第三部

序、まどろむ神

 走馬灯とかお告げとか、そういうのとも違うんだよな。

 悪い夢、良くない言い方だけど、それが一番近い。



 子どもの頃、死んだ爺さんから言われてたんだ。

 もしも、村を歩いているとき、何処かの壁にいつもはないような小窓があったら絶対に覗いちゃいけないって。

 それから、誰か近しいひとが死んだとき、山の奥の神社にはしばらく近寄るな。間違っても死んだひとのことを考えてお祈りしたら駄目だってな。


 変な話だろ。

 親からも爺さんの言うことは話半分で聞いておけって言われたよ。爺さんは戦争帰りで、南方で心をやられちまったんだと。

 無口で気難しいから周りは持て余してたが、俺にとっては何かとうるさい親戚衆よりもいい爺さんだった。

 村の祭りに出たくないときは、仮病を使って爺さんの部屋で夜中まで過ごしたもんだ。


 そうだ、爺さんが疎まれてたのは性格のことだけじゃない。みんなが大事にしてる村の神様を蔑ろにしたからだ。



 うちのは神様って言っても、縁結びとか厄除けとかわかりやすい功徳のあるもんじゃないんだ。

 神様に関するちゃんとした文献なんかはないが、いくつか昔話があってな。

 それに出てくるのは皆、兄弟や伴侶とか大事なひと亡くした人間だった。


 婆さんから聞いた話はまだ五つにもならない娘を失った母親だったな。

 川で我が子を亡くした女は、飯も食わずに幽鬼みたいになって、毎晩御百度参りをして娘を返してくれと頼んだそうだ。

 

 そうしたら、九十九日目の夜、神社の壁にそれまでなかった窓が、ぽっかり開いていたそうだ。

 竹の格子付きの丸窓だと。

 女が不思議に思って覗き込むと、信じられないことに窓の向こうに川が流れてた。夏の昼間の眩しいくらいの川だ。


 女が狐に化かされたと思って逃げようとしたとき、川の岸辺に娘が立っていたそうだ。

 死んだ日と同じ着物で、死んだときと同じように川を泳ぐ鮎を眺めていたらしい。

 女は我を忘れて、「危ない」と叫んで、窓に飛び込んだ。


 それから、女は消えてしまった。

 だが、村人が川の前を通ると、大きくなった娘と一緒に幸せそうに歩く女の姿が水面に映ることがある。

 そういう話だ。


 爺さんが言うには、あんなもん全部嘘っぱちだと。

 そういうとき、爺さんは決まって呆れるでも嘲るでもなく、苦しそうな顔をした。



 爺さんが死ぬ一ヶ月ほど前、俺が爺さんに付き合って病院に行った帰りだった。

 途中の駄菓子屋でソーダのアイスキャンディーを買ってもらって、ふたりで舌を真っ青にして歩いてた。珍しく爺さんが笑ってたからよく覚えてる。


 家の近くの角を曲がったとき、爺さんの顔が舌ベロより真っ青になった。

 具合が悪くなったかと思って慌てて近づいたが、爺さんは壁を見つめたまま動かなかった。

 アイスが棒からボトっと落ちて、アスファルトの上で溶けた。


 爺さんが睨みつけてる壁に丸っこい窓が開いてたんだ。

 信じられなかった。窓の外に見えてるのはどう考えても日本じゃない、赤道に近いところにあるような木々が生えた鬱蒼とした密林だった。

 暑い日だったが、それとは比べ物にならないくらい熱気が窓の中から流れてきたのを覚えてる。


 その内、窓の向こうを泥と垢で汚れた茶色の服を着た若い男たちが横切った。

 爺さんは首を絞められたみたいにうっと呻いて、俺の腕を掴んで一気に駆け出した。

 俺は爺さんの顔が怖くて、下を向いたまま爺さんに引き摺られていった。


 ゼエゼエ息を切らして家に駆け込んだとき、玄関まで迎えに来た婆さんがあまりの形相に泡を食ったのを覚えてる。

 爺さんは俺に「今見たものの話はするな」と言ったが、そもそも俺にはあれが何なのかわからなかった。



 それから、爺さんが死んで何年か経った頃、学校で戦争の体験談を聞かせる講演会みたいなものが開かれたんだ。

 そのとき配られた資料を見てやっとわかった。窓の向こうにいたのは、爺さんが若い頃行ったっていう南方の戦線で、あの服は日本軍の兵士だって。



 あのとき、爺さんが窓の向こうに飛び込んでいっちまったら、どうなってたんだろうな。

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