三、まどろむ神

 私は興地の体温が薄らと残るベンチに腰掛けた。


 彼の疲れ果てた後ろ姿を見て、不謹慎だと思いつつ、少し羨ましいと思った。

 子どもの死と妻の憔悴は見ていて辛いだろう。でも、それは愛情と表裏だ。


 知られずの神の調査で補陀落山を訪れてから、頭に大きな空洞ができたような虚無感が続いていた。私は何かを忘れている。



 片岸さんがわざとベンチを大きく揺らして、私の隣に腰掛ける。

「何かあったのか」

 私は作り笑いを浮かべた。

「……考えていたら混乱してしまって」

「それだけじゃねえだろ。わかるんだよ。俺もこの前まで似たような状態だったからな」


 片岸さんは新しい煙草を咥えてフィルターを噛んだ。私はその横顔を盗み見る。

「片岸さんは知られずの神の調査に行ってから、憑き物が落ちたみたいですよね」

「変な話だよな。何の成果もなかったのに」

「私は逆なんです。あれからずっと何か大事なものを忘れてる気がして……」



 私の声を、甲高い悲鳴が掻き消した。

 私と片岸さんは同時に立ち上がる。声が聞こえたのは駄菓子屋の角を曲がった先だ。


 雨垂れで汚れたブロック塀の向こうから髪を振り乱した女性の頭が現れた。

「行かせてよ! あの子が死んじゃう!」

 艶のない髪とやつれ果てた顔が塀から見え隠れする。暴れる女性を押さえつけているのは興地だった。

「死んでるんだよ! もう死んでるんだ!」

 胃の腑を千切られているような悲痛な声だった。あの塀にまどろむ神が現れたのだ。


 穐津が淡々と呟く。

「まずいことになっているみたいですね」

 私が一歩踏み出したように、興地と彼の妻が電池が切れたようにへたり込んだ。ふたりは舗装されていない地面に突っ伏した。壊れた二体の案山子が重なり合っているように動かなかった。


