ただそれだけの神、下

「それで、勝算はあるのか?」

 石段を降りながら、江里は宮木に問いかけた。


「正直わかりません。でも、倒したり祓ったりする必要はありませんから。というかできません」

「そうだな。ただ記録する。それが特別調査課だ」

 潮風で白く粉を噴いた石段を忌々しげに踏み、江里は呟いた。



 古風な家々の隙間から煌めく海と、腹を見せて横たわる無数の船が見えた。宮木は目を細める。

「江里さんは、あの神の姿を覚えていますか?」

「何?」

「ただそれだけの神は見たものの認識が短時間で変わるって言うじゃないですか」

「ああ……覚えてるつもりだ。犬みたいな灰色の身体に蛇みたいな尾の……」

「何故、私たちの認識は変化していないんでしょう」

 宮木は顎に手をやって考える。


「さっきのご婦人の言ったことを考えてたんです。旦那さんが強面で誤解されたとか、その旦那さんが悪いものじゃないと言ったとか……」

「村人の証言は話半分に聞け。領怪神犯から既に何らかの影響を受けているかもしれない」

「それはそうなんですが……もしかしたら、最初からあの神を恐れたり嫌ったりしないひとは、認識が変化しないんじゃないでしょうか」

「尚更危険だな。ろくでもない本性を偽装して隠してるのかもしれない」

「私にはあまりそう思えないんです。これも影響ですかね?」

 江里は陰鬱に首を振った。


「何にせよ注意してかかれよ。小さいのとデカいの、少なくとも二体はいるぞ」

「そういえば、あの二体の関係って……」



 そのとき、しゅるりと音がした。ふたりは音の方向を見る。家と家の隙間に見える海岸に、鯵が打ち上げられていた。

 砂を身体に塗ってビチビチと動く魚の上に黒い影が射す。鉄錆色の毛の塊が魚に飛びかかった。


「あっ!」

 宮木は駆け出した。

「注意しろって言ったばかりだろ!」

 江里は足をもつれさせながら後を追った。



 砂浜に飛び出したふたりの背を激しい陽光が啄む。


 汚れた鉄色の毛と蛇の尾を持つ怪物が二体、打ち上げられた魚を貪っていた。

 一体を魚を頭から食い千切り、残り半分を片割れに投げる。三つの目を細めて咀嚼する怪物は、もう一体より二回りほど小さい。

 きゅっ、きゅっ、と鳴き声を上げ、二体は砂と魚の体液で濡れた身体を擦り合わせた。まるで兄弟のようだ。


 呆然と見つめていた宮木と江里の背後が暗く翳った。潮と獣の匂いがした。

 振り返りかけた宮木を、江里が押し止める。

「馬鹿、見るなって言っただろ!」

「でも、江里さん……」

 宮木は江里の手をそっと振り解き、背後に向き直った。



 巨大な塊が鎮座していた。先の二体より遥かに大きい。潮水でべったりと濡れた長毛は中央が割れていて、口らしきものが蠢いていた。陽光を反射する灰色の三つ目がぐるりと回る。


 宮木は一歩後退り、道を開けた。ただそれだけの神は三つ目でふたりを見下ろす。江里の頬から冷たい汗が伝った。


 巨大な神は蛇腹でゆっくりと進み出した。そして、そのまま宮木と江里の前を素通りし、魚を齧り終えた二体の元へ至った。小さな二体はもぞもぞと大きな一体の後ろに隠れる。

 巨大な神は三つ目を細め、消えた。


 濡れた砂浜には、重たい漁船が上陸したような痕だけが残っていた。



 波が神々の足跡を消していくのを眺めながら、江里は砂浜に座り込み、煙草を取り出した。

「つまり……奴らは家族か何かで、魚を盗み食いして過ごしてた。村人に怖がられたら暮らしていけないから記憶を改竄していた。そういうことか?」

「本当に『ただそれだけ』ですね」

「馬鹿馬鹿しい……」

 隣に座った宮木は苦笑する。


「きっと、あの神々は自分たちを迫害しない人間には記憶の処理を施さないんですね。本当に家族を守りたいだけなんです」

「俺の杞憂だった訳か。故郷の神とは何の関係もない。デカい野良猫みたいなもんだった。本当に馬鹿馬鹿しい……」

「善でも悪でもないのが、領怪神犯ですから」

 江里は煙と共に重い息を吐き出した。



「あんな化け物だってわかってるのにな」

 宮木は目を瞬かせる。

「あんな化け物だって家族を守るためにあくどいことをやる。それなのに、お前の親父は赤の他人を助けるために消えちまった。馬鹿だろ。そういう損得の計算が何もできないんだ」

 江里はかぶりを振って再び煙を吐いた。宮木が肩を落としたのを見て、江里は口を開いた。


「でも、そういう馬鹿だから今があるのかもな」

「どういうことですか?」

「切間は昔お前の親父に助けられたようなもんだ。だから、あいつの意思を継いで特別調査課を作ったし、今でもお前の世話を焼いてる。何もかもが無駄って訳じゃなかったか」



 宮木は小さく微笑んだ。

「切間さんと私の父は友人だったんですね」

「悪友だよ。知ってるか。昔の切間はとんでもなちチンピラだった。俺の故郷に来たとき、俺をどついてお前のお祖父さんに飛び蹴りしたんだぞ」

「本当ですか!」

「ああ、今じゃ猫かぶってるがな」

 宮木は声を上げて笑った。


 水平線に小さな船影が揺れた。江里は濡れた砂で煙草を揉み消す。

「やっと迎えが来たな」

「帰りの船でお話もっと聞かせてもらえますか」

「ろくな話がないぞ」

 宮木は砂を払って立ち上がった。江里も腰を上げる。



 燻った煙草の煙が海に霧の橋をかけた。

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