七、そこに在わす神
資料を選り分けて、廃墟の裏にあったドラム缶で燃やすうちに朝が来た。
記録を全て燃やしたら神がどれだけ危険かわからなくなる。少しは残した方がいいが、どれを残すべきかわからない。
ここに来た奴らは対策本部の三分の二らしい。もしかしたら、まだ消えていない奴らもいるかもしれない。そいつらは資料の破棄と対策本部の立て直しを手伝ってくれるだろうか。凌子たちのように敵対したら?
「俺だけじゃ駄目だ……とりあえず東京に戻らねえと……」
燻る紙片と火の粉が蛍のように舞い、空が薄桃色になる。
俺は落ち葉と土で火を消して、山道を下った。
鳥の声と木々のざわめきが苛むように響く。帰り道もわからない。歩ける距離じゃないだろう。血塗れだったはずの俺のシャツは、煤の汚れしかついてなかった。
錆びた鉄柵を抜けると、一台の黒い車にもたれる男がいた。
「梅村……何で……」
奴は憔悴しきった顔をしていた。
「お前、何で消えてないんだよ! 対策本部員じゃねえのか!」
「まだ研修中なんだよ!それより、何でこっちの台詞だよ! 銃声が聞こえたと思ったら、すごい音がして、中から化け物みたいな……」
梅村は吐き気を抑えるように口を覆う。
何てことだ。梅村は正式な職員じゃないから消されなかった。俺がまだここにいるのもそういうことか? 思い返して急に不安になった。
「なあ、お前俺のこと覚えてるか……」
梅村は目を鋭くして、俺の頬を殴りつけた。
「覚えてるに決まってるだろ」
奴は吐き捨てるように言う。痛いはずだが、感覚が鈍磨して他人事みたいだ。それより、消し去られなかった安堵の方が勝った。
「よくわかった」
梅村は溜息をつく。
「中の奴ら、死んだのか」
「死んでねえよ。全員消えた」
俺が話している間、梅村は黙って聞いていた。高くなった太陽の光と熱が首筋を啄んだ。
「いつかこうなるんじゃないかと思ってた」
俺が話し終えると、梅村はそう言って背を向けた。
「お前、運転できる?」
「戸籍もねえのに免許があるかよ」
梅村は目を丸くした。
「じゃあ、また僕が運転席かよ。免許ある奴が残ってればよかったのに」
助手席のドアは俺に向けて開かれていた。迷っていると梅村が苛ついた声を出す。
「早くしろよ、歩いて帰る気か」
俺は服の汚れを払って乗り込んだ。
車内は篭った熱気が満ちていた。梅村はハンドルに頬杖をつく。
「これからどうするんだよ」
「あそこの資料をどうにかする。大事なもんだけ地下に運び込んで、あとは捨てる。それにはまず対策本部を立て直さなきゃな。二度と同じこと起こさねえ奴だけ選ぶんだ」
言い終わってから、俺は梅村を見た。
「手伝ってくれんのかよ」
「まあね」
「何で?」
「お前が俺を殴ったから」
意味がわからず問い返す。梅村は唐突に言った。
「僕冷泉さんに告ったことあるんだよ。振られたけど」
奴はフロントガラスに映る朧げな神像を見つめていた。
「消したい訳じゃなかった」
俺はわざと横柄な態度で助手席にふんぞり返る。
「振られたのかよ。ダセえな」
梅村に肩をどつかれた。懐かしい痛みを思い出してまた泣きたくなった。
フロントガラスにはスモークを貼っていないから遠ざかる木々と、徐々に都会染みていく街並みがよく見えた。東京の交差点はどこもひとがごった返している。
「夏休みも今日で終わりなのにな」
俺の呟きに梅村が嘲笑を返した。
「終わりだから遊ぶんだろ。宿題残してたタイプかよ」
「学校ほぼ行ってねえんだ」
梅村は黙り込んだ。
夜を映すガラスにネオンの粒が溶ける。何も知らずに生きている人間たちが蠢いていた。
闇に聳えるビルが見えた。対策本部室に明かりがついている。
梅村が車を停めるのを待っていると、エントランスから帽子を被った矍鑠とした老人が出てきた。宮木だ。
梅村が呻き声を出す。
「対策本部の創設者だよ。参ったな、いきなり本命だ。どうする?」
俺はシートベルトを外した。
「行ってくる」
「勝算ある訳?」
「そんなもんねえよ……」
俺はシャツのポケットに捩じ込んでいた名刺を出した。
