二、まどろむ神
しばらく進むと、民家や商店などが増え始めた。
ブリキ屋根の駄菓子屋の前にはベンチが置かれ、ガラス窓にアイスクリームとビールのポスターが貼られたままになっている。
道の両端は蜜柑の無人販売や、ポンプ式の井戸、古い三輪車が点在していた。
片岸さんが辺りを見回して呟く。
「よくあることだが、一見しただけじゃ長閑な田舎だな」
「目立った異変はありませんね。先程の丸窓も現れません」
穐津は無言のまま家々の生垣を見つめていた。
漆喰塗りの壁の角を曲がったとき、ちょうど住民らしき初老の女性が現れた。エプロンの裾に積んだばかりの金柑を溜めたひとのよさそうな女性だった。
片岸さんが私の肩を叩く。
「宮木、頼んだ」
「またですか。新人さんも来たんですし、片岸さんも聞き込みに慣れなきゃ駄目ですよ」
「よし、穐津も一緒に行って来い。先輩に手本を見せてもらえ」
片岸さんは穐津を押し出して知らん顔をする。私は半ば呆れつつ、女性に声をかけた。
「すみません、東京から取材に来た者ですが今お時間よろしいでしょうか?」
女性は一瞬警戒したが、私が有名新聞社の名前を挙げるとすぐに顔を綻ばせた。
「あら、こんな何もないところに遥々ご苦労様。何の取材?」
私は心底申し訳なさそうな顔を作る。
「それが、まだ新人なので少々話題作りに特化した記事を書かされていまして……ご迷惑でないといいんですが」
「若いうちは仕方ないわよ。息子も鳶職だけど親方に散々無茶言われてね……」
「お気遣いありがとうございます」
私は一拍置いて切り出す。
「この村には昔から不思議な現象が起こると聞きました。亡くなった方の姿が見える丸窓が出現するとか」
女性は事もなさげに頷いた。
「余所のひとには信じられないかもしれないけど、ここら辺じゃ皆知ってる話よ」
「では、お姉さんも見たことが?」
「やだ、お姉さんだなんて。ごめんね、私はないのよ。でも、怖いものじゃないわよ。あれは近しいひとを亡くして悲しんでるひとに、神様がちょっとだけ夢を見せてくれたようなものだから」
私は努めて真剣にメモを取るふりをした。
「……その窓の向こうに行くと、どうなるんでしょうね」
「さあねえ、子どもの頃聞いた話では亡くなった方に会えるって言うけど、ちょっと勇気が出ないわよね」
話を終えて礼を言うと、女性は金柑を磨きながら戻っていった。
離れた場所にいた片岸さんがやってきて、徐に穐津に言う。
「宮木先輩の口八丁は勉強になっただろ」
私は眉だけ怒った形にして「失礼な」と詰る。
穐津は相変わらず無言だったが、急にしゃがみ込んで地面の土を指で抉った。
「何してるんですか、穐津さん?」
「やっぱり変……」
穐津は立ち上がり、指が汚れるのも構わず摘んだ土を揉んだ。
「ここの土は乾いて単粒構造だ。植物を植えるのに向いていないのに辺りに生垣が多すぎます」
唐突な言葉に、私と片岸さんは困惑する。何も返せずにいると、低い声が響いた。
「壁がなきゃ窓が出ないと思ってるんだよ」
声の方を振り返ると、痩せた男性が佇んでいた。まだ若いが、目の下が落ち窪み、憔悴しきった印象だった。男性は私たちに近づくなり吐き捨てた。
「馬鹿な話だ。壁だろうが生垣だろうが、"あれ"はお構いなしに出てくるのにな」
「ええと、あれと言うのは……」
「さっきあんたらが取材してた丸窓だよ」
男性は煙草のヤニで黄ばんだ歯を見せる。
「あれが神だって? 冗談じゃない。まともな奴は皆警戒してる。壁を壊して生垣を立て直すくらいにはな」
私は唾を飲み込み、男性を見据えた。
「詳しくお話し伺えますか」
