一、そこに在わす神

 東京は雨が降っていた。

 対策本部室の窓に大きな雨粒が貼りついて、雫の中に街路を行き交う人間と車が凝縮されていた。

 夏の雨は嫌いだ。八月だってのにクソ寒くて騙し討ちを食らった気分になる。



 コーヒーでも飲もうと思ったが、俺ひとりじゃポットの場所もわからない。今日は誰もいない。他人の家で留守番してるみたいだ。


「こんなに働いてるのにまだ部外者かよ……」


 口に出すとさらに疎外感が増す。あの言葉が頭から離れない。

 烏有という姓は存在しない。親父やお袋が偽名を使ってたと思えない。じゃあ、どういうことだ?



 ノックもなしにドアが開き、切間が現れた。

「いたのか」

「俺しかいねえよ。みんな何してんだ」

「さあな。また神を使った悪巧みだろ」

 切間は肩を竦める。上の奴らとは相当反りが合わないらしい。


 切間は「冷えるな」と呟いて、赤と黒の花柄のポットを出した。凌子の趣味だと思った。

 ポットが緩く噴き上げる湯気で、対策本部室が霧のように霞んだ。



 切間はいつも通りだ。故郷の村のイカれっぷりを目の当たりにして逃げ帰ってから、数日しか経ってないのに。俺は机に頬杖をついて呟く。


「この間は大変だったな」

「お互い様だろ」

「冷泉は?」

「病院に行かせたが問題ないそうだ。もうすぐ来る」

「江里だっけ、俺らを逃した奴は?」

「無事だ。村の人間に知られないように逃げて、今は友人のツテで東京にいるらしい」

「あいつ友だちいるのかよ」

「思っても言うもんじゃないぞ」


 素気ない答えだが、裏でいろんな葛藤を押し殺しているのはわかる。


 俺はパイプ椅子に座って窓を眺めた。俺が取り調べを受けたときの椅子だった。

 夏の始まりにここに来てから、全てが変わった。ほとんど知りたくないことばかりだったが、悪くないことも少しはある。



 ポットの湯が沸騰した。

「なあ……俺の名字は存在しないって本当か?」

 切間が目を伏せる。


 そのとき、扉が開き、資料を抱えた冷泉が入ってきた。

「気まずい雰囲気ですね。お邪魔でしたか」

 冷泉は顔色もよく、村での一件はちっとも堪えてなさそうだ。

「入ってくれ。ちょうどその話をしてたところだ」

 切間は冷泉が両手で抱える資料を顎で指した。



 机に灰皿と、コーヒーが湯気を立てるマグカップと、古書からバインダーまで混ざった本の山が並ぶ。

 冷泉は俺と切間の向かいに座った。取調を受けたときは、俺が今の冷泉の立ち位置だったなと思った。



「さて、烏有さんの件ですね。改めて調べましたが、やはり烏有という名字は存在しません。切間さんも御存知では?」

「本当かよ」

 切間は腕を組んで頷いた。

「以前、お前の戸籍を調べたときに知った。混乱を招くだけだから言わなかった」

「何で調べたんだよ。余罪はもうねえぞ」

 切間は呆れた顔をした。


 冷泉が小さく笑う。

「言ってなかったんですか? 烏有さんが売り飛ばした戸籍を買い戻すか、作り直そうとしていたんですよ」

「……何で?」

 切間は大きく息をついた。

「戸籍がなきゃまともな就職口もないだろうが。お前はまだわかい。ここから解放されたら少しはまともに生きろ」


 俺はコーヒーに映る自分が、馬鹿みたいに口を開けてるのを見下ろした。

 まともに生きられるとも、そのために無償で手を貸してくれる奴がいるとも思ってなかった。

 切間がそんなことを考えてたのか。

「……どうも」

 軽く頭を下げると、切間に脛を蹴られた。どういう感情かわからない。



 冷泉はコーヒーを一口啜ってから、ミルクと砂糖をぶち込んだ。スプーンがカップの底を擦る音が勿体ぶって響く。

「本題に戻ります。では、何故存在しない名字を名乗ったのか」

 冷泉は指を立てた。

「存在しないのではなく、昔は存在していたのに抹消されたのかもしれません」

 切間が息を呑む音が聞こえた。



「どういうことだよ……」

 冷泉は机上の本の山から、和綴の今にも解けそうな古書を引き抜いた。

「烏有という姓が現れる資料が二冊だけありました。各地の民間伝承の記録です。それによれば、烏有は歩き巫女の一族だとか」

「歩き巫女?」

「神社に所属せず各地で祈祷や口寄せを行う、旅芸人に近い巫女です。しかし、烏有家は江戸後期にある地で定住し、神を祀るようになったそうです」

 冷泉は本を開いて見せたが、みみずのような筆文字は全く読めなかった。


「その神は、歩き巫女たちに信仰されていた件の神だそうです」

 パイプ椅子が軋み、切間が身を乗り出す。

「切間さん、何か知ってんのか?」

「……俺が所属する前から、対策本部が収容していた領怪神犯だ。未来を見通す権能を持っていた」


 凌子から聞いた話がフラッシュバックした。

 対策本部は既に神を利用している。それが、俺に関わる神だったのか。



 冷泉は煙草を取り出して火をつける。

「対策本部の上層部はいくつかの神を利用して、領怪神犯を発見したり、収容したりしているんですよ。私と切間さんはずっと反対していますが。件の神もそのひとつです」

「へえ……」

 俺は煙草の箱から一本抜き取る。冷泉が咎めるような顔をした。

「前の貸しがあるはずだぜ」

