四、そこに在わす神

 穏やかな振動のせいか、昔の夢を見た。


 家族で車に乗ったのはいつが最後だろう。親父が運転席、助手席のお袋がたまに振り返って、後部座席で眠る兄貴と俺を見る。

 出かけた場所は忘れたが、窓に映る夜光や、両親の潜めた声や、肩に寄りかかる兄貴の頭の重みは覚えていた。



 停車と共に俺は目を覚ました。

 窓にスモークを貼った物々しい車内だ。対策本部の奴らに囲まれて眠った自分に驚いたが、隣の切間も目を擦っているのを見て少し安心した。


 凌子がドアを開ける。

「ふたりは先に降りて、ゆっくり休んで」

 半開きの扉の向こうは、朝日で輝く大病院だった。



 車を降りて凝った肩や腕を回す。早朝の空気は冷たく清潔で、肺に溜まった澱みがやっと消えた気がした。

「で、何処だよここ」

「俺の嫁の入院先だ」



 切間は慣れた足取りでリノリウムの床を進む。

「妻は身体が弱くてな」

 静かな院内に響く声は疲労が滲んでいた。

「入院中、礼ちゃんは?」

「普段は義父が見ているが、母親から離れたくないとぐずったら泊まり込みだ。そのときは俺も付き合う」

「大変だな、お父さん」


 切間は個室の前で足を止める。

 扉のガラス窓の先、白いベッドが見えた。盛り上がった布団の端から長い黒髪が覗き、傍に小さな毛布が丸まっていた。


 切間が扉を開けた途端、毛布が跳ね上がった。

「お父さん!」

 飛び出した礼が一目散に駆けてきて切間にしがみついた。礼は動揺する切間の腹に頭を押しつけ、小さな拳で何度も叩いた。

「何で一回も連絡しないの!?」

 礼の泣きそうな声はひたすら幼い。こんな年でも親父が危険な仕事をしているのはわかってるんだろう。

「ごめんな……」

 切間は娘の髪を撫でる。


 凌子たちは切間を気を遣って病院の前に降ろした訳じゃないだろう。家族の首元に手をかけているという脅しだ。

 ごめんな、と俺も呟いた。



 切間が娘を宥めていると、礼の祖父という老人が来た。


 俺は少し離れた場所で様子を伺う。

 スーツ姿で帽子を被ったこの爺さんが宮木か。背筋は伸びて目つきも鋭く、政治家や大学教授のような権威を感じた。俺の知らない真実を山ほど知っている、対策本部の重鎮だ。


 宮木老人は礼の手を引きながら一瞬俺を見た。俺が見返すと、老人の方が目を逸らして立ち去った。


 切間は遠ざかる娘の背を見つめて言った。

「飯でも食うか」



 辿り着いたのは、前に切間と礼と訪れたラーメン屋だった。

 古い赤提灯は光を失い、暑くなり出した夏風に揺れていた。


 ベタついたメニューを開きながら、硬い丸椅子に座る。冷たい布巾で手を拭くと、指についた泥が布地に溶けた。


 俺は前と同じラーメンと半チャーハンを選び、切間も同じものを注文する。今日は娘の残飯が回って来ないからだろう。



「礼ちゃん、大丈夫かよ」

 俺は水のグラスを傾ける。結露が指を伝って涙のように落ちた。

「まあな。後で機嫌を取るさ」

「また鯛焼きか? 粒あんの」

「ろくでもないことはよく覚えてるな」

 切間は口角を上げた。



 運ばれてきたラーメンを啜ると、空の胃に重たく沈み込んだ。脂っこいチャーハンを水で流し込みながら、俺は口を開く。

「なあ、あの扉を潜ったときさ、本当は誰かに会わなかったか」

 切間の箸からメンマが零れ落ちた。やっぱり同じものを見てたのか。


「矛のようなものを持った巨大な人型の何かに会った。烏有、お前もか?」

「おう、そいつに話しかけられたか?」

「ああ、何を言ってるかわからなかったが」

「何て答えた?」

「ただ何事もなく戻りたいと言っただけだ」

「俺もだよ」

 切間はラーメンの器を見下ろした。


「日本神話、知ってるか」

「歴史なんて織田信長くらいしか知らねえ」

 切間は呆れ顔をして、まだ食べかけなのに煙草を手に取った。

「古事記では、二柱の神が矛で混沌としていた大地を掻き混ぜて日本列島が生まれたとされるんだ」


 俺は息を呑む。

 窓の外の混沌を掻き混ぜるような矛。あれが日本を作った神じゃないにしても相当似ていた。それなら、最高にヤバい神だというのも頷ける。



「凌子さんたちは何で知らねえんだ。自分たちで試したらわかるんじゃ……」

「試してねえんだろ。危険なことは俺たちみたいな奴に押し付けて、自分たちは安全な場所で見ていた。扉を使った人間は皆、凌子たちを危険視して教えなかった。だから、知らないんだ」

