三、子連れの神

 まずいことになっている。直感でそう思った。


 狼の遠吠えが耳の奥に住み着いたように離れない。這うような低い念仏と、甲高い獣の声がうねり、絡み合う。


 気づいたときには、私は進み出て老女の肩を掴んでいた。

「宮木さん……」

 穐津の声と、手から伝わった女性の震えが私を現実に引き戻す。私は唾を呑んで一息に言った。


「何故念仏を唱えていたんですか」

 老女は深い皺が刻まれた顔に、隠し事が見つかった子どものような表情を浮かべた。梅村さんが私に駆け寄って囁く。

「急にどうしたんだよ。宮木ちゃんそういうことする方じゃないでしょ」


 女性は白髪で顔を覆い隠すように俯いた。背負った物の重さに耐えかねて首をもたげたようだった。

 このひとは積荷を下ろしたがっている。

「あの昔話に関して、隠していることがあるんじゃないですか」

 女性は乾いた唇を震わせた。

「続きがあるんだよ……」

 先程の流れるような語りとは全く違う、途切れ途切れの言葉だった。


「あの話の最後に出てくる、お雪を見たと言った子どもはな、私の祖父さんなんだ」

 私たち三人は小さく息を呑んだ。

「では、貴女のお祖父様は山神の姿を見たんですか」

「ああ、本当はお雪が消えた翌年のことだ。雪が溶ける初夏の頃、やっと氷が張らなくなった井戸から水を汲んでいるとき、ふと狼の遠吠えを聞いたような気がして顔を上げると、ふたつの影が目に入ったらしい。ひとつは今の私みたいな白髪で背の低い何かで、痩せこけた娘だったって」