「でも、まともに生きろって言われたんだ」
ミラーに映る自分の顔を見た。
俺が知ってる一番まともな大人は、あいつだ。
前髪を撫で上げ、背筋を正す。鋭い目つきを作り、口元を引き締める。俺は車を降りた。
「宮木さん」
老人は振り返る。俺は大股で老人に歩み寄り、一息に言った。
「対策本部は壊滅した。領怪神犯のいくつかも脱走した。至急組織を立て直す必要がある」
自分で驚くほど低い声が出た。老人は怪訝な顔で俺を見た。
「……何を知っている?」
「全てを」
俺は詐欺師だ。神だって人間だって騙してみせる。老人が口を挟む前に畳み掛けた。
「交渉だ。組織の再編に協力するならそこに在わす神を譲渡する。代わりに対策本部の人選は俺に任せてほしい。神に干渉せず、記録を目的とした組織に変える」
老人は俺を眺める。覚えがあるが思い出せないという表情だ。
「君は誰だ……」
俺はポケットから名刺を出して見せつけた。
「宮内庁特別機関対策本部、切間蓮二郎」
対策本部は思ってた以上にとんでもない組織だった。
凌子たちはほんの末端だ。半月もかけずに礼拝堂にあった資料は厳選され、地下に運び込まれて、廃墟は封鎖された。
埃っぽい対策本部室は変わらない。
俺が机に山積みの資料に向かい合っていると、梅村が後ろから顔を覗かせた。
「重役は大変だな。僕もいいポジションに入れといてよ」
「言われなくてもこき使うから安心しろ」
梅村が携えたマグカップから、コーヒーの湯気の匂いがした。
「で、組織再編の目処は立ったのかよ」
「時間はかかるけどな」
俺は極秘の印を押された資料の中の写真を見下ろす。どれも隠し撮りされたものだ。民俗学者、刑事、精神科医から何も知らなさそうな子どもまで。
対策本部は恐ろしい組織だと思う。
俺は数枚の紙を抜き取った。
「まず、江里を呼び寄せる。呼び潮の神の実体を知る数少ない人間だ。それから、こどくな神の記録にあった
途中で、梅村が目を背けた。
「お前、別人みたいだな」
「そうしてんだよ」
俺は最後の一枚を捲って口を噤んだ。写真の中に見覚えのある少女がいた。
「ちょっと出てくる」
俺は資料を机に置いた。時計を見ると午後五時だった。病院の面会時間にはまだ間に合う。
切間と訪れたときの記憶を辿って、俺は病院の廊下を進む。片手に持った紙袋がかさついた。
廊下に小さな影が差し、病室の前にひとりの少女が立っていた。賢そうな大きな目とふたつに結った髪は変わらない。
「礼ちゃん、だよな」
切間の娘は不思議そうに俺を見上げた。
「お母さんのお見舞いか?」
礼は母親の病室に視線を走らせる。警戒されている。きっと覚えてないんだ。
「ええと、お母さんの友だちですか」
「お父さんのだよ」
少しの沈黙の後、礼は首を振った。
「お父さん、いないんです。私が生まれる前にいなくなっちゃったの」
心臓に冷たいナイフが滑り込んだような感じがした。俺は声を絞り出す。
「そっか……」
「大丈夫ですか」
礼の瞳が警戒から心配に変わった。こういうときの顔は切間に似ていた。
「お父さんのこと知ってるんですか」
「ああ、知ってる。覚えてるよ。ずっと礼ちゃんとお母さんのこと心配してた。たぶん今も」
俺は持っていた紙袋を突きつけた。礼は困惑気味に受け取る。
「全部粒あんだから」
俺は答えを聞く前に、踵を返して元来た廊下を進んだ。
病院を出ると、外はもう暗く空気が冴えていた。晩夏と初秋は少しの時間差でどうしてこうも変わるのだろう。
そこに在わす神は宮木老人たちがさっさと持ち去った。宮内庁の何処かに保管するらしい。きっと利用する気だ。真実に近づくほど、どれだけ自分が遠いところにいるか思い知らされる。
俺は極秘情報を知ることができる立場に食い込んだ。
まだ神について何か知ってるようなはったりを利かせた甲斐があった。
奴らが世界を作り変える気なら、俺は元に戻すことに使う。
神天にしろしめす、だ。
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