六、知られずの神(裏) ※第二部読了後推奨

(今月2巻とコミックス1巻発売となりましたので、期間付きでサポーター限定近況ノートとして配信したSSを公開します。第二部末までのネタバレがあります。第一部で知られずの神に消された宮木がどう帰ったかという話です。)



 ***



 昼下がりの陽光が降り注ぐ、長閑な山道が広がっていた。


片岸かたぎしさん……?」

 宮木みやきは辺りを見回す。今さっきまであった、廃墟の奥底の地下研究所が跡形もなく消えている。

 領怪神犯の記録を羅列した壁は青々とした木々に、ひび割れたタイルの床はぬかるんだ泥道に、黴と埃に満ちた重苦しい空気は温かな風に代わっていた。


「冗談でしょう……」

 緩やかな傾斜と獣道のうねりで、ここが補陀落山だとわかった。しかし、“黙しの御声”の跡地も杜撰な神像もない。山そのものを包み隠すような森が空を覆っているだけだ。


 宮木は小さく舌打ちする。

 こんな異常事態を引き起こせるのは領怪神犯だけだ。この山に在わすのは、知られずの神。

 ここに連れてこられたということは、自分は消されたということだろう。


「不都合だとなかったことにするのは、神も人間も同じですね」

 死線ならいくつも潜ってきた。まだ助かる余地はある。

「片岸さんと合流して脱出しないと」

 宮木は資料が詰まった鞄を肩に掛け直し、山道を登り始めた。



 木々の隙間から、時代錯誤な麻の着物を纏った少年がこちらを覗いていた。声をかけようとして止める。怪異の真っ只中で得体の知れない存在に迂闊な接触はしないことだ。

 気づかなかったふりをして足を進めながら、宮木は呟いた。

「片岸さん、大丈夫かな。あのひと、こういうところで話しかけちゃうタイプだから」



 ぬかるんだ泥がパンプスに染みる。

 ちょうど廃墟があった山の中腹に訪れたとき、小さな集落が現れた。

 荒地を切り拓いた畑にはひとびとが集っていた。農具を洗い、空を眺め、思い思いに住民が過ごしている。服装はまばらで、着物姿から現代と変わらない装いの者もいた。


 宮木は息を呑む。彼らは皆、きっと今まで知られずの神に消された人間たちだ。

 地獄のような場所でなかった安堵と共に、忘れていた寒気が押し寄せた。

 何百年も前に神に消されたであろう人間たちが今の今まで閉じ込められている。自分もそうなるのかもしれない。



 思わず後退ったとき、紫煙がかすかにたなびいた。片岸の煙草とは違う、もっと古い、懐かしい記憶の匂いだった。


 蓮華の花がかすかに芽吹いた斜面に男が佇んでいた。

 長身でなめし革のように色が黒く、きっちりと着込んだスーツ姿から刑事だと思った。懐かしい煙の匂いは、彼の黒手袋の指に挟んだ煙草からした。男は宮木を見た瞬間、煙草を取り落とした。

