二、子連れの神

「宮木ちゃん、大丈夫?」

 私は梅村さんの声で我に返った。

「はい、珍しい銅像だったのでちょっと気になって……」


 教頭先生だという老人は満足げに笑った。

「お若い方がこんな村に興味を持ってくれるとは、ありがたいですな。今ちょうどお話ししてたんですが、これからうちの学校で昔話の会がありまして。皆さんもどうですか」

 私は願ってもないと頷く。

 梅村さんが老人と連れ立って歩き出した。穐津だけは銅像を睨んだまましばらく動かず、少女から雫が滴るのを見つめていた。



 案内されたのは木造の校舎だった。

 校庭には季節外れの霜で滲んだ白線が引かれ、花壇は植え替えの時期なのか花はひとつもなく、掘り返された土が広がっていた。


 私は教頭先生に導かれながら、樟脳の匂いが漂う渡り廊下を進む。

 体育館に通されると、達磨ストーブの熱気で匂いが濃くなった。


 暗幕を引かれた館内を、火の灯りが橙色に染めている。体育座りをした生徒は四十人足らずで、ストーブの火は轟々と燃えているのに寒々しく感じた。


 昔話の回はもう始まっているらしい。私と穐津と梅村さんは息を殺して壁に貼りつくように立った。

 壇上には着物姿の高齢の女性が膝を折って座っていた。


 低く嗄れた声が反響する。

「お雪という娘は捨て子だった。春の終わり、親に置き去られて山で泣いているところを、猟師が見つけた。村は貧しく皆家族を養うので精一杯。そこで、仕事の人手が足りないとき娘を呼び、代わりに飯や寝床を与えることにした」

 銅像になった少女の話だとわかった。


「お雪は気立がよく、働き者だった。村人は敢えて仕事を余らせてお雪を呼び、飯を振る舞って温かい寝床で寝かせた。お雪が子守をした幼子は皆、姉のように慕った。誰もが村の一員としてお雪を大事にしたんだ」


 梅村さんが目を細めている。我が子の幼い頃を思い出しているんだろうか。私も照り返しで頬を橙に染めて真剣な顔で聞き入る生徒たちを眺めて微笑ましくなった。


「ところが、ある日、お雪が薪になる木を拾いに行った。朝は晴れていたが、急に山おろしが吹き、ひどい雪となった。猟師たちが探しに行ったが、見つからなかった。村の女たちは項垂れる男たちを慰め、『山神様が届けてくださるだろう』と言った」


 穐津が押し殺した声で呟いた。

「家も親もない子を何処に届けるんだろうね」

 雪の塊を襟首から放り込まれて雫が背筋を伝ったような寒気がした。


「その夜、村人が眠れずにいるとどこからともなく吹雪に混じって、狼の遠吠えが聞こえた。皆、寝巻きのまま飛び出して戸を開けたが、狼もお雪も見当たらなかった」

 老女は唾を飲んで黙り込んだ。時が止まったような長い沈黙だった。子どもたちも不安げにざわめき出す。


「それから、二年が経った」

 唐突に老女が口を開き、生徒たちが身を竦める。

「村でいっとう幼い子があの日のように山で迷った。両親が夜通し探していると、子どもは日の出とともにふらっと帰って来た。母親が血相を変えて尋ねると、『狼と子守の姉さんが送ってくれた』と言うじゃないか。村人は皆思った。優しくて働き者のお雪は神様に気に入られて、遣いに選ばれたんだ、と。それから、お雪は山神様と一緒に祀られるようになったとさ」


 老女は身を折りたたむように頭を下げた。沈黙の後、拙い拍手が響き、続いて生徒たちが一斉に手を叩いた。不揃いな拍手が体育館にこだました。



 教頭先生に礼を言ってから、私たちは学校を後にした。

 校門で手を振る教頭先生の姿が見えなくなってから、穐津が唐突に切り出した。

「どう思いましたか」

 梅村さんが頭を掻く。

「どうって……山神は子連れの神で間違いないだろうけど、それにしてはよくある普通の昔話っぽすぎるな。宮木ちゃんは?」

「私もそう思います。領怪神犯にしては被害も特異性も少ないような……」


 穐津は諦めとも同意とも取れない表情で頷いた。

「でも、領怪神犯である以上、特異性はあるはずです。私たちが見落としてるだけで」

「そういえば、俺ひとつ気になってたんだよね」

 梅村さんが校舎を横目で眺めながら言った。


「子連れの神を見る条件だよ。十五歳までの子どもってのはわかる。成人、昔で言う元服してない年だ。でも、その親まで含めるのは何でだろうなって」

「よく昔話で子どもにしか見えない妖怪とか出てきますけど、親も見えるのはなかなかありませんよね」

 私は無意識に次の言葉を呟いた。

「まるで親に挨拶するみたい……」

「何だそりゃ」


 軽く笑った梅村さんに反して、穐津は深刻な顔をした。

「お雪が神様の遣いになったの、本当は逆かもしれない」

「逆って?」

 穐津はハッとしてからすぐに表情を打ち消した。

「独り言です。確証がないので忘れてください」


 梅村さんはふと溜息をついた。

「妙な案件回されちゃったな。手がかりが少なすぎる。切間はまず神の名前に注目しろって言ってたけど、子連れの神じゃそのまんまだし」


 私は苦笑を返す。

「そういえば、領怪神犯って名称も駄洒落みたいで不思議ですよね」

「そうか、宮木ちゃんたちは知らないか。これ元々は暗号だったんだよ。神がほぼ認知されていなかった黎明期に、正体不明の存在を共有するために国が使ってたんだ」

「だから、政府の許可なく漁業なんかを行う領海侵犯と同じ響きなんですね」

「そう、人間の生存圏に侵入して脅かす存在ってね」


「由来はもうひとつありますよ」

 穐津が淡々と口を挟んだ。

「領怪神犯は神の在り方として不可解で、前提を覆す侵略者のような存在だからです」

「……どういうことですか?」

「普通、神は信仰によって力を増すでしょう。でも、領怪神犯は存在や本質を秘匿しながら強大な力を保つものもある。特別調査課時代の記録にある火中の神や、信仰すらされていなかった俤の神などが該当します」

 穐津の言葉は預言者のように響いた。

「通常の宗教の概念に則らず超自然的に発生したとしか思えない存在、それが領怪神犯です」


 私は言葉を失っていた。梅村さんが乾いた笑いを漏らす。

「穐津ちゃん、それ誰に聞いたの?」

「記録で一度見ました。記憶力だけはいいので」

「すごいね……」

 梅村さんの瞳から光が消えていた。



 不穏な空気を破るように何処からか念仏の声が聞こえた。


 私たち三人は咄嗟に振り返る。校門から続く桜の並木の影に、昔話を語った老女がいた。


 彼女は先程の壇上よりも更に身を折り曲げ、一心不乱に念仏を唱えていた。皺だらけの掌が擦り合わされ、枯れ葉を持つような音が響く。


 桜並木の根元に小さな足が覗いた。

 擦り切れた小豆色の着物の裾から覗く、痩せこけた少女の脚だった。

 死人のように青く、爪先だけは血が滲んで赤い。踵は黒く固まり、錆びた鉄のようになっていた。まるで何ヶ月も休まず歩き続けたように。


 念仏に混じって、狼の鳴き声が聞こえる。

 勝ち誇ったような遠吠えだった。

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