一、子連れの神

 役所の窓から見る空は、白に青と黒を一滴ずつ混ぜたようなぼやけた色だった。


 片岸かたぎしさんは曇った窓ガラスを睨み、陰鬱な顔で煙草を吹かしている。陰鬱なのは隣に六原ろくはらさんがいるからだ。私はふたりの間に立ち、停滞した空気を感じていた。


 六原さんが言う。

「まどろむ神に関する伝承の改竄があらかた終わった」

「ありがとうございます。これで少しはいい方向に向かうといいんですが……」

 片岸さんが口を挟んだ。

「俺の行く方向はよくねえんだよな」

 六原さんが片眉を吊り上げる。片岸さんは義兄に助力を乞う代わりに、彼の任務に同行する条件を呑んだらしい。


 片岸さんが灰皿に煙草をねじ込む。

宮木みやき、そういう訳で一旦俺は抜ける。穐津あきつの世話を頼んだぞ。あいつ、鋭いところと信じられないくらいボンクラなところが同居してるからな」

「任せてください」

「俺の代わりに上層部のあるひとが同行するらしい。まあ、相当マシな部類だから安心しろ」


 片岸さんは言葉を濁すと、六原さんの背を強く叩いた。

「とっとと行くぞ。村に着く頃には日が暮れちまう」

「俺は今日午前休だが」

「俺たちに労働基準法が適用されると思うなよ。ここは治外法権だ」

「離島よりもひどい」



 私は苦笑してふたりを見送る。足音が聞こえなくなった頃、入れ替わるように穐津が現れた。彼女は会釈して煙草を取り出す。

「穐津さんも吸うんですね」

「そう。喫煙所で大事な仕事の話が進むこともあるから。喫煙者の連帯意識は馬鹿にならない」

「社会人の切り札ですね」


 私は小さく肩を竦める。穐津は私と同い年か、少し年上だ。若輩者が機関で生き抜くための手段を身につけようと努力してきたのだろう。


 そう思ったとき、頭の中に空にかかる薄雲に似た靄がかかった。私は前の部署で誰といて、何をしていたのだろう。

 足元が急に薄氷の上に変わったような緊迫感が走る。特別調査課に来る前のことが、思い出せない。


 穐津は見透かしたように私を眺めた。

「宮木さん、記憶障害が起きているでしょう」

 私は虚をつかれて口を噤む。

「わかるよ。補陀落山に行ったひとは偶にそうなる」

「……知られずの神の影響ですか」


 穐津は長く煙を吐き、目を伏せた。無機質な横顔に哀しみの色が微かに見てとれた。

「私は宮木さんと一緒に仕事ができて嬉しかった。やっと同じ境遇のひとと協力できると思ったから。でも、貴女が忘れているなら、それでいいのかもしれない」

「よくありませんよ」


 補陀落山に行ってから片岸さんは気持ちの整理ができたようだけれど、私は真逆だ。あの日からずっと迷っている。

「穐津さん、何か知ってるなら教えてくれませんか」

「片岸さんを巻き込むかもしれないよ」

 私は唇を噛む。穐津は灰皿の縁で煙草の先端を叩いた。

「真実を知ろうとしてもキリがないんだ。どこかで落とし所を見つけなきゃいけない。幸せでいる条件は無知でいることだから」

「でも、私が知らないせいで誰か不幸になっていませんか。ずっとそんな気がしてるんです」

「優しいね」


 彼女は煙草を火消しの水に投げた。線香花火が消えたような音がした。



 指令を受けて村に向かう最中、私と穐津は取り止めのない会話をした。踏み入る心の準備ができていなかった。

 鈍行の車窓を流れる空は曇って奥行きがなく、刑務所の壁のようだった。



 無人駅に降り立つと、見知った顔が出迎えた。

梅村うめむらさん」

「お疲れ」

 彼は軽く手を振った。切間きるまさんと同じく創設期からいる最古参のメンバーだ。四十代で妻子もいるらしいが若々しく、とてもそうは見えなかった。


 穐津が慇懃に礼を返すと、梅村さんは困ったように笑った。

「畏まらなくていいって。そうは言っても難しいか。急に上司と組まされるなんて気まずいよな」

 私は慌てて手を振った。

「とんでもない、心強いですよ。切間さんの采配ですか?」

「切間の更に上だよ。流石に断れなくてさ。でも、俺以外適任がいないんだよね」


