一、呼び潮の神

 船のスクリューがけたたましく海面を切り刻んでいた。


「うるせえ!」

 背後の切間が鋭い目つきで俺を睨んでいた。聞こえなかったが、どうやら俺に何か言った直後らしい。

「あんたじゃねえよ、船だ船!」

 切間は呆れたように船の手すりに腕を回した。



 陽光は激しく、一面の海原なのに、何故か仄暗い気がするのは、スクリューが撒き散らす飛沫が辺りを霞ませているせいだ。

 これは漁船を改造した船らしいが、どこを改造したのかわかない。魚の代わりに甲板に人間を転がしてるだけだ。


 朝から延々と電車を乗り継ぎ、一日一本しかないこの船に乗せられた。行き先の詳細は知らされていないが、ろくでもないのは確かだ。



 俺は声を張り上げる。

「この音何とかならねえのかよ!」

「しょうがねえだろ。デカい船をつけられる港なんか村にはない」

「交通費も税金ですし、文句は言えませんね」

「公僕が」


 悪態を返したところで、知らない声が混じっていたことに気づく。

 横を見ると、俺と切間の真ん中に黒づくめの女がいてひっくり返りそうになった。


「誰だお前!」

冷泉れいぜいと申します」

「いや、マジで誰だよ」

 切間が溜息をついた。

「冷泉は対策本部のメンバーだ。今回は彼女も同行する」

「いつからいたんだよ」

「船に乗ったときからです」

「一声かけろよ!」

 冷泉はにやりと笑った。喪服じみたワンピースといい、青白くて黒子の多い顔といい、葬式帰りのような雰囲気だ。



 切間は俺の肩を叩いた。

「こいつが例の霊感詐欺師だ。烏有は本当に見える」

「お気の毒」

「思ってねえだろ」

 対策本部の女はどいつも一癖ある奴ばかりなのか。そうでもなきゃこんな仕事は続けられないのかもしれない。



「冷泉は凌子さんと同じ民俗学者だ。オカルト雑誌記者の経験もある」

「彼女と一緒にされたくないですね」

 切間がまた溜息をついた。


 冷泉は俺ににじり寄る。

「凌子さんにはもう会いました?」

「嫌ってほど。怖え女だよな」

「よくご存知で。知ってます? 彼女の旦那さんもうちの職員でしたけど失踪したんですよ。凌子さんと意見が対立してから」

 俺は息を呑んだ。冷泉は目を細める。



「眉唾は記事だけにしとけ。もうすぐ着くぞ」

 切間は眉間に皺を寄せた。眩しさのせいだけではないと思った。こんな機微までわかるようになった。嬉しくもない長い付き合いだ。


「切間さん、今回の村は……」

「俺の故郷だ」

 俺は言葉を失った。切間は荒波を見つめ、重い息を吐く。

「いつかは向き合わなきゃいけないと思ってたんだ。この前の村でようやく決心がついた」

「でも、いいのかよ。あんたの故郷で祀ってる神なら……」

「構うな。俺は故郷を滅ぼす覚悟で来た」


 俺はそれ以上何も言えなかった。鼓膜を掻き回すようなスクリューの爆音がありがたかった。




 それに混じって、子どもの歌声が聴こえる。

 大潮小潮……、異様だ。船のモーターと波が騒がしいのに、耳元で歌ってるように鮮明だった。

 切間と冷泉は傍らで何か話している。俺にしか聞こえない。


 手すりから身を乗り出すと、白いロープが波間に浮かんでいた。船を停めるにしては細すぎるし、形が妙だった。

 注連縄だ。

 浜辺にあるはずのない、切れた注連縄が細腕のように海を掻き混ぜていた。



 船が停まった瞬間、波の上を滑る空気が変わった。


 潮風が急にベタついて、汗ばんだ病人がまとわりついているような臭気だった。

 鮫の歯のような岩礁が顎を広げている。波に埋もれる岩の一部に白い影が立っているような気がした。



 浜辺に降り立つと、スニーカーの靴底に砂が侵入した。ざらついて、嫌な重みだった。


 冷泉はヒールのあるパンプスでよたつきながら、切間の手を借りて船を降りる。周りを見渡したが、歌声の主は影も形もない。


「あれ、子どもは……」

 冷泉が怪訝に俺を見た。

「船で子どもが歌ってる声が聞こえたんだよ」