「何だよそれ、捨て駒じゃねえか……」

「対策本部はそういうところだ」

 俺はレンゲを器の中に落とした。スープは残っていたが飲む気になれなかった。



 ポケットを探ると、冷泉からもらった煙草が出てきた。

「ライター借りていいか」

 切間は無言でライターを滑らせる。煙草に火をつけると、重い煙が喉を雪崩れて噎せ返った。

「十代か?」

「うるせえな、いつものやつより重いんだよ」

 冷泉の煙草は不味い。どうせなら銘柄を選ばせてくれればよかったのに。胸の奥に棘が刺さった感じがした。



「切間さん、消されないように気をつけろよ。俺と違って悲しむ奴がいるんだからさ」

 切間が驚いたような顔をした。

「お前もいない訳じゃないだろ」

「誰だよ。家族も友だちもろくにいねえぞ」

「娘がお前のこと話してた」

「礼ちゃんが? 何て?」

 切間は答えなかった。



 空の器を店主が下げる。スープの汚れが輪になった机に、煙草の灰が落ちた。

 切間は財布を開け、名刺のようなものと二枚の写真を取り出した。


「何だそれ」

「冷泉が、知られず神に連れ去られても、書類や写真なんかの記録が残っていれば完全に消されないんじゃないかと言っていたんだ。だから、持ち歩いてた」


 俺は名刺の方を受け取る。

 "宮内庁特別機関所属 切間蓮二郎"と書いてあった。


「宮内庁?」

「対策本部に入ったとき渡されたものだ。うちは極秘の機関だからな。俺の義父、宮木が宮内庁の重鎮と関わりがあって、便宜上はその管轄になってる。見る奴が見ればわかる、警察手帳みたいなもんだ」

「へえ……」

 この書類でも名字は切間のままだ。



 煙草が燃え尽き、灰皿ですり潰す。

「もう一回ライター貸してくれよ」

 切間は正方形の厚紙を投げて寄越した。台紙にビジネスホテルの名前が書かれたマッチだった。

「持ってろ」

「これ苦手なんだよなあ……」

 俺はマッチ二本犠牲にしてやっと火をつけた。



 咥え煙草で写真を手に取る。一枚目は切間と今より幼い礼、知らない女が海辺で映っていた。

「熱海に行ったときだ」

 写真の切間はいつもの仏頂面だ。口元を吊り上げてるからこれで笑ってるつもりかもしれない。

「妻が体調を崩したから家族旅行はあれっきりだな」

「治ったらまたいけばいいだろ」

 切間は目を伏せた。



 二枚目の写真は古い機材で撮ったのか、セピア色だった。


 資料を貼った壁の前に古い扉が立っている。あの礼拝堂だ。写真には六人の男女が写っていた。

 中央に切間、冷泉、凌子がいる。私服の老女は上田、白衣の男と軍服の男は見たことがない。


「こいつらは?」

「白衣の方はお前がぶん殴った梅村の父親だ。心療内科医だった。狐憑きの患者を看るうちに神の存在を知ったらしい」

「今もいるのか?」

「癌で亡くなった。今いるのは彼の息子だ」


「軍服の方は?」

都賀つがさんだな。俺の義父とそこに在わす神を研究していた。彼自身も何度か使ったが後に失踪した。消されたのかもしれない」



 淡々と紡がれる切間の言葉に疑問が浮かぶ。

「今の日本ってさあ、軍ねえよな」

 切間は声を漏らした。狼狽が手に取るようにわかった。

「ない……ないが……津賀さんは軍で……」



 切間の手から煙草が落ち、机が焦げ付く。切間は濡れた布巾で慌てて火を消したが、全身汗だくだった。

「大丈夫かよ」

 切間は口元を抑えて言った。

「前提が間違ってるのかもしれない……」

「何のことだ」

「俺は昨日確かに日本に向けてミサイルが発射されたニュースを聞いた。だが、扉を抜けてからはその事実が消えていた」


 切間は俺に詰め寄り、声を低くした。

「そこに在わす神は中に入った人間の望みで現実を改変する神かもしれない」


 何も起こさないと思われていたのは、扉を潜った人間以外気づけないからだ。一日かけて世界を丸々作り変える。そんな神を人間が利用したら––––

「ヤバいんじゃねえか……」



 切間は頷き、震える手で煙草をとった。火が危うげに揺らぐ。

「あの神は昔、宮木家が持ってたんだよな。何で手放したんだよ」

「……義父は妻の死を機に寄贈を決めたと言っていた。今思えば、妻が生きている世界に変えようとして失敗したのかもしれないな。死の運命は変えられないとわかって捨てたのか」



 切間は唇に煙草を押し付けた。

「とにかくこれは誰にも言うな。あの神の特異性に対策本部が気づいたら終わりだ」


 切間が写真と名刺を上着にねじ込むと、内ポケットからイヤホンのようなものが机に転げた。

「落ちたぜ、何だこれ?」

 俺が拾って渡すと、切間の顔がさらに青くなる。小さな黒い機械は赤いランプが灯っていた。

「盗聴器だ……」



 凌子が切間の上着に手を滑らせていたのを思い出す。

 最悪だ。

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