五、そこに在わす神
店を出た途端、黒い車が停まっていた。
死神が迎えに来たようだ。
後部座席の窓から凌子が顔を出した。
「少しは休めた?」
「つけてやがったな」
「私たちを信用してくれなかったでしょう。私たちも同じ。保険をかけたの」
凌子はいつもの落第生に見せる笑みを浮かべた。
切間は暗い声を出す。
「娘に一本電話を入れたい」
「勿論。対策本部室に寄ってから行きましょう。長丁場になるから仮眠室とシャワーも自由に使って。着替えのシャツも用意してあるから」
俺たちは霊柩車のような車に乗り込んだ。
対策本部室のシャワールームは湿気がひどく、ガス室のようだった。髪と黴が排水溝に溜まって灰色の水が停滞している。
蛇口から毒霧が溢れるのを想像したが、温い湯が降り注いだだけだった。
俺は殺されない。まだ利用価値があるからだ。でも、死ぬよりまずいことが沢山あるのを知った。
石鹸の泡と湯は髪から垂れるだけで、頭の中の澱みを洗い流してくれない。
シャワールームの前に白いシャツが置かれていた。
俺の安物の派手な服とは違う。
袖を通すと、対策本部の一員として呑み込まれたようにも、死装束のようにも思えた。
濡れないように置いておいた冷泉の煙草と、切間のマッチをジーンズにねじ込んだ。
地下から上がると、備え付けの電話に向かう切間の背中が見えた。娘に何を話しているのかは聞こえない。
地獄でも、それすらなくても、行くしかない。
窓を塞いだ車は俺たちを乗せて進んでいく。
凌子は膝の上に広げた資料を捲っていた。
「そこに在わす神の使用記録はほぼ残っていないの。記録があっても使用者以外に前の世界との違いを確かめる術はないけどね。だから、実験を重ねなきゃ」
「もう始めてんのか」
「いえ、私たちが到着してから。一日一度しか使えないから何ヶ月もかかる。対策本部の三分の二が集まる大仕事よ」
車を運転するのも、助手席のも知らない奴らだ。対策本部が総勢何名かも俺は知らない。
「その間、他の神は放置か」
切間は凌子を睨んだ。新品のシャツとは対照の酷くくたびれた目つきだった。
「仕方ないでしょう。最も危険な神なんだから」
凌子の微笑みは言葉とは裏腹に楽しげだった。
車が山道に停まる。あの建物は闇に溶かされている最中のように朧げだった。
森のざわめきにブレーキ音が混じる。
降車してから俺たちの後ろに三台の車が追走していたことを知った。それぞれからスーツや私服の老若男女が降りて来た。
鉄柵を抜け、ぬかるんだ道を進む。夜闇に荒削りな神像が茫洋と浮かんでいた。あれは知られずの神だろうか。俺と切間以外の他全員消してくれと願ったら叶うんだろうか。
俺は凌子に促されて、礼拝堂の扉を潜った。
中には二十人近い人間がひしめいていた。
埃と黴の匂いより濃いひといきれに息が詰まる。
凌子が朗らかに言った。
「お待たせしてごめんなさい。彼らがそこに在わす神の調査を進めてくれたふたりです」
全員が俺と切間を見る。驚嘆の声や拍手まで聞こえた。宗教じみた空間だった。
「もう情報は行き渡っています?」
扉の前にいた上田が腕時計を見る。
「ええ。もうすぐ日付が変わるわ。誰が行くの」
「僕でいいですか?」
手を上げたのは梅村だった。
「彼らの情報じゃ信用できないんで自分で確かめますよ。現実を改変できるか、ひとの死は変えられないのか、その両方ですね」
奴は挑むように俺を仰いだ。俺はご自由にと肩を竦める。
上田がまた腕時計を見た。
「零時零分。始めましょう」
全員が見守る中、梅村は扉に向き合った。
「緊張しますね」
切間は俺の隣で腕を組み、梅村に言った。
「気をつけろ。毎回同じことが起こるとは限らない」
「わかってますよ。僕も対策本部なんで」
若くて俺よりずっと裕福な奴が何故こんな仕事についたんだろう。別の機会に会っていたらそういう話もできただろうか。
駄目だ、切間の甘さが移ってやがる。