 切間が吊り気味の目を見開いた。

「どんな歌だった」

「よくわからねえけど、大潮小潮って……」

 切間の目が更に大きくなった。

「何かまずいのか?」

「まずくはない。子どもの頃よく聞いた歌だ」


 俺たちを乗せてきた船は逃げるように去っていった。これで、どう足掻いても明日まで帰る術はない。



 船が見えなくなると同時に、海岸の先に黒い影がひしめき出した。

 切間と同じように日に焼けた村人たちが見下ろしている。入り込んだ異物を排除しにきたように、険しい顔で、一斉に目を動かす。

 黒い肌に白眼と歯だけが光っていて、揃った動きといい、虫の大群のようだった。


「これはまた……」

 冷泉が呑気に呟く。切間が一歩前に進み出た。

 ひとりの初老の女が同じように前に出る。

「蓮二郎?」

 切間は死刑宣告を受けたような顔で頷いた。

「久しぶり……今戻った」



 村人たちは嘘のように表情を緩めて、俺たちを迎え入れた。


 砂浜から港に上がる間も村人に取り囲まれて景色がほとんど見えなかった。切間に呼びかけた女は黒い顔に目が埋もれるほど笑った。

「何年ぶり? 十年以上かね? 死ぬまで会えないかと思ってたわ。連絡もよこさんで急に来るんだから」

「悪い。急な仕事で来た」

「何、帰省じゃないの。うちには犯罪者なんていないけど」

「刑事の仕事はそれだけじゃない」

 切間は壮絶な顔のまま相槌を返す。


 俺は切間に耳打ちした。

「このひと誰だ?」

「……俺の母親だ」

「蓮二郎って?」

「……俺だ」

 母子の関係がいいものではないのはすぐに想像できた。親というより、村全体か。俺はわざとどうでもいいことを話す。

「二郎ってことは次男か?」

「いや、長男だ」

「変な名前」

 切間はようやく唇の端を吊り上げた。



 村人に押されながら、だんだんと坂道を上がっていく。潮の匂いが薄くなり、木々に囲まれた林道になっていくのがわかった。

 真後ろの冷泉は黒い肌の群れに掻き消されてほとんど見えない。


 切間の母親は先頭を進みながら息子に呼びかける。

「他のふたりはどういうひとね」

「職場の人間だ」

「へえ、そう。刑事には見えんけど」

 女は一度も俺と冷泉を見ず、切間以外に話しかけもしない。村人は黙ったままぞろぞろとついてきて、葬列のようだと思った。



 坂道を上りきったとき、急に村人が左右に分かれて視界が開けた。


 異様な光景にぞっとする。

 林を切り拓いた土地のど真ん中に、物凄い力で四つに砕いたような石が置かれていた。枝葉の影を浴びて黒く染まった石は、無惨な断面を広げている。

 四つの先端に注連縄が巻かれ、四方に聳える卒塔婆じみた柱に繋がっていた。

 柱には各々「切間」「上戸うえと」「ます」「江里えさと」と書かれていた。


「切間……」

 俺は口の中で言葉を繰り返す。



 切間の母親が息を吸った。唇から口笛のような吐息が漏れる。

 女は弓のように身を反らして絶叫した。

「切間の子が帰りましたよぉ!」

「帰りましたぁ!」

 左右の村人が割れんばかりの声を上げた。帰りましたを何度も復唱し、絶叫が林を揺らす。


 俺は度肝を抜かれて周囲を見回す。何だこいつらは。

 冷泉も冷や汗をかいている。切間だけは沈鬱に母親を眺めていた。



 女は身を反らしたまま叫ぶ。

「今のおうず様はもうすぐ身罷られます!」

 意味のわからない言葉を村人が繰り返す。切間がはっとして顔を上げた。


「あんなに神様に尽くしてくださった方が、私は哀しい!」

「私らも哀しい!」

 女が顔を震わせながら、目と口をかっぴらいて泣き声のような真似をした。村人も哀しみの欠片すら見せずに泣き真似を繰り返す。

 乾いた慟哭が林を震撼させた。



 切間が嫌がっていた理由がようやくわかった。

 この村は異常だ。

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