三、そこに在わす神

「何考えてんだ、やめろよ」

 詰め寄った俺を切間が制止する。


 凌子が苦笑した。

「どうせなら烏有くんに試してほしかったな。神が見えるかもしれないもの」

「それなら先に俺が入る。烏有は後だ。問題ないだろう」


 切間はがんとして譲らなかった。

 どうせやるしかない。今すぐ全員殴り倒して逃げてもきっと捕まるだけだ。



 凌子が退き、そこに在わす神への道を開けた。

 上田が腕時計を見て手帳に素早く書き込む。八月二十九日、二十三時五十二分。


 朽ちた礼拝堂の中には澱んだ空気が満ちるだけだ。神も化け物も何も見えない。

 凌子と他ふたりは固唾を飲んで見守る。切間は迷わず進み、引き戸に手をかけた。



「切間さん……」

 俺は無意識に歩き出していた。上田が警戒の視線を向ける。


 切間は扉を開けた。俺は足を早める。

 切間は鴨居を跨ぎ、俺が辿り着く前に木枠をくぐり抜けた。


 俺は立ち尽くす。扉の向こうに何事もなく切間が立っている。本当にただ出入りしただけ。


 切間は憔悴した顔で扉を閉めた。凌子が首を傾げる。

「どうだった?」

「……確かに御堂だった。畳ばりの空間で

 障子で仕切られていた。窓があったが外には出られなかった」

「窓からは何か見えた?」

「何も……時間の感覚はないが随分長くいた」

 切間は首筋の汗を拭い、長椅子に腰掛けた。出入りして三秒も経っていないが、切間は徹夜したくらい疲れ果てていた。



「今までと同じね。次は烏有くんかな」

「霊感詐欺師の本領発揮か」

 梅村の声だ。もう一発殴ってやろうかと思う。


 俺は扉の前に立つ。ささくれた木板は歪んだ木目に何か筆文字が書いてあった。

 くにうみ、と読めたが、意味はわからなかった。


 俺は扉を一気に開けた。

 中には何もなく、塗装の剥げた向こう側の壁が覗くだけだ。

 俺は深く息を吸い、敷居を踏み越えた。



 割れた木板から覗く土の感触が足の裏に響く。扉の向こうの床に両足をつける。

 辺りを見回したが、先程の光景と何も変わらない。


 俺は傍で見守ってた凌子を睨む。

「何もないぜ。御堂も見えなかった」

「見えないひともいるみたい。法則性はわからないの」

「本当に一番危険な神なのかよ」

「やっぱり件の神がおかしいのかも。日付も変わったし、今日はここまでかな」


 梅村が嘲笑した。

「霊感も役立たずかよ」

「これは未知の神よ。簡単に調査は進展しないわ」

 冷たく答える上田を、切間が見上げた。


「ああ、こんなことをしてる場合じゃない。ニュースは、東京は無事なのか?」

 上田が怪訝な顔をする。

「何の話かしら」

「何処かの国がミサイルを発射して、軌道が東京湾を目指していると報道されてただろう」

「聞いたことがないわ。いつの話?」

「今朝だ!」


 切間の怒声に、全員が困惑の顔を浮かべた。誰も理解できず、切間だけが焦っていた。まるで今朝の俺みたいだ。

 冷泉が消えたことに気づいていない切間に必死に喋ったのを思い出す。


 俺たちが気づかないだけで何かが起こったのか。それは、そこに在わす神が起こしたのか。


 俺はふらついて木枠に手をかけた。扉を閉めていなかったことに気づく。

 扉の鴨居を頭の先が潜ったと思った瞬間、空気が変わった。



 ***


 井草の匂いが鼻腔を突き抜けた。靴底が柔らかな畳を踏む。

 広い和室が広がっていた。


「何だここ……」

 清廉な光が障子を透かし、畳に木の格子の形を映す。周囲は無音だ。障子を揺すってみたが動かなかった。


 そこに在わす神を使った者はお堂の中で過ごした記憶を持って帰る。じゃあ、ここが神の居場所なのか。さっきは何事もなかったのに、何でこうなった。


 鼓動が早くなった胸を抑える。

 一日過ごせば元に戻れるんだろう。落ち着いて、昼寝すればいい。そうだ、俺はガラにもなく働きすぎた。



 そのとき、暗い影が差し、重量を持った何かが背後に現れた。

 俺は恐る恐る振り返る。


 白布を被った巨大な人影が真後ろにいた。御堂の天井に頭を突くほどデカい。

