ただそれだけの神、中

「江里さん、あれ!」

 宮木が指さす。江里は咄嗟に振り返った。


 民家の角から、鉄色の毛に覆われた尾のようなものが伸びていた。長い尾はしゅるりと音を立てて壁の向こうに消えていく。


「すみません、ちょっと見てきます!」

 言い終わる前に、宮木は駆け出した。

「正気かよ……」

 江里は舌打ちして、遠くなる彼女の背を見送る。

「くそ、父親そっくりだ」

 路面に捨てた吸殻を踏み潰し、江里は後を追った。



 江里は道端の小型トラックと積み上がった青のケースに阻まれながら、路面に散らばる網を蹴り避ける。角を曲がると、立ち尽くす宮木の背があった。

「どうした……」


 ふたりの目の前には錆びた鉄のような色をした塊があった。江里の背より僅かに小さい。潮と砂で汚れた長い毛は犬のようにも見えたが、下半身は蛇に似て手足がない。灰色の三つ目がそれぞれ別の方向にぐるりと回った。

「あれ、何ですか……」


 呆然と佇む江里と宮木の背後が暗く翳った。宮木は咄嗟に振り返る。鉄のような色の毛と、巨大な灰色の眼球。今さっき見たものを更に拡大したような光景が広がった瞬間、江里が宮木の目を塞いだ。

「見るな!」



 大型トラックが駆け抜けたような音が響き渡った。

 押し寄せた風が止み、周囲が無音になってから、江里は手を離した。


 宮木は瞬きする。前にも後ろにもあの奇怪な塊はいない。昼下がりの漁村の風景があるだけだった。

 江里は信じられないという風に首を振って、溜息をついた。


「猪みたいに向こう見ずなところは父親譲りだな」

「すみません、ありがとうございました……」

 宮木は苦笑して頰を掻く。

「さっきのあれが、ただそれだけの神だったんでしょうか」

「そうだろうな。何がただそれだけだ。あんな化け物見たことがない……」



 江里が吐き捨てたとき、下駄の音が聞こえた。

 顔を上げると、白髪を結い、麻の葉模様の着物を纏った老婦人がふたりを見下ろしていた。手には柄杓の入った木桶を提げていた。


「酷い顔だね。どうしたの。ここのひとじゃないみたいだけど」

「ええと、ちょっと……」

 宮木は曖昧に微笑む。老婦人は口の端を吊り上げ、矍鑠とした声で言った。

「変なものでも見た?」

 江里が小さく息を呑む。老婦人は民家の間のひび割れた石段を柄杓で指した。

「昔見るひとが出るんだよ。私は知らないけど、あの上にいるひとがね」



 石段は墓地へと続いていた。振り返ると、陽光を受けた海がプリズムのように燦然と輝く。思わず足を止めた宮木を、最後尾の江里がせっついた。


 石段を登り切り、老婦人は下駄を鳴らしながら奥の墓石へと進んだ。

 海の輝きとは打って変わって、閑散とした墓地だった。濡れたような木々が黒い影を落とし、宮木は小さく呻き声を漏らす。


「漁村のお墓っていい思い出ないんですよね……」

「俺は漁村自体嫌な印象しかない」

 ぼやく江里に苦笑を返し、宮木は老婦人の後を追った。



 最奥の墓はよく手入れされて、苔ひとつついていなかった。

 老婦人は木桶に汲んだ水を墓石にそっとかける。冷たい飛沫が宮木の足元を打った。


「ここに嫁いですぐ、お義母さんが逢魔が刻に変なものを見たって言ったんだよ」

 水に濡れて輝く御影石に向かい合って、老婦人が呟いた。

「それはどんなものですか?」

「さあね。最初は肝を潰してたけど、後から落ち着いて大したものじゃなかったって言い出した。息子の嫁に取り乱してるとこを見られたのが恥ずかしかったのかもね。本当にただの見間違いだったのかもしれないけれどさ」


 宮木は江里に目配せする。ただそれだけの神の証言と一致していた。江里は静かに首肯を返した。


「それっきり忘れてたけど、あのひとが死ぬ前に『お袋の話覚えてるか』って言い出してね。『お前もそのうち見かけるかもしれない。でも、そっとしといてやれ』って」

「そっとしておいて、ですか」

「そう。深入りするなじゃなくてね。危険なものだったら、あのひとはもっと厳しく忠告しただろう。私が刺身包丁を使うときですらいっつも危なっかしげに見守ってたくらいだからね」

「仲の良いご夫婦だったんですね」


 老婦人は照れたように笑った。

「あのひとは強面でよく誤解されてたんだ。私がいきりたって反論しに行こうとすると、同じように『そっとしといてやれ』って言われてね。だから、そんなに悪いもんじゃないんだろうね」

 墓石に手を合わせ、老婦人は目を瞑った。



 彼女が去ってから、宮木は改めて墓地を見回した。

「江里さん、どう思います?」

 江里は眉間に皺を寄せる。

「それより、お前さっき見た神の姿を覚えてるか」

 宮木は顎に手をやり、考え込んだ。

「黒っぽい大きな犬と蛇の合成みたいな、不思議な生き物でしたよね」

「俺もそう記憶してる。じゃあ、あれを見てどう思った?」

「何というか……あのご婦人の言う通り、そんなに悪いものには思えませんでした」

「そう思わされてるのかもな」

 江里は無表情に吐き捨てた。


「江里さんの故郷とこの村は近いんですよね? ここの神と江里さんの地元が関連があると思ってます?」

「どうだかな……」

「江里さんの故郷の神は今どうなってるんですか?」

 宮木の問いにしばらく口を噤んでから、江里は言った。



「故郷はなくなった」

「え……?」

「十年前に地震があったんだ。津波が起こった。陸地にはそれほど被害は出なかったが、漁に出ていた漁船の帰らず、浜辺もめちゃくちゃになった。村の名家の人間は殆ど行方不明だ。船の残骸や土が大量に流れ着いて、漁業は廃業になった。若者は出て行って、今じゃ廃村だ」


「余計なこと聞いてすみません……」

「いいよ。お前の親父の故郷でもあるからな」

 江里の暗い面差しに更に翳りが満ちた。

「俺が悔やんでるのは、そんなことでなくなる村にずっと固執していたことだ。村を維持するため、神を鎮める儀式を行って、俺の弟もそのせいで死んだ。仕方ないと思っていた。やらなきゃ何が起こるかわからないからな。だが、今じゃ神を祀る人間がいない。それなのに、特別調査課が異変の報せが来たことは一度もない。俺たちがやってたことは全部無駄だったんだ」

 宮木は絶句する。江里は自嘲の笑みを浮かべた。


「村人全員がそういうもんだと思ってた中で、そうじゃなかったのがお前の親父だ。宮木」

 宮木は目を見開いた。

「あいつは儀式に乱入してめちゃくちゃにした。本当に馬鹿だろ。だけど、そうすべきだったのかもしれない。結果論だけどな」

「すごい、そんなひとだったんですね……」

「向こう見ずで猪みたいだったって言っただろ」


 江里は木々の隙間から覗く海に視線をやった。

「奴は消えた。あんな馬鹿をやる奴はもういない。だから、今度は俺が悔いの残らない選択をしなくちゃな」

 宮木は頷き、小さく笑った。

「宮木、ただそれだけの神を走査するぞ」

「任せてください! 向こう見ずは遺伝ですから」

「似てほしくなかったな」


 江里は呆れたように石段を見下ろした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る