序、豊穣の神
その山には、神がいるとも鬼がいるとも言われてた。それほど得体の知れない恐ろしいものがいたんだろうなんてな。
昔の話さ。
かつては皆怖がって山の麓にすら村を作らなかった。広くて日の当たる土地があるってのに、あの山を恐れて寄りつかなかったんだ。
だが、あるとき、元いた村を洪水で追われた人間たちが集まって麓に流れ着いた。他に行くところもない。恐ろしいが、ここに村を作ろうと決まったんだ。
そうなったら、神様にご挨拶しなければならんよな。周りが止める中、元の村の長とその家族は山に登った。
村長の家族は途中、山伏に会ったそうだ。彼はこの山には入ってはならんときつく諭したが、皆の事情を知ると仕方ないからせめて自分もついていくと加わったそうだ。
一晩かけて山を登り、神か魔物が住むという洞窟へ辿り着いた。早朝でも夜のように暗く、捩れた洞穴が何重にも歯が生えた口のように見えたそうだ。
村長と一家は地に額をつき、どうか麓に村を開かせてほしいと告げた。すると、洞窟の奥から禍々しい声が響き、「何人いる」と尋ねたそうだ。村長は恐怖に耐えながら正直に答えた。
しばしの沈黙の後、今度は打って変わって、穏やかで明るい声が響いた。村を開くのを許す、と言った。
山に近いところに作るといい、水場や薬草の場所も教えてやろうと。村長たちは歓喜し、何度も礼を言って去った。
洞窟の外にいた山伏だけはあんなものは神ではない、すぐここを離れろと言ったが、誰も聞かなかった。
人々は村長が戻ってすぐに村を開いた。
困り事があるたび、山に行くと、あの声が何でも教えてくれた。
土に合う作物や、流行病に効く薬草や、獣を狩りやすい溜まり場も教えてくれた。村はたちまち栄えた。
山伏はしばらく村に留まったが、やがて諦めたように去っていったそうだ。
村が開かれてから七年が経ち、亡くなった村長の代わりに彼の息子夫婦が長を継いだ。夫婦は山神に礼を言いに行こうと洞窟を訪れた。
神様のお陰で村は栄えた、一生安泰だ、と告げると、声は嬉しそうに笑った。
息子の妻は何故それほどまで人間に良くしてくれるのかと尋ねた。声は笑って答えた。
「お前たちが畑を耕し、獣を飼うのと同じ理由さ」と。
村長の夫婦は、神は自然を愛するようにひとを愛してくれているのだろうと喜んで帰った。その夜は宴だった。
翌る日の朝、雨もないのに土砂崩れが起こったそうだ。家も畑も崩れ、村の何人もが死んだ。
新しい村長の夫婦は山の洞窟に行き、嘆き泣きながらどういうことかと問うた。
山神は哀しげな声で、村に悪いものが入ったから退けようと戦った、お前たちには悪いことをした、と答えた。
洞窟の奥、乱杭歯のような鍾乳洞に例の山伏の衣が突き刺さっていた。
あれが豊かな村を妬んで人々を害そうとしたので山神が戦ったのだとわかった。
神でも鬼でもない、もっと人間に身近で、力加減は下手だが優しいものだ。
豊穣の神。今はそう呼ばれてる。
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