「それがお雪ですか?」

「ああ、顔は青白くて着物は擦り切れていたって」

 今さっき見た、死人のような足が脳裏を過った。


「祖父さんは子守の姉さんが戻ってきたと思って慌てて追いかけようとしたが、ちょうど近くにいた大人に止められたらしい。『ああなったらもう戻って来られねえ』って」

 私は言葉を失った。お雪以外にも子連れの神に遭って戻らなかった者がいる。


「祖父さんは母さんにこの話を教えて、最後の部分は語っちゃいかんと言ったらしい。だから、私もあそこまでしか話さないんだ」

「何故最後の部分を話してはいけないんですか」

「……遠吠えが聞こえる」


 老女は震える身体を抱え、雪山で助けを待つ幼児のように縮こまって動かなくなった。校舎から出てきた教頭先生が私たちと蹲る女性に目を留める。

 梅村さんが小さく舌打ちした。

「退散したほうがよさそうだな」


 私と穐津は梅村さんに半ば引き摺られて小学校を後にした。私は何度も振り返り、教頭先生が老女を助け起こしたのを確かめる。

 木々の隙間から痩せこけた脚が覗くことはなかった。



 空はかき曇り、真冬のように灰色で無機質な色に変わっていた。

 梅村さんは深刻な表情で言う。

「ふたりとも、よかったら今回は先に帰っていいよ」

「どうしてですか?」

「実は、上の連中に言われてるんだよね。現地調査で成果が得られなかった場合、山に行けって」

「子連れの神がいるという山ですか」

「そう。俺は領怪神犯に会う条件を満たしてるけど、ふたりは違うでしょ? だから、来てもしょうがないし、帰っていいよ」


 軽薄な口調で告げる梅村さんの横顔は張り詰めていた。私たちを巻き込まないようにそう言ってくれているんだろう。

 ずっと昔にそんな横顔を何度も見上げたような気がした。


 私は先を歩く梅村さんに追いついて隣に並ぶ。

「行きますよ! 先輩に仕事押し付けて帰ったら片岸さんに皮肉を言われます。後輩の前でそんなところは見せられませんしね」

 穐津も慇懃に頷き、自らも同行すると答えた。

「じゃあ、しょうがないか。荷物が増えちゃったな」

 そう笑う梅村さんの顔は先程よりも緊迫していた。



 山は枯れ木で覆われ、茶色いすり鉢を伏せたように見えた。初春だというのに、木々には新芽のひとつもなく、枝の一本一本が空を刺す極細の針のように広がっている。


 私たちは梅村さんを先頭に獣道を踏み締めて歩いた。

「今は薪拾いに来る人間もいないから荒れ放題なんだね」

 梅村さんの言葉に、穐津が独り言のように呟いた。

「山に入って迷う子どももいないでしょうね。子連れの神はどうなっているんでしょうか」


 私はスーツの袖を刺す枝を避けながら進む。

「山の守り神にとって子どもが迷わないのはいいことなんじゃないでしょうか」

「本当に守り神なら何故お雪を返さなかったのかな」

「送り届ける家がなかったからでは?」

「規定の条件が満たせなかったから行為を完遂できずに村中をぐるぐる回ってたんだとしたら、ゲームのバグみたいだね」

「穐津さんもゲームやるんですね?」


 頷く穐津の唇から白い煙が靡いていた。

「ちょっと、穐津さん! 山で煙草吸ったら火事になりますよ」

「吸ってないよ」

 私は足を止めて彼女を見つめる。確かに煙草も火もない。ただ唇から白いものが流れ続けていた。

 私は自分の呼気も白くなっていることに気づく。まるで氷点下の中を進んでいるようだ。



 気づいた瞬間、周囲の空気が急速に冷えていくのを感じた。

 錯覚ではない。枯れ葉を踏み締める音に霜が砕ける音が混じる。視界が白い粒で曇って、睫毛に雪の欠片が乗っていることを知った。これ以上進んだらまずい。


「梅村さん、待ってください……」

 呼びかけてから、梅村さんがとっくに足を止めていることに気づいた。何時間も雪の中に立っていたような蒼白な顔をしていた。


 私は梅村の背に手を伸ばしかけて止める。周囲から無数の視線を感じた。


 細い木々の隙間から、それよりも細い脚が覗いている。血豆が破れて硬く黒くなった子どもの脚だ。どれも着物の裾が千切れ、赤切れした指股に草履の鼻緒が僅かに残っている。

 ひとつやふたつじゃない。枯れ木の根元が変色した爪先に覆われて見えなくなるほど大量だった。



 狼の遠吠えが聞こえ、吹雪が吹きつけた。

 梅村さんの目の前に白い塊がある。足まである白髪で姿を隠した老婆にも、上体を折り曲げてこちらを伺う狼のようにも見える。


「かしこみ申す……」

 獣の鳴き声と暴風に混じって細い声が聞こえた。

「みつき童女……」

 梅村さんの頰が引き攣った。声は白い塊から響いている。

「要らぬなら御返しいただき申す……」


 吹雪が強くなり、梅村さんの後ろ姿が霞む。白く曇った視界に、まどろむ神に見せられた、血塗れの男性の姿を幻視した。

「梅村さん、駄目です! 駄目って言ってください!」

 私は咄嗟に叫んでいた。梅村さんが我に返り、喉を震わせた。

「要らない訳ねえだろ!」


 白い塊がのっそりと顔を上げる。周囲を埋め尽くす刺すような視線が鋭くなった。

 子連れの神の白髪から赤い口腔と牙が覗いた。


 空気を震撼させるような遠吠えが山を揺らした。



 気がつくと、神も子どもの脚も消え去っていた。

 辺りを覆う霜も吹雪もない。閑散とした、ただの枯れ山だった。


 梅村さんが白くない息を吐き、その場に座り込んだ。

「大丈夫ですか!」

「危なかった……」

 彼は項垂れるように頷く。背中を摩ると、スーツの布地が金属のように冷え切っていた。

「みつきって、俺の娘の名前なんだよ……」

 私は息を呑む。


「やっぱり逆だった」

 穐津が山の頂点を睨みながら言った。

「子連れの神は遭難した子どもを送り届けているんじゃない。自分のものにするために、一晩かけて村を回って確かめているんでしょう。だから、親にも見えるんです。この子が要らないなら自分のものにしていいかと、了承を得るために」

「じゃあ、家のない子だけじゃなく、夜明けまでに親が気づかなかったら……」

「そうして連れ去られたのがさっきの子どもたちでしょうね」


「ふざけんなよ……」

 梅村さんが低く唸る声が枯れ木の森に溶けた。



 私たちは下山し、すっかり暗くなった頃、無人駅に辿り着いた。

 穐津が先に改札を潜ると、梅村さんが私を呼び止めた。

「宮木ちゃん、あの子に気をつけな」

「穐津さんのことですか?」

「うん、あの子上層部しか知らない領怪神犯の語源を知ってただろ」

 私は無言で頷く。梅村さんがかぶりを振った。

「今回の案件、おかしいんだよ。切間は調査員やその家族を危険に晒すような采配はしない。上の差金だ。あいつらの息がかかってるなら、あの子に深入りしない方がいいよ」


 改札の向こうの穐津が振り返る。色素の薄い目は夜闇を移して、黒く沈んでいた。

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