四、呼び潮の神

 家を出たときから怒涛の波音が響いていた。

 違う、村人の声だ。

 石と柱の場所で聞いたように、村がそこら中で声を上げている。


「上戸家が途絶えてしまった、私は哀しい!」

「私らも哀しい!」

「あんなに村に尽くしてくれた御家が!」


 家の垣根から、電信柱の影から、口々に叫ぶ村人は皆目を見開いて口を震わせていた。



 俺たち三人は切間の両親に先導されながら林道を進まされている。

 いかれた喧騒に思考が押し流されそうになるが、頭を回さなきゃいけない。


 上戸が死んだ。切間が気になって横目で見ると、強張った顔のまま無言で俺の隣を歩いていた。

 ショックだろうが、使命感で何とか奮い立たせているんだろう。

 そうだ、今は別の問題がデカい。


 最後尾の冷泉が言った。

「あの、私がどうかしました?」

 切間の両親は無言で足を進める。村人の声は烏のように響いた。



 林道の坂を登りきったとき、俺は声を上げた。

 切間の呻き声も聞こえた。

「嘘でしょう……」

 冷泉が引き攣った顔で呟く。


 篝火に照らされた四本の柱が血を塗ったように輝いている。各々に記された文字は「切間」「桝」「江里」そして、「冷泉」だった。


「何だよこれ、悪戯か……?」

 俺は自分の声が震えているのがわかった。村人は叫ぶのをやめ、一斉に冷泉を見た。



 切間の父親という固太りで筋骨隆々の男が俺たちに向き直る。

「そういう訳だから、冷泉さん」

「何がそういう訳だ……」

 切間が食いしばった歯から息を漏らした。切間の母親は宥めるように苦笑する。

「順番は順番だから、ねえ?」

 夫婦ふたりは声を上げて笑った。


 切間がカッと目を見開き、父親を殴りつけた。男の身体が吹っ飛び、柱に衝突する。

 衝撃で林が揺れ、ざわめきと同時に村人が動いた。虫の大群のような連帯感で奴らは俺たちを取り囲む。

 この人数を突破できる気はしない。だが、やるしかねえ。



 俺が拳を固めたのと裏腹に、冷泉は静かに尋ねた。

「私が次のおうず様っていうことですよね。いいんですか。余所者がそんな大役で?」

 切間の母は倒れた夫と冷泉の間で視線を泳がせる。


「ええ、まあ、神様が決めたことですから」

 村人は一様に頷く。冷泉は溜息をついて頷いた。

「でしたら、仕方ないですね」

 嘘だろ。切間も唖然として立ち尽くしていた。


 村人が緊張の糸を緩めて一歩引いた。切間の父は頰を摩りながら立ち上がった。

「話のわかるひとでよかったなあ。お前も見習えや、蓮二郎」

 親子喧嘩を他人に見られた気恥ずかしさを取り繕うような照れ笑いがひどく異常だった。



「じゃあ、早速準備しないとね。実は上戸の娘さんと同じ時におうず様も亡くなられたんですよ。ああ、哀しい!」

 切間の母に合わせて村人がまた泣き真似をする。


 喧騒に乗じて、俺は冷泉に詰め寄った。

「何考えてんだお前!」

「私だって生贄になる気はないですよ。このままじゃ逃げられないでしょう。一旦受け入れる方が得策です。それに呼び潮の神がどんなものかわかるチャンスです」

 この女もいかれてやがる。冷泉は俺と切間を呼び寄せた。

「幸い切間さんは四大名家です。祭事に関わるでしょう。頃合いを見て何とかしてください」

「何とかって言ったって……」

 切間は額の冷や汗を拭い、腹を括ったように頷いた。


 村人たちが冷泉を呼んでいる。奴は俺たちに耳打ちして、村人の方へ向かった。


 切間が声を落とす。

「烏有、浜辺から洞窟へ抜け道がある。そこで待ってろ」

 篝火の伸ばす村人たちの影が蠢いた。江里が淀んだ目で俺たちを眺めていた。




 夜の海は巨大な黒い龍の腹のようにのたうった。

 岩場に潮が寄せては砕ける音を聞きながら、俺は切間に言われた洞窟へと向かう。


 海岸は途中で途切れて、波間に浮かぶ岩を渡るしかない。渦潮が怪物の目のようにふたつ並んでいた。

 踏み外したら巻き込まれて終わりだ。

 スニーカーの底に溜まった砂が水を吸い上げて鉛のように重い。俺は息を止めながら、岩の上を進んだ。


 船から見えた鮫の顎のような岩場に到着した。確かに、岩の先に抉れた空間があり、洞窟が続いているようだ。

 激しい波の雫が散弾のように打ちつける。くそ。



 俺が冷えた腕を摩ったとき、洞窟の奥から足音がした。

 俺は息を潜めて様子を伺う。暗闇の奥で数人が板のようなものを運んでいた。板の上が盛り上がっている。

 担架に乗せられた死人を想像した瞬間、暗がりが明るくなった。



 明かりがついたんじゃない。白い着物を纏った人影が、一瞬で洞窟に溢れ出したからだ。


 全員微動だにせずぼんやりと佇んでいる。人間とは思えない。

 奴らは村人と違って何十年も日に当たってないように色が白い。床ずれか裂傷か、潮のせいか、肌の一部が火脹れを起こしたように赤い。腕や鼻が欠けた者や目が潰れた者もいる。


