友だちとご旅行?」
女性は紙コップを渡しながら朗らかに笑う。穐津が硬直して動かないので、私が代わりに受け取った。
「実はお仕事なんです。観光ガイドマップの取材で」
「あら、本当? 今はちょうど空いてていい時期なんですよ。お祭りもありますしね」
「お祭りですか」
「そう、昔のひとがここに村を開いた記念でね。山神様に今年も無事に過ごせましたってお知らせするの」
私は女性の肩越しに牡丹の花を描いた提灯がさがっているのを見留めた。
「そちらもお祭りの準備ですか?」
女性は仰け反って後ろを確かめてから頷く。
「そう、お山の神様のお花なんですって。ここら辺に牡丹は咲かないんですけどねえ」
私と穐津は赤い毛氈を敷いた長椅子に腰掛け、甘酒を啜った。
「何故この山に咲かない花が山神のモチーフとして使われているんでしょうね」
「成り立ちから考えて、ここに流れ着いて村を開いたひとたちの家紋だったのかな。平安時代に関白を務めた家も牡丹を家紋にしていたから」
「よく調べてますね!」
「仕事だから」
穐津は目を背ける。
「もしかして、旅行って言われたのを否定したの怒ってます? あれはそういった方が通りがいいので……」
くたびれたような低い声が割り込んだ。
「確かに旅行客にしか見えないな」
長椅子に影が落ち、見上げると、男性が呆れた表情を浮かべていた。スーツの上着の布地が余るほど痩せていて不健康そうだが、肌は健康的に日焼けしている。
「
私が慌てて立ち上がると、穐津も同時に腰を浮かせる。江里さんはいつもの疲れ果てたような表情でかぶりを振った。
「遅れたのは悪かったがな」
「これは聞き込みの一環で……」
しどろもどろで答えると、江里さんは一瞬穐津を見てから目を伏せた。
「有益な情報はあったか」
「はい。もうすぐ村のお祭りだそうです」
「祭りか」
江里さんは黙り込んだ。彼の故郷、私の父の生まれでもある村には領怪神犯がいて、奇祭と呼ぶべき祭りがあったらしい。
過去の資料は少なく、江里さんも語りたがらないが、思うところがあるのだろう。
「飲み終えたら調査に行くぞ。俺は民俗学や神学には明るくないから見聞はふたりに頼ると思うが……」
「任せてください! 優秀な後輩がいますから!」
私は励ましも込めて穐津の背を叩いた。彼女は曖昧に礼をする。
「穐津と申します」
「江里だ。宮木と同じエリートらしいな。俺と組まされて不満だろうが……」
「いえ、江里さんは領怪神犯に由来のある生まれだと聞いています。実際に神を目撃した方の検知は大切です」
「俺のことなんかよく知ってるな」
「はい、離婚歴がおありとか」
私は青ざめる。取りなす間もなく、江里さんは舌打ちして「梅村の野郎」と呟いた。
私は話題を逸らそうと頭を巡らせる。
「そういえば、先程の聞き込みで豊穣の神は牡丹の花がモチーフとされるそうです。何か手がかりになるでしょうか」
「花は詳しくないが……来る途中にそんなチラシをもらったな」
江里さんは上着のポケットから畳んだ一枚の紙を取り出す。
手描きの観光案内を印刷したチラシには、牡丹峠の文字があった。右上に貼りつけられた写真は画素は粗いが、峠というより洞窟の入り口を写したものだとわかった。
牡丹の花のような岩場が段になって折り重なっている。
「だから、牡丹ですか……」
チラシの隅には提灯に描かれたのと同じ、赤い牡丹の花が印刷されていた。
インクが垂れたのか、花弁から赤い斜線が下に伸び、血が滴っているように見えた。
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