 片岸さんが張り詰めた顔で言った。

「山の神社に向かうぞ。御神体はそこにあるはずだ」



 神社までの道は、ぬかるんだ坂に細い丸太を埋め込んだだけの階段が連なっていた。


 片岸さんは息を切らせながら先頭を進む。パンプスの踵に泥が縋りついて進むのが辛い。足を滑らせかけた私の背を、穐津が支えた。

「気をつけて」

「ありがとうございます。実地調査はスニーカーじゃないと駄目ですね」

「そうじゃなく、この先にあるもの」

 穐津は階段の上を睨んだ。色素の薄い目には寂しい山道の枯れ木が映り込むだけだった。



 頂上の神社は殆ど木に埋もれるように立っていた。

「妙だな……」

 片岸さんが呟く。

 確かに奇妙だった。普通なら私たちから本殿の正面が見えているはずだ。

 それなのに、木造の鳥井の先には、かろうじて屋根の作りで神社とわかる壁面があるだけだった。まるで背を向けているように。


「他に入り口があるんでしょうか」

「ここに来るまで一本道だぞ。反対側に参道があるにしたって、こっちに鳥居があるのに……」


 穐津が枯葉を踏む音が響いた。

「この鳥居、新しいですね」

 彼女は鳥居の根元を指す。

「見てください。寄贈昭和二十九年。この神社はそれより遥か前からあるはずなのに」

 目を凝らすと、焼印のような跡で確かにそう書かれていた。


「古くなって新調したんでしょうか」

「もしくは、本来神社の正面にあった鳥居を壊してこちら側に建てたか」

「何故そんなことを……」



 素早い獣が鳥居を潜り抜けたような、生温かい風が駆けた。

 落ち葉が舞い、風がどっと本殿に吹きつける。

 私は振り返り、神社の壁に先程までなかったものを見た。


 巨大な丸窓だった。

 ニスを塗った堅牢な窓枠が神社の壁にある。竹の柵は所々折れ、乱杭歯のように並んでいた。

「まどろむ神……」


 柵の間に暗闇が覗いている。本殿の中ではない。

 まるで教会のような七色のステンドグラスと、朽ちた石のタイルが広がっていた。奇怪な光景が頭の中で像を結ぶ。補陀落山にあった、あの廃墟だ。

 何故それがわかるのだろう。私はあの内部に立ち入っていないはずなのに。


 私は一歩進み出た。

 タイルには夜闇よりも滔々と黒い液体が、反射光を湛えて広がっている。血痕だ。


 その中に、体格のいいスーツ姿の男性が倒れていた。

 浅黒い肌と乱れた前髪が血に濡れている。彼のワイシャツの脇腹は黒く染まり、呼吸のたびに浮き沈みした。今にも命の火が途絶える寸前だった。


 混乱する頭の中の何処か冷静な部分が囁く。まどろむ神は近しい故人の姿を見せるはずだ。

 私は彼を知らない。それなのに、何故胸の痛みが強くなるのだろう。


 彼と同じ傷を負っているように呼吸が荒くなる。今ならまだ間に合うはずだ。血塗れの男性に、痩せた青年が駆け寄った。彼の顔は私からは見えない。

 青年は血塗れの男性を背負い上げ、足を引き摺って進もうとした。

 連れて行かないで。



 思わず手を伸ばした私の肩を誰かが掴んだ。

「宮木!」

 片岸さんが私を引き倒す。伸ばした手のスーツの袖が、ガチリと何かに噛まれたように千切れた。布の繊維が空中に解けて帰る。


 奥から駆けてきた穐津が、丸窓の枠を蹴り抜いた。

 彼女の爪先に粘った液体が降り注ぐ。

 まどろむ神は音もなく消え去った。



 私は神社の目の前にへたり込んだ。片岸さんが震える手で私の肩を抑えている。

「すみません、片岸さん。穐津さんも……」

「宮木、何が見えた」

 私は呆然と首を振る。

「わかりません。知らないひとでした。知らないのに……」


 片岸さんは呼吸を整えて荒い息を吐いた。

「急にお前がまどろむ神に近づくから、何事かと思ったら……」

 私はほつれたスーツの袖を見た。布地には食い千切られたような跡がある。


「あれがまどろむ神のやり口なんですね」

 穐津が低い声で呟いた。

「死者の幻影は撒き餌です。導かれた人間を食い殺すための。あれは窓というより神の口なんでしょう」

「じゃあ、誘われて飛び込んだひとは……」

「死んだでしょうね。故人と同じ場所に行けたという意味では伝承通りですが。いや、同じとも限らないか」


 私は唾を呑み込んだ。片岸さんが引き戻してくれなかったら、私はスーツの袖のようにズタズタになっていた。

 片岸さんが唸るように言う。

「まどろむ神に関する伝承が変化したのは、前の方法で餌が釣れなくなったからか」

「この鳥居が寄贈されたのは終戦から数年後。村に興地の祖父以外の帰還兵が生き残っていなかったことも併せれて考えれば……」

「戦争帰りの人間たちがまどろむ神に次々と引き寄せられ、誰かがその危険に気づいた。そして、誰も山の神社に祈りに来ないように鳥居を敢えて後ろにつけた」

「まどろむ神はそれに対抗して、飛び込めば故人が生きている世界に行けると思わせたんでしょうね」

「最悪だな」

 片岸さんは吐き捨てるように言った。



 私たちは丸太の階段を一歩ずつ踏みしめて下った。

 日は既に傾き、鳥居の影が重くのしかかるように背中に迫った。


 失態だ。迂闊に領怪神犯に近づくなんて。ふたりとも私を責めるようなひとじゃない。それが、余計に息苦しかった。

 私は暗澹たる気持ちを追い払い、顔を上げる。


「まどろむ神に対処しなければいけませんね」

 穐津が不思議そうに私を見た。

「対処? 特別調査課の方針は記録でしょう」

「何もしないのとは違いますよ。できれば、興地さんたちに被害が及ぶ前に行動しないと」

「行動とは、神のあり方を変えるということ?」


 私が口籠ったとき、前を歩く片岸さんが背中で答えた。

「神は変えられねえよ。だが、少しずつ騙して方向を変えることはできる」

 穐津がぴくりと眉を動かした。

「まどろむ神に都合のいい伝承を抹消し、勘のいい人間なら危険性に気づけるものに改竄する、とかな」

「効果はありますか」

「バス停を毎日一センチずつ動かして自分の家に近づけるような気が遠くなる作業だが、しないよりマシだ。六原さんに頼み込めば何とかなる。考えたくねえけどな」

 片岸さんは心底嫌そうにかぶりを振った。



 山道を抜け、先程の駄菓子屋の前に出た。

 興地とその妻が寄り添い合って座っていた。色褪せたベンチが夕陽を受けて輝いていた。


 片岸さんの作戦の効果が出るまでの時間は計り知れない。その間に犠牲者も出るだろう。多くを救う準備の間に取り零すものがあるのは当然だ。

 それでも、できれば興地たちを取り落としたくないと思う。



 穐津が呟いた。

「片岸さんも宮木さんも無事でよかったです」

「後輩のお前に助けられたな。これからも情けない先輩を支えてくれ」


 冗談めかして言う片岸さんに、彼女は形式的に口角を上げた。

「片岸さんが無事だったのは、近しいひとを亡くしていないからでしょう」

「……そうだな。失ってない」


 穐津は視線を動かし、私を見た。

「宮木さんもそうでは?」

「はい、母も祖父も健在ですし、父は……」

 言葉の先が出なかった。私はわざと話題を変える。

「……穐津さんは?」

「何も見えなかった。数えきれないほど見送ったのに」


 私は驚いて穐津を見つめる。彼女は何も言わなかった。

 初春の風が吹き、穐津の髪から懐かしい煙草の匂いが香った気がした。

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