六、そこに在わす神

 全てが停滞して見えた。


 倒れる切間の指が引鉄を引き、銃を拾おうとしていた男の腕を撃ち抜く。


 小柄な女が銃口を構えた。上田の額に丸穴が開き、後頭部から白髪と血が噴き出す。死の直前に上田が放った銃弾が、女の左胸を貫通して爆ぜた。



 銃声が止み、硝煙の匂いが満ちる。剥がれた床板に赤い血と白いゼリー状の肉塊が広がっていた。

 俺が正気に戻るまで何秒かかっただろう。


「切間さん!」

 俺は切間に駆け寄って抱き起こす。上着の下に入れた手が生暖かく濡れて滑った。

「しっかりしろよ!」

 切間がくぐもった呻きを漏らした。まだ生きている。


 再び銃声が聞こえた。

 頬に温かい雨がかかり、俺の真横に白衣の男が血を吐いて倒れる。


 悲鳴と銃声、何かが砕ける音、重いものが倒れる音が連続して響いた。流れた血が俺の足元まで伸び、ジーンズが赤い水を吸い上げる。神がいなくても、地獄はあった。



 切間が力無く俺の肩を叩いた。

「烏有、向こうに……」

 血塗れの指は壁際の懺悔室を指していた。俺は切間を背負って走り出した。


 肩で懺悔室の扉を押し開け、駆け込む。扉を閉める寸前、凌子と目が合った。



 懺悔室の中には豆電球が灯っていた。

 爪先に硬いものが当たる。俺の靴裏の形に血の跡が散らばる床に小さな突起があった。隠し扉だ。


 俺は切間を床に下ろし、突起を引いた。扉が開く。中には階段が続いていた。


 俺は再び切間を背負った。

「おい、なあ、死ぬなよ!」

「うるせえ、生きてるよ……」

 声は掠れていた。


 俺は重みに耐えながら地下階段を下る。血で滑って足を踏み外しそうだ。

 切間の身体は冷たく、背中に滲むだけ温かい。命が零れ落ちている。



 爪先が違う感触に触れた。両足を地面につける。階段が終わったようだ。

 仄暗い静寂の中に、切間の息だけが響いている。


「とにかく、救急車……電話探さねえと……止血も……」

 焦りで頭が回らない。壁際を探ると、指先が何かのスイッチに触れる。じっと音を立てて明かりが灯った。



「何だよこれ……」

 神社の鳥居のような赤い柱が等間隔で並んでいた。その中にあるはずのないものが蠢いている。

 鈴の音が響いた。干からびた無数の頭と鋭い爪。

「すずなりの神……!」


 それだけじゃない。

 波状に光る腕、巨大な蛇の頭、燃え盛る火中の神、蹲って泣く俤の神、白い繭を張る桑巣の神。

 全部、領怪神犯だ。



「どうなってんだ……」

「まだらの神だ……」

 切間の唇から血の雫が玉になった唾液が糸を引く。

「対策本部は神を使って多くの神を収容していた。それがこれだ……」

「じゃあ、これ全部対策本部が捕まえた……」



 階段から音がする。

 凌子たちが探してるんだ。上には戻れない。


 俺は座り込んだ。切間の身体が滑り落ちる。

「ごめんな……」

 俺がもっと賢かったら何とかできたのに。撃たれたのが俺ならよかったのに。俺のせいで切間は死ぬ。祈る神なんかどこにもいない。周りは化け物だらけだ。



 切間が俺の手首を掴んだ。手の平だけはまだ温かかった。

「お前にしかできないことがあるだろ……」

「そんなもん……」


 赤い檻の向こうに影があった。

 犬くらいの大きさの仔牛で、顔は皺くちゃの老人だった。

「件の神か……?」

 仔牛が頭をもたげる。俺は這いずって手を伸ばし、頭に触れた。額に小さな角がある。突っ張った皮膚が柔らかい。


「俺、烏有家の人間だ……あんたを信じてた……俺以外みんな消された……」

 件の神は赤い目で哀しげに俺を見た。

「悔しいよな、ゴミみたいに捨てられてさ。俺もそうだよ。あんたもだろ……」


 火中の神も桑巣の神も自分を信じる人間のために力を使った。神がひとの奴隷なんじゃない。

 人間だってそうだ。俺と信じてくれた奴を助けたい。

「あんたを信じるから、助けてくれよ……」



 件の神が震えた。全身が風船のように膨らむ。俺は思わず退いた。

 神の巨体が檻の隙間を埋め尽くし、角が伸びる。柱が砕け散った。


 件の神が吠え、咆哮が地下を震わせた。

「何……?」

 件の神は向かいの檻に突進し、伸びた角を振るった。赤い檻が崩れ落ち、中から巨大な蛸のような吸盤の脚が溢れた。



 件の神が次々と檻を破壊する。

 大蛇、顔が七つある仏像、魚の骨、巨大な傘、三つ目の猫、白い霧、すずなりの神、俤の神、桑巣の神、火中の神。


 解放された神々は皆、上を見た。そして、怒涛の音を立てて、一斉に階段を駆け上がった。

 扉が破壊され、鮮明な悲鳴が響いた。

 件の神だけは俺を一瞥し、暗がりの奥に消えた。



 俺は呆然とへたり込んでいいた。

「何が起きてんだ……」

 切間が泡を吐くような声を上げた。

「神々の怒りに触れたな……対策本部は終わりだ……やったな、烏有……」

 口から血を垂らし、切間は笑っている。