「昔、爺さんとよくこの駄菓子屋に来たんだ」
興地は独り言のように言った。私は彼の斜め横に立つ。ベンチの背もたれに触れると、死人の肌のように冷たかった。
「爺さんは戦争帰りでな。その頃の話はほとんど聞かなかったが……」
穐津が口を挟んだ。
「戦争とは第二次ですか、第三次ですか」
彼女が冗談を言うとは思わなかった。しかもこんなときに。興地は怪訝な顔をし、片岸さんは呆れたように首を振った。
「宮木といい、最近それ流行ってんのか」
「何故私の名前が出るんですか」
「お前もたまに言うだろ」
全く身に覚えがない。
「誰かと勘違いしてませんか?」
穐津は傷ついたような、諦めたような表情を浮かべた。
興地が苛立ち混じりに腰を浮かせる。
「聞く気がないなら帰る」
私は慌てて取り成した。
「すみません、続けてください」
彼は溜息をついて煙草を取り出した。煙と共に言葉が漏れる。
「爺さんが死ぬ直前、あの丸窓が現れたんだ。俺も見た。窓の向こうに日本軍の軍服と南国の林が見えた。たぶん、爺さんの戦友だったんだろう」
「お祖父様はそのとき……」
「真っ青になって俺を連れて駆け出したよ。俺も一目でよくないもんだってわかった」
それまで黙っていた片岸さんが口を開いた。
「御祖父さんは丸窓を見たのはそのときが初めてだったんですか」
「どうだか。少なくともそれまで話は聞いてないが、見る前からあれを警戒してた」
「理由に心当たりは? 帰還兵仲間から悪い話を聞いたとか」
「……ないな。昔は他にも帰還兵はいたらしいが、皆爺さんより早く死んだ。俺が生まれた頃には爺さんだけだった」
片岸さんは自分の乾燥した唇に触ってから興地を見た。
「興津さん、貴方が丸窓を警戒してる理由は伝聞だけじゃありませんね」
興地は虚を突かれたように黙り込み、そして、俯いた。
「……赤ん坊がいたんだ」
「誰に?」
「俺と嫁の間にだよ」
私は少し驚いた。彼のどこか退廃的な印象と家庭のイメージが結びつかなかったからだ。
「やっとつかまり立ちができるようになった頃だった。俺は仕事行ってて、嫁は昼寝してた。浴槽に水を貯めたままで風呂の蓋は開けっ放しだった。普段はそんなことしないのに。疲れてたんだろうな。職場から帰ったら家の前に救急車が停まってて……間に合わなかった」
興地は短くなった煙草のフィルターを噛む。
「嫁は自分のせいだって寝ないし飯も食わなくなっちまって、いっそ心中でもするかなんて思ってたよ。でも、半月後、久しぶりに嫁が笑ったと思ったら『窓を見た』って」
「その向こうにお子さんが?」
「ああ、浴槽に落ちて溺れる直前の姿が見えたって。『助けに行かなくちゃ』ってそればっかり言ってて……俺はもう疲れたよ」
興地は吸殻を足元に捨てて踏み躙った。帰り際、彼は私たちに振り返って言った。
「取材でも何でもいいけどな。俺と嫁さんが駄目になっちまう前にあれが何なのか暴いてくれよ」
興地の背は店先で揺れるのぼりの陰に隠れて見えなくなった。
片岸さんが呟く。
「まるで人間を試してるみたいな神だな」
「もしそうなら、まどろむ神は何をしたいんでしょうか。やり直す機会を与えているようにも思えますが」
潰れた吸殻を見つめていた穐津が言った。
「……人間、忘れたまま幸せに生きられるならそれで充分です。わざわざ掘り返して思い出させようとするものなんて、ろくなものじゃない」
彼女は瞬きして私を見た。
「忘れたままでも、幸せならね」
また、胸の奥に鈍い痛みが走った。
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