二、呼び潮の神

 永遠に続くかと思った狂騒が終わり、俺たち三人は切間の生家に招かれた。


 俺はまだ放心状態だった。絶叫が鼓膜に残っている。

 割れた石と切間の名字が書かれた柱、村人たちの声。妙な神や人間がいる村は嫌というほど見たが、ここまでおかしいのは初めてだ。

 切間は本当にこんな村で育ったのか。


 淡々と前を歩く女は太眉と吊り目だけは確かに切間に似ている気がする。



 辿り着いた家は、じっとりと濡れたような木造の家屋だった。屋根には白く乾いた精液のような汚れがついている。潮風のせいだろうか。


 手入れされた生垣を見上げ、冷泉が言った。

「ヒメユズリハですか」

 切間の母は初めて息子以外を見た。

「よくわかりますね。潮風に強いからうちの村はみんな植えてますよ」


 傾きかけた戸をがたがた言わせる女に代わって、切間が扉を開けた。

「あんたがやるとすぐ開くんだから。恩知らずな扉だこと」

 汗を拭きながら家に上がる女の後ろ姿だけは普通の母親に見えた。



 家はやけに広かった。玄関から気が遠くなるような黒い廊下が伸びている。両端の襖も数えきれないほどあった。靴を脱ぎながら、汚れたスニーカーが場違いに思えて隠すように隅に置いた。