 真っ黒で影が質量を持ったみたいだ。白布の中の闇に吸い寄せられて呑まれそうになる。


 身動きできない俺に、影はゆっくりと頭部を近づけた。理解できない囁きが奇妙な音階で響く。

「何……わかんねえよ……」

 見上げた影は、片手に棒のようなものを持っている。両側の壁を貫くほど長く、片方の先端にぎらつく金属がついていた。薙刀や矛みたいだ。


「嘘だろ……」

 影が腕を振るった。壮絶な音と風圧が押し寄せた。

 巨大な影が矛を振ったんだ。



「何も起こらないんじゃねえのかよ!」

 俺は影に背を向け、駆け出した。

 畳は何処までも続く。同じ光景がどんどん後ろに流れて感覚がおかしくなりそうだ。


 影は追ってこない。矛が風を切る音と破壊の音が響く。


 気が遠くなりそうな畳と障子の中に丸窓が浮かんでいた。

 足を止めて窓の外に目をやると、全色の絵の具を水にぶちまけたような混沌が渦巻いていた。


 俺は再び走る。

 畳、障子、窓。何も変わらない。音が響くたび、窓の外が色を変える。



 突然目の前が陰り、影が立ちはだかっていた。足から力が抜け、俺は畳にへたり込む。

「何なんだよ……」

 影はまた妙な言葉で何かを語りかけていた。どうしろって言うんだ。

「俺は帰りたいだけだ。何もなかったみたいに……」

 そこに在わす神。最も危険で未知数の領怪新犯。

 神が矛を振り上げた。



 ***



 気がつくと礼拝堂にいた。

 切間と凌子、他のふたりが驚いた顔で俺を見ている。頭が混乱している。

 ボロボロの礼拝堂と壁一面の資料。連れてこられたときのままの空間だ。


「烏有?」

 切間が立ち上がって問う。

「御堂に行った……畳と障子のある……中に……」

 人影が、と言いかけて口を抑えた。


 あの影の話は誰もしていないようだ。

 見えたとわかったら、ろくでもない調査に付き合わされるかもしれない。こいつらに教えない方がいい。



「もしかして、使えるのは一日一回限定なのかな」

 凌子はふっと息を漏らし、俺の手を取った。

「ありがとう、烏有くん。これだけで大きな進歩よ」

 優しい声だった。縋りつきたくなるくらいに。騙されないよう、俺は目を硬く閉じる。


「ともかく、これでふたりを信用できる。烏有くんも正式に対策本部に招こうと思うの」

 上田と梅村は不服げだった。


 凌子は俺から離れ、切間の肩に手をやる。

「切間くんもありがとう。最後まで使わないでくれて」

 凌子は上着のジャケットに手を滑らせる。内ポケットから拳銃が露出し、梅村たちの息を呑む声が聞こえた。



 礼拝堂の奥に直方体の懺悔室が聳えている。

 告解する神も、神に詫びるような人間もいないと言うのに。



 俺たちはまた車に乗せられた。

 今度は上田がハンドルを握り、梅村は助手席で寝こけている。


「この辺りは神隠って地名なの」

 発車と同時に、凌子が行った。

「いろんな事情で余所から逃げてきたひとたちが住み着いて、無事に過ごせるよう隠してって神様にお願いしたからだって」

「それをひと殺しに悪用してんのかよ」

 俺の挑発に、凌子は悲しげに首を振った。


「誰も殺してないわ。知られずの神に消されたひとは皆、極楽みたいな綺麗で穏やかな場所に行くの」

「何故わかる」

 切間が鋭く言った。

「前に烏有くんと同じ力を持つひとが見たの。だから、使おうと思った。地獄に堕とす神なら使ってない」

 対策本部にいた烏有、俺の遠い親戚のはずだ。そいつも消された。



「夫は仕事で精神を病んでしまって、私は死なせることも助けることもできなかった。彼は自ら人的措置を望んだの」

「冷泉は、望んでたのかよ」

 凌子は眼鏡を外してブラウスの裾で拭いた。

「少しを犠牲に多くを救うえるならそうべきよ。私たちは危険な神を鎮め、人間を守るために、神秘を侵している。それなら、私たちが神の代わりをしなきゃ」


 こいつらが演じる神はどんな領怪神犯よりも無慈悲だろうと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る