一、まどろむ神
どんな相手にも礼節を忘れずに。
私の「
善神であれ、悪神であれ、神は人間の願いから生まれるものだ。先入観を持たずに見極めることが重要だ。
今は気に入っているこの名前も、昔は嫌いだった。男の子のようだし、そのせいで小学生の頃、幽霊みたいだと揶揄われたこともある。
今の私が幽霊より理解不能な存在に関わっていると知ったら、あの頃の同級生は何と言うだろう。
ただひとつ思い出せないことがある。私にこの名を付けてくれたのは誰なのか。
母でも祖父でもない。昔、
私が生まれる前に失踪した父の話をするとき、切間さんはいつも痛みを堪えるような辛そうな顔をする。そのとき、私も胸の奥を木のスプーンで抉られたような鈍い痛みを感じる。
私は大切な何かを忘れている。それが思い出せない。
***
春も程近いのに寒々しく荒涼とした枯山が目の前にあった。
バスから降りた私たちを冷たい風と土の匂いが包む。日は既に高くなっている。腕時計は十二時半を指していた。
私は背後のふたりに向き直って言う。
「何とか明るいうちに辿り着けてよかったですね!」
「本当は早朝に着いてるはずだったんだがな……」
「すみません。新幹線のチケットを取り間違えていました」
傍の
「いや、新人に任せきりにした俺が悪い。
「はい、資料によるとこの道路を真っ直ぐ行ったところですね」
片岸さんは小さく手招きした。私が近寄ると、彼は声量を落として言う。
「悪いが、穐津の面倒見てやってくれよ」
「新人教育は年長者の仕事だって切間さんに言われてたじゃないですか」
「わかってるけどな。ああいうタイプは難しいんだよ。お前の方が人当たりがいいだろ」
片岸さんは咥え煙草のまま、さっさと歩き出した。
私が大股で追いかけ出すと、いつの間にか穐津が隣に並んでいた。
「片岸さんに嫌われたかな」
私は慌てて手を振る。
「大丈夫ですよ! 片岸さんは根は優しいですから、一回のミスで責めたりしません」
「でも、一度も目を合わせずに行っちゃった」
私は苦笑いを浮かべた。
「新人さん相手で緊張してるのかもしれませんね。穐津さんも笑顔で話してあげるといいかもしれません」
「笑うの、苦手なんだ……」
私は肩を落とす穐津の横顔と、片岸さんの背を見比べる。穐津は表情が読み取りにくいし、片岸さんは無愛想で誤解されがちだ。
このふたりの間に挟まれると苦労するかもしれない。
私は冷たい風を下ろす無彩色の山を見上げた。
畦道を進んでいると、先頭を歩く片岸さんが呟いた。
「今回の領怪神犯は『まどろむ神』だったか」
「そうですね。和式の家屋にあるような丸窓の形をした神だそうです」
「丸窓だからまどろむ、か。駄洒落だな」
「それもありますが、夢を見せる性質もあるようです。近しい方が亡くなった人間に、故人が生きていた頃の姿を見せて試すような神だと記録にありました」
「……性格の悪い神だな」
罵倒と共に紫煙が漏れた。失踪中の奥さんの姿が現れたら、と想像したのかもしれない。
私は小走りに歩み寄った。
「でも、いい神様かもしれませんよ! 言い伝えによると、娘さんを亡くした母親がまどろむ神のお陰で再会できたって話もありましたし」
「都合のいい作り話だろ」
「それも有り得ます」
最後尾を歩く穐津が唐突に切り出した。彼女は印刷機から大量の紙が溢れるように話し出した。
「まどろむ神の初出は天保二年。その記録では、単に丸窓が現れ、死者の白昼夢を見たとだけ書かれていました。その他、慶長四年、大正十年にもまどろむ神と見られる記録がありますが、どれも同様です。死者との再会に関しての記録が見られるのは昭和に入ってからです。どこかで神の在り方が変質したか、記録者の意図が介在した恐れがあります」
穐津は言い切ってから、呆然とする私と片岸さんを見て咳払いした。
「失礼……」