「素麺でいいね。蓮二郎、あんたも手伝いなさい。おふたりは休んでて。客間があるから」


 女は小走りに廊下を進みながら、足も止めずにひとつの襖を開け放った。切間は俺の肩を軽く叩いて、母親と奥に消えた。



 客間は磨りガラスの窓を閉し切って、空気が澱んでいた。火葬場の待合室のような静かで重苦しい空間だ。

 純和風の部屋に取り付けられたエアコンだけが現代的で異質だった。


 冷泉はさっさと机の横に並んだ座布団を取って座った。俺も隣に胡座をかく。

「やべえ村だよな」

「ええ、漁村にはもう少し明るいイメージがありました」

 冷泉がスカートを広げて足を組み替え、俺は目を逸らした。


「なあ、この家すげえ金持ちだよな」

「村の有力者なんでしょう。あの柱に名前が書かれてました」

「銅像を立てるみたいなもんか? 卒塔婆みてえだったけどな」

「確かに」


 冷泉は机の端をなぞって、指についた汚れを眺めた。

「姑みてえなことすんなよ」

「あらまだこんなに埃が、って? 違いますよ。砂です」

 指の腹についているのは確かに薄茶色の砂だった


「潮風がすげえらしいし、砂も入ってくるんだろ」

「そんな小説がありましたね」

「知らねえ」

「砂漠の村を訪れた男が村人に捕まって、穴倉で暮らす羽目になる話ですよ」

「嫌なこと言うなよ」



 襖のガラスの器を持った切間と盆を持った母親が現れた。

 切間の器には大量の素麺が、母親の方には天ぷらが盛られている。素麺には缶詰の蜜柑が乗っていた。


「すげえ、飯に果物乗せんだ。金持ちは違えな」

「阿呆か」

 切間は俺を小突いて、器を机に置いた。冷泉が首を伸ばす。

「奥様は?」

「まさか。余所のひとと一緒に食べんわ。お父さんも起こさなきゃいけないし」


 切間が横目で母親を見た。

「親父は?」

「昼寝中。夜はお祭りの準備があるから」

「祭りはいつだ?」

「さあねえ。おうず様が身罷られたらすぐに。次は上戸だからあっちのひとにも声かけんと」

 女は天ぷらを置いてさっさと踵を返した。



 切間は俺たちに箸と器を渡してから、向かいに座った。

「悪いな。いかれた村だろ」

「あんたのせいじゃねえよ」

「おかしいのは認めるんですね」

 俺が睨むと冷泉は肩を竦めた。


 俺たちは素麺を啜る。蜜柑を麺つゆにつけていいのか迷って、結局浸すと、塩辛いのと甘いのが混じって後悔した。



 冷泉はわかめの天ぷらを齧って言った。

「そろそろ村について聞かせてもらえますか」

 切間はまだ素麺が浮かぶつゆの容器を押し退け、端の灰皿を寄せた。


「詳しくは知らない。全貌を知ろうとせずに逃げた、俺の責任だ。それに、村の外からは気づかない偏見や思い込みもある。だから、全部信用するな」

 切間はライターを擦って、眉間に皺を寄せ、祈るように煙を眺めた。


「この村は大昔から四つの家が祭事を取り仕切っている。俺の家と、上戸、桝、江里だ」

「あの石のところの柱に書かれてた名前だよな」

「祭事とは何ですか? 祭りがあると言っていましたが」

「仕事で来た時点で想像はついてると思うが、村ではある神を祀っている。呼び潮の神。荒波を鎮め、豊漁をもたらす。よくある話だ」

「俺らの仕事ってことは、よくある話じゃねえ部分もあるってことだよな」

「呼び潮の神の神託を聞くための神主のような存在がいる。おうず様と呼ばれているが……」

 切間は灰皿の縁で煙草を叩いた。


「うずって、渦巻きのか?」

 冷泉が口を挟んだ。

「貴い、立派なという意味もありますよ」

「両方の意味だろうな。祭りの最後は次のおうず様に選ばれた人間を渦潮のところへ連れて行くんだ。そして、おうず様になった者は神の使いとして村人と一切の関わりを絶たれる」

「神秘性を守るためですね」

「きなくせえな」


 冷泉が箸を置いた。

「次の、ということは、おうず様は交代制なんですか」

「ああ。先代が死ぬと、四つの家の中で選出される。俺が村を出てからも変わってないなら……今は江里家の人間だ」

 切間は痛みを堪えるような顔をした。



 素麺が腹の中で膨らんで、これ以上食う気がしなかった。

 俺も煙草を取り出すと、冷泉が横から手を伸ばした。

「いいですか? 船に乗る前買い忘れてしまって」

「いいけどよ。ひとに煙草盗られんのは初めてだ。俺は盗る方だったから」

「貴重な経験ですね」

「馬鹿かお前ら」

 切間はやっと眉間の皺を薄くする。この村に来てからずっと辛そうだ。かける言葉は浮かばなかった。

 冷房の風が三人分の煙を攪拌した。



 天井の木目に煙を吹きつけながら、冷泉は言った。

「祭りはどういった手筈で行いますか?」

「村人が注連縄を持って、鈴を鳴らしながら、次のおうず様になる人間を海の洞窟まで連れて行く。そこからはごく一部の人間しかついていかないから最後までは不明だが……」

「充分です」


 冷泉は長い髪を払った。

「呼び潮の神は生と死に深く関わるもののようですね」

「何故そう思う?」

「村はヒメユズリハを植えていると聞きました。古葉を一斉に落として若葉が生えることから世代交代による存続と結びつけられる植物です」

「おうず様と同じか」


「ええ、それに呼び潮という名。神は海に住んでいるようですから、それを呼ぶ意味もあるでしょうが、祭りで鈴を鳴らすんですよね?」

「ああ、よくあることだと思うが」

「死者を蘇生するために耳元で名前を呼んだり鈴を鳴らす風習があります」

「それで生き返んのかよ」

「仮死状態から覚醒しただけでしょう。昔は検死などありませんから。その儀式を『魂呼ばい』というんですよ」


 切間の煙草から灰が落ちた。そうか、と呟く低い声が客間に響いた。


 俺は首を振る。

「でも、何か全部ぼやけてるよな。結局どういう神で、何でおうず様が必要なんだよ」

「現段階ではわかりません。これからわかりますよ。ちょうど祭りがあるのでしょう」

 切間は重々しく頷いた。

「部外者は入れないが、俺がいれば何とかなるだろう」

「それで本当にどうにかなんのか?」

「ならなかったら貴方の出番です」

 冷泉は片目を瞑った。

「見えるひとなんでしょう?」

「……見えるだけじゃねえよ」


 俺は言わなかった。

 切間家に来てからずっと、船で聞いた子どもの歌声が響いていることを。

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