五、呼び潮の神

 四本の指が、脳に直接滑り込んできたようだ。


 頭蓋の内側をなぞったかと思うと、激痛が走った。

 キンとした鋭い痛みと、ざらついた指の腹が無遠慮に掻き混ぜる鈍痛が同時に走る。


 息が喉の奥で詰まって叫びすら出ない。自分の呼気で窒息しそうだ。

 何かが侵入してくる。俺はのたうち回ることしかできない。


 涙と唾液と鼻水で視界が曇る。

 白い波飛沫の向こうにいるものを見たら終わりだ。

 そう思っているのに、四つ指は俺の脳からゆっくりと眼窩の奥に下る。硬い爪の先が目蓋を内側からこじ開けた。


 頭の中の指と同じ、四股の何かがいた。

「潮は、四尾……呼ばりて来たる……」

 歌声が聞こえた。それが俺の声だと気づいたとき、頭の中で何かが弾けた。



 気がつくと、白い靄が晴れ、洞窟の薄暗がりが広がった。

 喉が焼けるようにひりつき、吐き出した息と共に胃液が口から溢れた。酸の匂いと苦い味。最悪だったが、まだ五感はある。

 頭の中の指の感触はもう消えていた。


 俺は口元を拭って辺りを見回す。

 村人たちが皆さっきまでの俺のように頭を抱えて転げ回っていた。

 天井から潮水が滴り、松明の火を消した。



「切間……冷泉……」

 潮溜まりの中にふたりが倒れている。這い寄って肩を揺らすと、切間と冷泉が目を覚まし、同時に嘔吐した。


「何だったんだ、今のは……」

 切間が声を震わせながら呻いた

「呼び潮の神、でしょうか」

 白い着物をびちゃびちゃ言わせて冷泉が立ち上がる。



「お前ら、何してくれたんだ」

 振り返ると、江里が壁に手をついて身を支えていた。奴の筋張った喉が別の生き物のようにしきりに動いていた。

「おうずを作ったらとっとと帰らなきゃ終わりだってのに、全員見ちまったじゃねえか」


 江里の背後で四股の何かが蠢いた。

「見るな!」

 切間が鋭く叫ぶ。頭痛がまた襲ってきた。俺は硬く目を瞑る。


 闇の中で背中に熱い手の感触を感じた。

 薄目を開けると、切間が右手で俺と冷泉の襟首を掴み、左手で江里の腕を掴んでいた。馬鹿力だ。

「走るぞ!」

 俺は引きずられながら洞窟の外へ駆け出した。



 冷たい空気と砕ける波が打ちつける感触にようやく吐き気が収まる。

 両脚を置いておくのがやっとの足場に、俺たちは立っていた。

「おうずも神もこの村も、何なんだよ!」


 江里は髪から雫を落として俯いた。

「お前らも見ただろうが。何かなんてわからねえ。出てきただけでみんないかれちまう。理科不能な太古の神だ」

 切間が鬱々とした声を漏らした。

「ガキの頃も一度見たことがある。覚えてないんだと思ってたが、違う。理解できなかったんだ」

「俺の弟を追っかけてきたときだったな」

 江里の苦笑いに波音が重なった。


 冷泉は濡れた着物を貼りつかせて震えながら言った。

「見ただけで発狂するような神……放置できないけれど、常人にはなす術がない。だから、敢えてまともな状態ではないひとを作ったんですね?」

 江里が頷いた。


「どういうことだよ」

 冷泉は頰を引き攣らせて笑う。本当に怯えたとき、人間は笑うものかもしれない。

「あの注連縄、見たでしょう? あれにひとを繋いで海に放り込み、溺れかけたところを引き上げて、繰り返す。酸欠になると脳細胞が破壊されます。そうしてできたのが、おうず様なんですよ」