「やったって、これからどうすりゃいいんだよ……」

 切間が差し出したのは拳銃だった。

「行ってこい、まだ残ってるはずだ」

「殺せってか……」

「違う、これは護身用だ」



 切間は荒い息を吐く。

「いいか、知られずの神に願うんだ。対策本部全員を消し去れ」

「全員って……」

「俺も含めてだ」


 俺はガキみたいに首を振った。

「嫌だよ……他に、そこに在わす神に願えばいい! 全部なかったことにできるんだろ!」

「今日はもう使えない。実験で見ただろう」

 そうだ、日付は変わったばかりだ。明日まで切間は保たない。


 鈴の音が聞こえ、階段から血の波が押し寄せた。


「他にねえのか……」

「対策本部がある限り、神を利用する奴は現れる。全部消すしかない……」

「何で切間さんが死ななきゃいけねえんだよ」

「死なない。知られずの神に消された人間は極楽みたいな場所に行くんだろう。烏有家の証言だ、信用できる……」

「……礼ちゃんと奥さんはどうするんだよ」


 切間は震える手でジャケットを探った。血塗れの名刺とセピア色の写真が落ちた。

「戸籍は用意してやれなかったが、代わりだ……これがあればある程度融通できる。お前も名無しの幽霊じゃなくなる。だから……娘と妻を頼んだぞ……」

 切間の声がどんどん掠れていく。


 俺は呼吸を整え、立ち上がった。

「わかった。でも、ふたりだけじゃねえぞ。いつか必ずあんたも取り戻しに行くからな」

 切間はいつもの呆れた息を漏らし、俺の脛を蹴った。

「こんなときもかよ!」

 空元気で叫ぶと、切間は口角を上げた。馬鹿真面目な下手くそな笑い方だ。


 俺は銃を手に取り、階段を登った。

 振り返ったら歩けなくなりそうだった。上がる間も、切間の息が聞こえていた。



 懺悔室の扉を開ける。

 地獄絵図だった。床と壁と天井にまで隈なく血が塗られている。

 手足が散らばっているのはまだいい。炭化した塊や、壁に張りついた人型の影や、肉の色をした立方体まであった。


 桑巣の神がすずなりの神を糸で絡め取っていた。繭が収縮し、すずなりの神が消える。俺は白い繭に向けて言った。

「連れて来てごめんな。自分の村に帰ってくれ。何度も助けてくれてありがとう」

 白い糸が揺れ、桑巣の神が走り去った。



 血溜まりの中でまだ生きた人間が蠢いている。


 そこに在わす神に凌子がもたれかかっていた。胸から血を流し、割れた眼鏡が落ちている。

「復讐……?」

「俺のじゃねえ、あんたらが好き勝手した神のだよ」

「最悪ね……」

「あんた、本当は神を憎んでるだろ」

 凌子は初めて微笑を崩し、無表情に言った。

「ええ、夫のことは本当……私の故郷の神のせいであのひとはおかしくなったの……」

「信じるよ」


 凌子はまた作り物じみた笑みを浮かべた。

「撃ったら……?」

「撃つかよ。あんたが消した奴らに一発ぶん殴られて来い」

 俺は拳銃を放り捨て、礼拝堂を出た。



 扉を開けると、濃密な血の匂いが夜風に洗い流された。

 月もない夜空に粗雑な白い像だけが浮き上がって見えた。俺は口に出さず祈る。


 全部消してくれ。神に手を出した全員を。俺たちみんなの間違いをなかったことにしてくれ。


 白い像のヴェールが風に揺れたような気がした。



 辺りは変わらず静かで、冷たい夜風が吹くだけだ。血の匂いも呻き声もしない。

 俺は分厚い扉を押して、礼拝堂に戻った。



 血の海が消えている。

 肉片も手足も死体もない。生き残りも誰もいない。

 神々の破壊の痕は残り、散乱する長椅子や机が元から廃墟だったように見せていた。


 破れたステンドグラスから吹き込む風に壁の資料が揺れる。奥にはそこに在わす神が鎮座していた。


 俺は無人の礼拝堂を進み、懺悔室からの階段を駆け降りた。



 辿り着いた先も何もなかった。空疎な暗い地下室に切間の姿はない。死体がないことの安堵が、やり切れない思いを堰き止めた。

 床に二枚の紙がへばりついていた。俺はそれを拾い、足早に地下を出た。



 俺は何も考えないように言い聞かせながら建物を後にした。

 夜露で湿った階段に座り込む。風が木を撫でる音が聞こえる。


 冷泉の煙草を出し、切間のマッチで火をつけた。

 夏が終わる。あいつらと一緒にいた時間は、たったこれだけしか残らなかった。



 煙が闇に溶け、火花が散る。

 俺は拾った二枚の紙を出した。片方は切間の名刺、もう片方は対策本部の写真だった。


「家族写真はちゃんと持ってったのかよ、切間さん……」

 雨は降ってないのに、写真に透明な雫が落ちた。



 俺たちは何もかも間違った。神々は、人間の手には負えない。それでも、まだ世界も人生も終わってない。



 泣いたのは兄貴の葬式以来だった。

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