「お前、この話を聞いた後でよく……図太いな」

 切間が眉間に皺を寄せた。


 ふと、あのとき凌子にはぐらかされた疑問を思い出した。

「その神は今……?」

「件の神は徐々に意味不明な予言を繰り返すようになり、利用価値がないと判断されたようです。今頃飼い殺しでしょうね」

「その、意味不明な予言って?」

「第三次世界大戦で日本が滅ぶという予言ですよ」

 突飛な話で何も言えない。切間は煙草を歯に挟んだ。

「今の冷戦の激化を思えば、誇大妄想とは言えないな」

「そうですね」

 冷泉は微笑してすぐに打ち消し、バインダーを引き寄せた。


「これがもうひとつの資料です」

 冷泉が掲げたのは、領怪神犯対策本部と記された紙束だった。ゴシック体のフォントの上から厳重保管と赤い判を押してある。


 切間が眉間に皺を寄せた。

「持ち出したらまずいんじゃないか」

「まずいです。冗談抜きに凌子さんに見つかったら消されます。ですから、内密に」

「そんなにやべーのかよ」

「やべーのです」

 資料じゃなく、凌子がとは聞けなかった。



 冷泉は資料を開く。今度は俺にも読めた。

 長い爪が件の神の頁を指す。


 "対策本部員、烏有伯郎の協力の元、領怪神犯の収容を目的とした実用を承認。"


「烏有……」

 俺の家系の奴が対策本部にいたのか。俺は視線で次の項を追う。


 "これを機に烏有家内で反対の風潮が高まり、稼働を断念。烏有家には人的措置を行った。"


「この人的措置って何だ?」

 冷泉と切間は同時に首を振った。

「わかりません。ですが、これを見る限り確かに烏有という名字の人間は存在していた。今は存在してないことと関わるかもしれませんね」

 頭がパンクしそうだ。俺の家に一体何があったんだ。



 俺は必死に絞り出す。

「何か俺、相当やべーんじゃねえか」

「やべーです」

「お前ら緊張感を持てよ」

 灰皿の縁で灰を払う切間に、冷泉が向き直った。

「やべーのは切間さんもですよ」

「何?」

 冷泉は一枚の紙を抜き取った。

「貴方の登録名、旧姓のままです。戸籍も調べさせてもらいましたが独身扱いになってました。ちゃんと結婚届出しました?」

 切間は目を見開き、長考の後言った。

「嫁の父親が役所に出した……」

 全てが停滞した沈黙の中、煙だけが流れた。



 問題が山積みのまま、俺たちは対策本部を出た。

 雨はまだ降っている。


 冷泉は傘を広げた。

「私に調べられるのはここまでです。後は頑張ってください」

「おう、ありがとうな」

 冷泉が何かを投げた。慌てて受け取ると、煙草の箱だった。

「こちらこそ、煙草ありがとうございました。では、さようなら」

 ビニール傘に流れる雨が、手を振る冷泉を霧のように霞ませた。



 俺は煙草のパッケージを見つめる。

「意外と重いの吸ってやがる。やっぱり変な女だ」

 切間は冷泉の後ろ姿を眺めていた。気づかれないうちに傘立てから適当な傘を盗ろうとすると、切間はめざとく見つけて俺を小突いた。


「まともに生きろつっただろうが」

 切間は黒い傘を広げ、半分俺に傾けた。俺は身を屈めて入る。激しい雨音が殴打のように響いた。


「まともに生きろはあんただろ」

 いつもより遅く歩きながら、俺は呟く。

宮木みやき家に利用されてんじゃねえの。いつでも使い捨てられるように」

「かもな」

 切間の横顔は娘を背負っていたときと同じだった。それでもいいとまた言うんだろう。


 交差点で止まると、駅から溢れたひとの波が対岸に溢れていた。切間が呟いた。

「神天にしろしめす。なべて世は事もなし、か」

「何だそれ」

「神様がいて今日も何事もありませんってことだ」

「何ともないと思い込んでるだけだろ」

「もしくは、そう言い聞かせてるか」

 傘からはみ出した俺の肩を雨が濡らした。藍色の空が変わらない東京に広がっていた。



 翌朝も雨が降っていた。


 対策本部室に入ると既に切間が座っていた。

「早いな、冷泉は?」

 切間が怪訝な顔をする。

「何?」

「何じゃねえよ。冷泉は来てねえのかって」

「……誰の話をしてるんだ?」

 俺は切間を見返す。ふざけているとは思えない。

 嫌な汗が背中を伝った。


「冷泉だよ! 昨日もここに来て、俺の名字とか、あんたが事実婚だとか話しただろうが!」

「確かに話したが……お前とふたりじゃなかったか?」

「俺の頭でそんなん調べられるかよ!」


 切間は困惑の表情を浮かべた。

 昨日の冷泉が頭を過ぎる。まるで、死ぬ人間が最後に借りを清算するように煙草を寄越した。

 雨に霞むあいつの顔が上手く思い出せない。



「切間さん、俺たち……」

「そんなことまで調べてたんだね」

 聞き慣れた声に咄嗟に振り返ると、半分開けた扉の先に凌子がいた。


 切間が立ち上がった。

「凌子さん、何をした?」

「厳重保管の書類を持ち出すなんて、困ったひとたち」

 凌子は微笑む。眼鏡の奥の瞳に光がない。

「ふたりとも、一緒に来てくれる?」


 凌子の背後には、知らない人影がいくつもあった。

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