 溺死者のような様に俤の神が頭をよぎる。だから、切間はあのとき真っ青になってたのか。

 だが、白い影は皆、あの神と違って虚な笑みを浮かべている。


 俺は海に落ちかけて、慌てて岩の突起に捕まった。前にも後ろにもいけない。

「くそ、まだかよ……」



 悪態をついたとき、波音に混じって鈴の音が聞こえた。


 一緒に歌声も聴こえる。

 大潮小潮。潮が満ちれば道は消え、潮が引いたら現れる。潮は四の尾。呼ばりて来たる。

 船で聞いたのと同じ歌だ。今度は子どもの声じゃない。村人の声だ。


 俺は首を伸ばして浜辺を見る。

 黒い海岸に点々と炎の赤が散って、花が波に揉まれる花のように上下していた。

 村人が篝火を揺らしているんだろう。


 そろそろ洞窟に入らないといけない。

 意を決して中を覗くと、人影は消えていた。



 洞窟の壁を舐めるように炎の色が忍び出した。

 足音と鈴の音と歌声が反響し、途中で途絶える。


 村人が壁に松明をかけたらしい。じゅっと音がして、洞窟が照らされた。

 地面の潮溜まりに村人たちの足が映る。奴らの中心に、白い着物に着替えた冷泉がいた。俺が見た人影と同じ服だ。

 俺は切間を探して視線を巡らせる。村人の先頭に、江里と並んで切間がいた。



 切間の母の声がこだまする。

「ちょっと冷たいですけど、大丈夫ですよ。すぐ引き上げますからねえ」

 潮溜まりの中に古い注連縄が浮かんでいるのが見えた。凝視すると、地面には等間隔で錆びた楔が打ち込まれていた。


 引き上げるという言葉と、罪人のように囲まれた冷泉を見て、嫌な想像が浮かんだ。

 あの縄にひとを括りつけて、海に放り込む。渦潮に巻き込まれ、錐揉みされ、泡を吐いて溺れ死にかけたところを村人が引き上げる。

 だが、何でそんなことを?



 村人は持ってきた注連縄を地面の楔に繋ぎ始めたり

 俺は静かに足を進める。

 ふと、切間と何の合図も決めてないことに気づく。あの野郎はそういうところが杜撰だ。いつ飛び出せばいいのかわからない。


 耳をそばだてると、微かな声がした。

「切間、お前またろくでもねえこと考えてんだろ」

 江里が隣の切間に何か囁いている。

「やんちゃもいい加減しろや。俺の弟のときも隠れて洞窟まで来やがって。神が出たらどうする気だった?」

 江里家は先代のおうず様を出したという。こいつの弟か?


 切間の顔が篝火の反射に照らされる。

「俺はお前みたいには生きられない」



 洞窟に雷鳴が轟いた。注連縄に取りついていた村人が慌てふためく。

 呼び潮の神が現れたのかと思ったが、違った。


「全員、動くな!」

 切間はいつから持っていたのか、拳銃を天に向けていた。洞窟の天井から石の欠片と潮水が降り注ぐ。


 思わず笑いたくなるのを堪えて、俺は一気に洞窟を駆け抜けた。


「お前ら!」

 切間の父親が村人を呼びつけるより早く、俺は疾走の勢いで奴の腹に膝蹴りを喰らわした。思い入り吹っ飛ぶ。今日二回目だ。


「災難だな!」

 着物姿の冷泉を囲む奴らを体当たりで蹴散らす。奥から慌てて来た村人を切間が銃で牽制した。

「何つー合図だよ、切間さん!」

 切間は唇の端を吊り上げる笑みを浮かべた。



 冷泉は怯えた顔をしていた。

 捕まったときはビビってなかったのに。

 もうひとり、同じ顔をしている奴がいた。江里は俺たちの奥の海を見つめ、蒼白な顔をしていた。



 そのとき、鳴り渡った咆哮が五感を全て塗りつぶした。気が遠くなる。

 冷泉に耳打ちされたことを思い出した。


––––伝承が少ないから、理解不能なんじゃない。きっと呼び潮の神は人間が認知してはいけない存在なんですよ。

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