「行きます」
梅村はスーツの腹で手汗を拭き、扉に手をかけた。細い脚が敷居を跨ぎ、木枠を潜り、向こう側へ抜けた。
扉を閉めた梅村の顔は少し紅潮していた。
「すごかったです。黒い人影みたいな、本当にいました」
興奮気味に話す梅村に、凌子が苦笑する。
「無事でよかった。それで、何を願ったのかな?」
「はい、ポロニア=パイパー症候群を失くせって願いました」
俺含めた全員が眉をひそめる。
梅村は更に声を上げた。
「誰も知らないんですか? 本当に? じゃあ、僕の父親は?」
「癌で亡くなったと……」
切間の答えに、急に梅村は元気を失くした。
「やっぱり死んだひとのことは変えられないんですね」
梅村はそう言って、急に蹲ってえずいた。凌子が奴の背をさする。
「大丈夫?」
「すみません、まだ混乱してて……」
「いいよ、少し外の空気を吸って車で休んでいて」
梅村がフラフラと退出してから、凌子は一同に向き直った。
「そこに在わす神の有効性がわかりましたね」
上田がかぶりを振る。
「彼が芝居を打っていないという確証はないわ」
「それはこれから確かめていきましょう」
「確かめてどうする気だ」
切間が一歩踏み出した。
「誰にも知られず現実を改変する力が本当にあるなら危険すぎる」
凌子は眼鏡の奥の目を細めた。
「じゃあ、どうする気かな」
「即刻使用を停止し、封印すべきだ。迂闊に使ったら国が滅ぶなんてもんじゃない」
「では、迂闊に使わない機関が保有すべきよ」
上田が口を挟んだ。
「何?」
「有用性が証明されれば、我々ではなく国の管轄にすればいい。貴方のお義父様ならそのパイプも持っているでしょう」
「国に持たせてどうする」
「我々は大局を見なければ」
老女は指を組んだ。背後で厳しい大柄の男が切間を睨んでいた。
「そこに在わす神は現実を改変するだけではなく、以前の記憶を持った者を新しい世界に送り込むことができる。情報戦の時代に置いてこれ以上のアドバンテージはないわ」
「正気か?」
「第三次世界大戦」
凌子の静かな声が響いた。
「件の神の予言が妄想でないのなら本当になるのかも。そのとき日本がどんな被害を受けるか。礼ちゃんに平和な未来を残したいでしょう?」
切間の喉仏が上下した。
凌子は扉の前を歩き回った。
「そこに在わす神を使えば日本は有利に戦える。神は人間を守るものでしょう。在り方として逸脱しないわ」
「……その結果、どんな歪みが起こるかわからないぞ。領怪神犯に国の主導権を譲る気か?」
「既にそうなっているのかもね。宮木家は何度もこの神を使ったんだもの。これは神を利用して主導権を奪い返す行為よ」
切間は押し殺した声で言った。
「承服できない」
上田の深い溜息の後、かちゃりと冷たい音がした。
「切間さん!」
俺は飛び出した。上田が右手に拳銃を持っている。
切間は素早く懐から出した銃を構えた。
「怪我しますよ。射撃訓練は受けてないでしょう」
礼拝堂にざわめきが走った。
凌子だけが笑みを浮かべたままだった。
「ふたりともやめてください。今はいがみ合っている場合じゃないでしょう」
上田と切間は膠着状態で睨み合っていた。更に何人かが銃を取り出す。まずい。
上田の背後の男も銃を抜いた。
「切間、いい加減にしろよ。警察の頃から余計なことばっかりしやがって!」
数人が逃げ出そうと蠢く中、小柄な女が銃口を男に向けた。
「すみません……私も反対です……」
男の注意が一瞬そっちに向いた。
俺は駆け出し、地を蹴って大男の脇腹に膝頭をぶち込む。男が吹っ飛び、銃が宙を舞った。
切間が地に落ちた銃を咄嗟に蹴り避ける。
やった。そう思った瞬間、火花が爆ぜた。
上田の構えた銃口が閃き、雷のような音が轟く。
切間の白いシャツの腹から真っ赤な鮮血が飛び散った。
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