れいか……!?」


 吊り気味の目が大きく見開かれる。宮木はもう一歩後退した。何故ここにいる人間が自分の名前を知っている。

「何で私の名前を?」

 男は日に焼けた顔を蒼白に染め、宮木に歩み寄った。避ける間もなく、力強く肩を掴まれた。

「何でお前がここにいる? 誰に連れてこられた! お前が、どうして……」

 男は途中で声を詰まらせ、苦痛に耐えるように顔を伏せた。肩を掴む手の感触は、不快でも恐ろしくもなく、紫煙の匂いと同じで懐かしかった。


「痛いんですが……」

 男はハッとして手を離した。宮木は男を見上げる。自分は彼を知っている。

「あの、何処かで会ったことがありますか? 知ってるなら教えてほしいんです。私、ここに迷い込んじゃって、出られるなら出たいんですが……」

「迷い込んだ? 連れてこられた訳じゃないんだな?」

 宮木が頷くと、男は深く溜息をついた。

「ついてこい」

 男は短く言って、蓮華の花を踏み締めて歩き出した。



 なだらかな斜面を進む。

 宮木が柔らかな泥に足を取られそうになると、男が腕を引いた。

「ありがとうございます」

 幼い頃、車道の方を歩くとこうして手を引かれたような気がした。病弱な母と出かけた記憶は数えるほどしかない。あのとき、手を引いたのは誰だっただろう。


 男は低く呟いた。

「信じられないかもしれないが、ここはあの世みたいなもんだ。いや、少し違うな。神が作った空間というか」

「領怪神犯ですね」

 宮木は答えてから慌てて口を噤む。男は悲しげに目を伏せた。

「そんなことを知る立場になったのか」

 宮木は男の横顔を眺めた。


「貴方も神に消されたひとなんですか」

「ああ。俺たちは神に手を出した。消されて当然の人間だった」

「私の名前、知ってましたよね? 何処かで会ったことがあるんでしょうか」

 男は長い沈黙の後答えた。

「……お前の父親の知り合いだ」

「父を知ってるんですか? 私が子どもの頃蒸発してしまったんです」

「嫁と娘を放って消えたろくでなしだ。知らない方がいい」

 男は宮木の言葉を鋭く遮った。

「それより、母親は元気か?」

「はい、昔は病気がちでしたけど最近は落ち着いてます」

「そうか」



 山道を進みながら、宮木は独り言のように呟いた。

「いいひとだって聞いてたんだけどな」

 男が怪訝に眉を顰めた。

「何の話だ」

「ええと、父の友人だったって方がうちの生活費とか私の学費とか、いろいろと面倒を見てくれてたんですよ」

「……そいつは誰だ」

切間きるまさんっていうんですけど、知ってますか?」

「いや、知らないな……その男はどんな奴だ」

「無口で堅物な感じで少し怖いんですけど、優しいひとですよ。あ、でも、偶にガラが悪いときもあって。昔はやんちゃしてたんですかね」


 男は小さく口角を上げた。宮木は男を指す。

「本当は知ってますよね?」

「何故そう思った」

「私は切間さんが男性とも女性とも言ってませんから」

「賢い子な、相変わらず」

 宮木が微笑むと、男は息を漏らした。


 泥道に潰れた蓮華の花が埋もれていた。

「……切間はお前の父親の話をしたのか」

「はい」

「何と言っていた?」

「デカくて怖くて、自分で損な役回りばっかり受けにいく、馬鹿真面目な暴力刑事って言ってました」

「あの野郎……」

 男は複雑な表情でこめかみに手をやった。

 宮木はその仕草を見て思う。彼の声音や佇まいは、自分が知る切間に似ている。



 宮木さ無意識に歩幅が狭くしているのに気づいた。終点に辿り着くのを惜しむように。

 宮木が隣を見ると、男の歩みも先程より遅く思えた。


「それから、切間さんが知ってる中で一番まともな大人だったって言ってました」

 男の肩が小さく震えた。

「何?」

「だから、父親を恨まないでくれってよく言われました。切間さんは私の父にまともに生きろって言われたから、今も頑張ってるらしいです。って、初対面でこんな話されても困りますよね」

 宮木は照れ隠しに歯を見せたが、男は笑みを返さず前の木立を見つめていた。木の隙間に覗く遠く場所を眺めているようだった。



 山道を下り切ったところで、男は足を止めた。

「ここまでだ。知られずの神は本来、自ら消えることを望まず、他人からも望まれなかった人間を消さない」

 男は宮木の方を向いて言った。

「お前の父親はろくでなしだが、お前とお前の母を愛していた。……何の足しにもならないだろうけどな」

 太陽を背にして立つ男の顔は逆光を受けて、表情が見えなかった。宮木の記憶の奥底から何かが湧き上がり、泡のように消える。男は首を振った。


「行け。もう迷うなよ」

「ありがとうございます」

 男が踵を返す。引き止めなければ二度と会えないと思った瞬間、宮木は咄嗟に叫んだ。

「そうだ、道案内のお礼させてください! 何かやり方を考えるので、せめて名前だけでも……」

 男は振り返り、少しの間逡巡して答えた。

「……烏有うゆうだ」


 ひどく不器用な笑い方だった。記憶の淡い点が像を結ぶ。

「お父さん……?」

 温かい手が頬を撫でるような風が止んだ。



 宮木は廃線の駅が見える坂道に立っていた。

 辺りはすでに暗い。

「宮木!」

 片岸が慌てて駆け寄ってくる。返事をすると、彼は自分が何に焦っていたのか戸惑うような顔をした。


「すっかり暗くなっちゃいましたね。その割に収穫は何もないですし」

 ふたりは坂道を下る。廃線の線路に道の上に盛られた土砂の塊から鳥居が突き出していた。行きに見たのと何ひとつ変わらない。


「片岸さん……」

 傍を見ると、片岸の目から涙が零れ落ちていた。彼の消えた妻の手がかりは見つからなかった。自分も何か大切なことを忘れている気がした。


 宮木は何も聞かず片岸の方を力強く叩いた。

「痛えよ」

 ずっと昔も、ついさっきまでも、誰かがこうして触れていた体温が残っている気がしたが思い出せなかった。

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