「謝ることないですよ。穐津さん、すごいじゃないですか!」
「お前、あの資料を短時間で全部覚えたのか?」
「記憶力には自身があるので。私のような社会不適合者が公務員として働けているのはこれがあるからです」
片岸さんは引き返して穐津の肩を叩いた。
「気にするな。うちはお前より遥かに社会不適合な奴が重役を務めてるんだ」
「それは
「はっきり言うなよ。出たらどうする」
私は眉を下げた。
「妖怪じゃないんですから」
先程より距離を詰めて再び歩き出すと、畦道の左右に民家が現れ始めた。
どれも石垣と瓦屋根がある古風な家屋だ。
猪避けの柵で区切られた敷地には、各々で小さな畑を有しているらしい。
作物はなく、溶けかけた霜が土を押し上げている。色褪せて紫色になった木々が辺りを囲んで、目の前の光景を暗い色彩のパステル画のように見せていた。
ある家の生垣から人影が覗いていた。
「やっと住民に会えそうですね。声をかけてみましょうか」
私は砂利だらけの小道を越えて、生垣に歩み寄る。プラスティックのような光沢の葉の間から毛髪が見え隠れした。
「すみません、東京から……」
声をかけてから、私は後退った。生垣の向こうにいる人間の顔が異常なほど白かったからだ。真っ白な顔には凹凸がなく、古い布のような皺が寄っている。
「案山子だね」
私の隣に並んだ穐津が言った。片岸さんが小さく吹き出す声が聞こえた。
「すみません、早とちりでした……」
私は赤くなった頰を摩って身を引。
「でも、何でこんなところに案山子があるんでしょう。普通畑に置きますよね」
「そうだね。それに少し変」
穐津は首を伸ばして生垣の中を見た。私より頭ひとつ背の高い彼女からは庭がよく見えるらしい。
「女のひとのワンピースを着せてるし、髪の毛もちゃんとしたかつらを使ってる。まるで人間に見せかけてるみたい」
「案山子というよりマネキンに近いですね」
私と穐津は片岸さんの方に引き返した。
揶揄いのひとつでも投げてくるかと思ったが、片岸さんは真顔だった。
「どうしたんですか?」
「宮木、あれ見ろ……」
彼は張り詰めた表情で民家を指した。
色褪せた生垣の中央に抉り抜いたような穴が開いている。
あるはずのない、古い寺院や旅館の廊下にあるような丸窓がそこにあった。
窓枠は所々漆の塗装が剥げ、竹で編まれた格子が等間隔で並んでいる。さっきまでなかったはずのものが急に出現した。
それだけじゃない。生垣に穴を開けたなら庭と家が見えるはずなのに、格子に覗いているのはビル街だ。
窓ガラスが強烈な日光を反射して曇っている。陽炎がゆらめき立つほどの炎天下だと思った。
私と片岸さんが呆気に取られていると、ガラリと引き戸が開いて、家から中年の男性が現れた。
私は息を呑む。
男性は睥睨するような目付きで私たちを見下ろし、生垣から目を背けて、マネキン人形のような案山子に視線をやった。
中年男性の乾いた唇が動いた。
「死んでる、死んでるんだ……」
譫言のように呟いて、彼は再び引き戸の中に消えた。
風の冷たさに我に返る。丸窓はもうなくなっていた。
片岸さんが頰を引き攣らせた。
「宮木、見たよな?」
「はい……」
私は頷くことしかできなかった。村を訪れてすぐ神に遭遇するなんて今までほとんどなかった。
片岸さんはまだ生垣の前に佇んでいる穐津に声をかける。
「お前も見たか?」
穐津はロボットのように首だけを動かした。
「ええ、見ました。あの丸窓の中に女性がいましたね。案山子と同じ髪型と服だった」
私と片岸さんは顔を見合わせる。
「そこまでは見えなかったな……」
穐津は踵を返して私たちの元に来た。
「行きましょう。早く調べないと厄介なことになるかもしれません」
彼女の色素の薄い瞳が、私の硬直した顔を映していた。
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