 俺は枯れた喉から無理矢理絞り出す。

「最悪じゃねえか……」


 切間は俺たちの誰よりも酷い表情で江里を見ていた。

「知ってたのか? 知っててあいつを?」

「しょうがねえだろ。誰かがあの神を見張らなきゃならねえんだ。奴が移動したらどうする? 村どころか日本中終わりだぜ」

 切間の目は今にもひとを殺しそうだった。クソ真面目な男がそんな顔をしてるのは見たくない。



 俺は波音に負けないよう強く手の平を打ち鳴らした。

「田舎モンどうしの喧嘩は後でやれよ。問題は今どうするかだろ」

 俺は馬鹿なチンピラらしく声を荒げる。実際その通りだから気楽だ。


「呼び潮の神ってのは、神主のおうず様がいりゃ満足なんだよな? 俺が行く」

 切間が俺の肩を掴んだ。

「何考えてる! おうず様がどんなものかわかっただろ。お前まで……」

「大丈夫だろ。俺は幽霊や化け物が見えるんだ。まともじゃねえだろ」

 切間は言葉を詰まらせた。馬鹿真面目な、見慣れた顔だ。


 冷泉が呟いた。

「烏有さんならいけるかもしれません」

 声は訳のわからない自信に満ちていた。やっぱり変な女だ。俺は切間の手を振り解いた。


「俺が何とかするから、お前らは逃げる算段整えてくれよ。船を待ってたんじゃ朝までどん詰まりだ」

 切間が何か言うのを無視して、俺は岩場を渡り、洞窟に向かった。



 洞窟に吹き抜ける潮風に、胃酸と吐瀉物の匂いが混じっている。村人たちは潮溜まりの中でまだ蠢いていた。


 俺は神を迎えるように岩の上に正座した。

 洞窟の奥にゆらりと動く四つ股が見える。頭痛はさっきより軽い。


 四股が近づいてくる。

 洞窟に薄い光が満ちた。白装束の群れだ。

 ほらな、俺には幽霊が見える。

 呼び潮の神にはおうず様が必要だ。俺なら、呼べる。


 小さな影が立っていた。

 痩せぎすの小さなガキに見えた。押したら折れそうな細い背中が俺を庇うように、呼び潮の神の前に立ちはだかっていた。


 大潮小潮。

 歌声が聞こえる。その子どもが歌ってるんだとわかった。四股が動きを止め、静かに退いていく。


 頭痛が消えた。小さなおうず様が俺を振り返った。

 日に焼けた、干物みたいなガキだった。何となく、俺に似ていると思った。

 奴は俺の後ろを眺め、家族や友だちを見つけたみたいにふと微笑んだ。


 俺が振り返ったとき、騒がしいモーター音が洞窟に響いた。



 眩しいライトが洞窟の壁を無遠慮に舐め回す。

 岩場の抜け道から見える海に、波を蹴散らすデカい漁船があった。

「乗れ!」

 船から身を乗り出すのは江里だった。後ろに切間と冷泉も乗っていた。

 おうず様たちは消えている。


 俺は一気に洞窟を駆け抜けた。



 俺が飛び乗ると、船が横転しそうなほど揺れた。

「馬鹿が、沈める気か!」

 運転席の江里が怒鳴る。落ち着く暇もなく、船が発進した。


「烏有、無事か!」

 勢いで吹っ飛ばされそうになりながら舟端にしがみついていると、切間が近寄ってきた。

「おう」

「一体何をした?」

「おうず様を呼んだんだよ。新しく作らなくても前の奴らがいりゃ何とかなる。その場しのぎだけどな。小さいガキが出てきてくれた」

 切間は息を呑み、掠れた声で言った。

「そいつは……何か言ってたか?」

「いや。でも、嬉しそうだった」

 切間は答えず、目を瞑った。運転席の江里の肩が小さく震えた気がした。



 船は進み、鮫の顎のような岩場が遠のいていく。


 自動操縦に切り替えたのか、江里がこっちに来た。切間が顎を引く。

「助かった」

「冗談じゃねえ。俺はもう村には戻れねえや」


 俺は甲板に座り込んだ。

「意外だよな。あんたは村の風習にどっぷりかと思ってたぜ」

「諦めてただけだ。諦めてても、いいとは思ってねえよ」

 江里はまた背を向けて操縦席に戻った。



 冷泉は切間のスーツの上着を肩にかけて座っていた。

「着物で帰る羽目になるとは。お化け屋敷から逃げてきたみたいですよ」

「実際そうだろ」

「今までどんなお化け屋敷に入ってきたんですか?」

 冷泉は気丈に笑う。俺と切間は車座に座った。


「なあ、何で俺なら大丈夫だって思ったんだよ」

「江里さんが太古の神と言っていたでしょう」

 冷泉は遠い目をした。

「民俗学で既存者きそんしゃという概念があります。村を見張り、逸脱者に厳しい罰を与える原初の神。村八分のような連帯責任の意識はそこから生まれたとか」

「それで?」

「村人は不幸があると一斉に同じ反応をしたでしょう。まるで神に見せつけるように」

 村人の合唱が頭に浮かんだ。


 切間が眉根を寄せる。

「呼び潮の神は村に連帯責任を負わせる神だと見込んだのか?」

「はい、実態が違っても信仰が神を作りますから」

 話が見えてこない。俺が焦れているのに気づいたのか、冷泉は微笑んだ。


「神が責任を負わせることができない者は生贄にできないと思ったんです」

「余所者ってことか? でも、上戸が死んだ後柱にお前の名前が出たぜ」

「そこです。烏有さん、本名ですか?」

「おう、戸籍売っちまったけど」

「そのせいですかね。いえ、違う……」

 冷泉は少し考えてから言った。


「烏有という名字は存在しないんですよ」

 俺は馬鹿みたいに繰り返す。

「存在しない? どういうことだよ」

「わかりません。でも、そんな名字はないんです」

 意味がわからない。隣の切間は無言で俯いていた。



 雲が夜闇を押し流し、空の色が薄くなる。朝靄で烟る港が近づき、船が停まった。


 切間が江里に尋ねる。

「これからどうする気だ」

「さあな。知り合いの漁師のところ行ってしばらくその日暮らしだ。村にいるよりマシだろ」

 江里は振り返りもせずに船着場に降りた。後ろ姿にあのおうず様の背中が重なった。



 俺たちも船を降りる。

 緑のシートがかかった隣の船からざらついたラジオの声が流れ、冷戦がどうとか、水爆がどうとか告げていた。


 冷泉が着物の裾を絞る。

「流石にこれじゃ帰れませんね。本部に連絡して迎えに来てもらいましょう」


 頭がいっぱいで逆に何も考えられない。すっからかんだ。

 盛大に吐いて胃の中も空なことを思い出す。

「腹減ったな」

「よく呑気でいられるな」

 切間が呆れた声で言った。


 淡色の層になった空の下に、鯛焼き屋の屋台があった。

「あれくらいなら買えますかね。村に財布も置いてきたので奢ってください」

「またタカリかよ!」


 切間はこめかみを抑えた。

「店主が来たらな。土産も買っていくか。礼はつぶあんしか食わないんだ。売ってるといいが」

「あんたも呑気じゃねえかよ」

 空元気だとわかっていたが、敢えて切間の背中をどつく。切間は唇の端を吊り上げた。



 波の音が静かに響いていた。子どもの歌声はもう聞こえない。

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