序、呼び潮の神
俺の村は最悪だった。
その血を引く俺も、いつか最悪の人間になるだろう。
それが恐ろしかった。
俺の村の人間の肌は皆浅黒かった。
年中日が照る漁村だからだ。俺の肌も物心ついたときからそうだった。子どもたちで色が白い奴はいなかった。
思い出すのは、浜辺で漁師たちが歌っていた歌だ。
大潮小潮。潮が満ちれば道は消え、潮が引いたら現れる。
潮は四の尾。呼ばりて来たる。
子どもたちも、魚の鱗が張りついた網を大人と一緒に解しながら、舌足らずに歌っていた。
その列に俺もあいつも混じっていた。
あいつは痩せぎすで、多分に漏れず日焼けしていて干物みたいだった。同い年の男子の中で一番背が高かった俺とは対照的に一番背が低かった。
ガラの悪い年上に睨まれるたび、あいつは俺に縋り付いてきた。俺は体格と目つきのせいで誰にも絡まれなかった。
何度か追い払ってやると、あいつは俺の後ろをついて回るようになった。同い年だが弟のようだった。
あいつは俺と同じで、村の四大名家の生まれだった。
名家と言ってもろくなもんじゃない。神様を呼ぶための力を持つ家系だと言われていたが、違う。
村人を食い物にして肥え、育ったら食われるためにある。そう言う仕組みの家だ。思い知ったのは、十二歳のときだ。
村には何十年かに一度行われる祭りがあった。
あいつは祭りで重要な役割になったのだと言ってきた。「おうず様になるんだ」と、そう言った。
村で神託を聞く神主がそう呼ばれることと、四大家から選出されるのは知っていた。
詳しくは知らないが、いつも俺の影に隠れていたあいつが誇らしげにしているのは嬉しかった。
祭りの日、苛むような鈴の音と、夕方の浜辺で血の海のように輝く波をまだ覚えている。
大人たちは注連縄を電車ごっこのように持って連なり、崖の方へ向かっていた。
中央にはあいつがいて、神主というより、昔の罪人のような運ばれ方だと思った。
あいつは大人たちの間から俺を見て少し笑った。
子どもはこれ以上ついてくるなと言われたが、俺はひとり隠れて崖の裏に行った。
崖の下には渦潮が巻き、一度落ちれば二度と上がれない。潮を読み誤った漁師や、大人に黙って崖淵の洞窟に遊びに行った子どもが何人も死んだと聞いていた。
日が沈み、黒い波は怪物のように唸った。
大人たちは洞窟の入り口で、縄を蠢かせていた。
波飛沫に混じって悲鳴が聞こえた気がして、俺は声の方に走った。
そこで、おうず様を見た。
一生忘れないだろう。
空洞のような目と鼻と口、この村の人間とは思えないほどふやけて白くなった肌。髪の毛は一本もない。
その後ろに、何かがいた。
俺は逃げた。
尖った岩場が足の裏を切った。傷口を潮が洗って進むたびに激痛が走ったが、浜辺まで無我夢中でかけた。
砂浜に出たとき、洞窟からここまで俺の足跡が赤く伸びてるのがわかった。追われている錯覚を覚えて、また走った。
血の足跡は波がすぐに消し去った。
祭りの後、いつもより静かで冴え冴えとした夜の海だった。
この村が最悪だと知った。
あいつは次の日から二度と姿を見せなかった。
子どもたちは誰もあいつの話をせず、大人たちは時折「おうず様」の話をした。
何度も洞窟へ向かったが、潮に阻まれて行けなかった。あのとき、逃げなければ。
そう思いながら、結局俺は逃げた。
東京に来てからも俺の肌の色は変わらなかった。どこまでもあの村の人間だと思い知らされた。
刑事になったのは、少しでも最悪なものから遠ざかりたかったからだ。
馬鹿真面目だと言われるたび否定した。謙遜じゃない。何をしようが、あいつを見捨てたことは変わらない。
だが、俺は存在しているだけで最悪だった。
舞い込んできたのは、殺人課なら珍しくもない変死事件だった。
仲間が普段通り仕事に当たる中、俺だけは違うとわかった。これは人間の犯罪じゃない。
あの洞窟で見た神の影が頭を過った。
事件解決の一歩手前で、殺人課に見知らぬ連中が雪崩れ込んで来た。
奴らは事件の資料を軒並み掻っ攫って、最後に俺を別室に連れ出した。
見慣れた取調室だが、自分が詰問される側に回ったのは初めてだった。
俺に相対する眼鏡の女は
「
凌子はくすりと笑い、俺の出身を言い当てた。
「何故わかる?」
「専門なの。神や信仰に関わること全て。貴方も覚えがあるんじゃない? この事件がひとの手によるものじゃないとわかったんだから」
俺は口を噤んだ。
「切間家は貴方の村の四大名家。神を呼び寄せる力があるんでしょう。だから、今回の一件が舞い込んだのかも」
「……俺のせいで事件が起こったと?」
「違う。でも、これからそうならないとは言い切れないかな」
頭が真っ白になった。もしそれが事実で、村を出ても変わらないなら、俺は事件を解決するつもりで被害者を増やしていたことになる。
俺は震える手を押さえて組んだ。凌子は見透かしたように微笑んだ。
「貴方の力をひとを守ることに活かしてみない?」
選択肢などなかった。
俺は対策本部に入った。
訳もわからないまま仕事を続けるうちに、上層部の男が娘との縁談を持ってきた。
俺の村と変わらないほど底知れない家だった。
婿入りすれば名字を替えられるという点と、より内部に潜り込めれば情報を得て、防げる事件も増えるだろうと思って許諾した。
駒として利用されることはわかっていた。
妻は自分の家について詳しく知らない、普通の病弱な女だった。
色白で目が大きくて優しげな、村の人間とは似ても似つかない姿で出迎えられるたび、どんな仕事の後でも安堵した。
娘の
あの村で生まれて、神を呼ぶ力を持って、こんな仕事をしている。俺はろくな最期を迎えないだろう。
構わない。それが相応しいと思う。
せめて、妻と娘だけには累が及ばないでほしい。
それから、最近はもうひとりだ。
馬鹿でろくでなしでガラの悪い霊感詐欺師だが、悪人じゃない。全て事が済んだら、真っ当に生きてほしい。
そのためにできることはしておきたい。
祈るべき神は俺にはいないからだ。
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