 梅村さんは閑散としたホームを歩き出した。私たちは彼の後に続く。

「適任とは?」

「今回の領怪神犯に対してってこと」

 穐津が答えた。

「子連れの神。十五歳以下の子どもかその両親にしか観測できないと言われていますね」

「勉強熱心だね。そういうこと。うちは独身が多いだろ? 切間もそうだし、江里えさとさんはバツイチで子どもいないから」

「そうなんですか?」

「あ、これあんまり言っちゃいけないんだった」



 梅村さんはあっけらかんと笑う。立場を感じさせない気さくさは上層部の中でも親しみやすい。確かに彼が同行者なのは幸運だと思った。



 改札を抜けると、どこか息苦しいような空気を感じた。


 駅前にはブリキ屋根の個人商店があるだけで、細い道路も錆びたフェンスに雑草が絡んだ寂しいものだ。

 どこにでもある田舎の風景だが、空が狭い。四方から垂れ込めるように山が聳え、深い穴の底から地上を見上げているような錯覚を覚える。


 吹き抜ける風も厳冬の最中のようにひどく冷たく感じた。山を駆け降りた寒風はまばらな民家にぶつかり、狼の遠吠えのような響きを奏でる。


 梅村さんが白い息を吐いた。

「ああ、この音が伝説の遠吠えって訳か」

「確かに狼が吠えているように聞こえますね」

「遭難した子どもが神を目撃するんだっけ。伝承の何割かはただの幻覚かもな。低体温症になると脳の活動が低下して錯乱を起こすんだよ。体温が二十八度を切って昏睡状態になる直前によくある」

「詳しいですね」

「医学部だったからね。現職に何も活かせてないけど」


 かぶりを振った梅村さんに穐津が歩み寄った。

「幻覚を見るほど重度の低体温症の子どもがひとりで下山できるでしょうか」

「死に近づいた人間は考えられない行動するぜ。神経がいかれて雪山で全裸になる矛盾脱衣なんかがいい例だよ」

「……伝承の一部が紛い物だとしても警戒はすべきかと」

「大丈夫、わかってるよ。神は人間の理解や科学の範疇を越える。思い知ってる」


 梅村さんは一瞬笑みを打ち消した。特別調査課で切間さんの側近として二十年働いている彼だ。私が見たことのないほど恐ろしいものにも直面したことがあるのだろう。



 道を進むと、路肩に古びた銅像が立っていた。台座に膝をついて座る、擦り切れた服の少女の像だった。

「お雪の像……」

 私は台座に掘り抜かれた文字を読んだ。経年で顔の造形が薄れ、表情がぼやけている。

 嬉しくも哀しくもなく、先程梅村さんが言ったように意識が混濁して死を待つだけの瞬間のような顔だと思った。


「何だろうね。村の偉人って訳でもなさそうだけど」

 梅村さんが呟いたとき、三揃えのスーツを纏った年配の男性が向こうから歩いてきた。


「これねえ、お雪ちゃんっていう昔話に出てくる子なんだよ」

 老人は人懐こい笑みを浮かべる。

「失礼、私はこの先の小学校で教頭をやってるもんで。つい教えたがりなんですよ」

 老人は禿げ上がった額を掌で打った。私たちも笑みを返す。


 梅村さんが素早く名刺を取り出した。

「お忙しいところ恐れ入ります。私たちは東京の文化振興局から参りました。日本各地の口承文芸について調査しているところでして」

「おお、これはご丁寧に」


 老人と梅村さんは早くも旧知の仲のように言葉を交わし始めた。

 遠巻きに眺める穐津が呟く。

「すごいね。今度から聞き込みは全部梅村さんにやってもらいたいな」

「駄目ですよ。穐津さんも見て勉強しないと」

「向き不向きがあるよ」

 私は片岸さんの真似をして穐津の背を叩く。



 そのとき、耳元で狼の遠吠えが聞こえた。一陣の風が渦を巻いて通り抜ける。

 ただの聞き間違えだ。

 そう思った瞬間、お雪の像の根元に白い毛皮に覆われた獣の足が覗いた。


 私は一歩後退る。足はすぐに消えた。銅像の少女の額が冷水をかぶせたように濡れていた。

 雫は像の頭頂部から滴り、眼窩の窪みに溜まって涙のように零れ落ちた。

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