三、俤の神

 甲斐は搬送先の病院で死亡したらしい。


 俺たちが奴から聞いた自転車屋に向かう最中、切間は壮絶な面で黙りこくっていた。

 元刑事として責任を感じているんだろう。正直横にいて気が滅入る。



 道端に中身が腐ってるか心配になるほど古い自販機があった。俺は百円入れて、出てきた缶コーヒーで切間の肩をどついた。

「何だ」

「あんたのせいじゃねえよ」

 切間は目を丸くして缶を眺めてから受け取った。


「借りができたな」

「返したんだよ。ジュースとラーメンじゃ割に合わねえ」

 切間は俯いて小さな声で何か言った。礼だったような気もした。

「烏有、お前は飲まないのか」

「要らねえ。あの自販機ボロくて中身腐ってそうだろ」

「それを押し付けたのか」

 


 重たい舌打ちに肩を竦めると、甲斐自転車が見えてきた。

 錆いたシャッターと雨水の溜まった緑の覆いが陰鬱で、俺は表情を引き締める。


 自転車の空気入れが倒れていた。それを直しもしないで、五、六十代の女がへたり込んでいる。

 縮れた髪とくたびれた横顔で、すぐに甲斐の母親とわかった。


 俺たちが歩み寄ると、女は濁った目だけを動かした。

「どなた?」

 排他的な聞き方も息子そっくりだ。切間は少し間を置いて「警察です」と答える。

 女は唇の端を吊り上げた。


「夫のときも沢山警察の方が来ましたね。今度は息子。疑ってます?」

 切間は首を横に振った。女が長い溜息をつき、煙草を吹かす甲斐の面影が重なった。


「あの子、弟が見えるって言ってました。夫もそう。息子が見えるって。神がどうとか、おかしくなっちゃったのよ」

 女は頭痛を堪えるようにこめかみを抑えた。

「過去のトラウマが時間を置いて蘇ることは稀にあります」

「弟なんかいないのよ!」

 女は叫んだ。


「確かに弟ができるはずでした。でも、流産だったの。生まれてもいない。私の子は沼で溺れて死んだあの子だけ!」

「何だって……」

 俺たちはお互いの顔を見る。女は顔を覆って嗚咽を漏らした。


 甲斐が死ぬ前言ってた言葉が脳裏をよぎった。

 身近に死んだ奴がいないなら。

 俤の神が死者の幻影を見せる神じゃないなら、伝承が根底から変わってくる。


 切間は青い顔をして言った。

「沼に向かうぞ」



 深い霧は夕陽を遮って、水辺を白で塗り潰していた。

 葦だけは茜色の空を反射して、血塗れの針のように見えた。


 切間は奥歯を噛み締めて水面を見つめていた。土が溶けた沼は黒く濁って、甲斐たち村人の命を吸ってきた淀みのように思えた。


 俺は意を決して切間に聞く。

「なあ、初めてここに来たとき、あんた何を見たんだ」

 切間は石碑を睨み続けていた。

「故郷の知り合いだ。生きてはいるが、酷いことになった奴だ。そいつの名字が石碑に書かれていた」


 俺は苔むした石碑に視線をやった。

 根元には木々の根が人間の腸のようにのたくっている。黒い水面に石碑が影を落とし、垂れる倒木の枝葉も



 違う。葉じゃなく髪だ。長く垂らした髪を水に浸して、蹲る影が映っている。

 水面の虚像から視線を上げると、石碑があった場所に真っ白な男が座っていた。


 素っ裸で服の代わりに全身に青黴じみた藻を纏っていた。髪も肌も白く、茹で卵のようにぬるりとしている。顔を覆う手は膨れて傷だらけだった。



 俺は考える前に葦を踏みしだいて駆け出していた。

 背後で切間が俺を呼ぶ声がする。


 辺りが暗い。白かった霧が黒に変わって周囲が煙で満ちたようだ。

 俺が足を止めると、真っ白な男が手を下ろした。白濁した目と、枯葉で掻いたような傷だらけの顔が露わになる。男は膨れた指で沼を指した。



 指の示す方を見る。

 ぼろきれじみた吊り橋の下に、うつ伏せになった人間が浮かんでいた。長い髪が水に広がって、波打つ度に小刻みに揺れる。泥を吸った着物ははだけて、今にも剥がれそうだった。



 助けないと。


 俺は葦を掻き分けて沼へ進む。ひやりとした水が死人の手のように脛に絡みついた。

 そう思った瞬間、全身に重みを感じて足を踏み外した。

 どぶん、とくぐもった音を境に五感が消える。黒い水が全身を包んで、沼に落ちたんだとわかった。


 不思議と苦しさを感じない。

 何とか身を翻して、俺の背にのしかかる奴の方を見た。

 真っ白な男が俺を水底へと押し込んでいる。男の手の平は冷たく、膨らんでいた。

 溺れた死人の手だ。



「お前、殺されたのか」

 水中なのに俺の声ははっきりと響いた。

 伝承の中の弟はきっと兄に沼で殺されたんだ。理由はわからない。

 だが、そのせいでこいつは化け物になっちまった。

 死人の幻影を見せて、自分のように村人を溺れ死なせている。

 身近に死者がいる者にはその面影を、いない者には自分のような弟がいると思い込ませて。


「そうまでして殺したいのかよ……」

 俤の神は俺を見下ろして、少し眉を下げる。膨れた唇が動いた。

「お前、何もないね」



 その意図を考える前に、俺は物凄い力で引き上げられた。


「烏有!」

 水から出た途端、冷えた空気が全身を包み、急に苦しいと思った。俺は水を吐いてえずく。

 鼻と目に刺すような痛みがあり、口の中に泥がじゃりじゃりいう感覚が広がった。


「何やってんだ、お前! 急に走り出して、沼に飛び込んで……」

 俺を引き上げた切間は馬鹿みたいに焦っていた。笑える顔だった。

「悪い……」

 砂を吐き捨てて、俺は立ち上がる。冷静になった瞬間、遅れて恐怖が襲ってきた。


 真っ白な男がまだそこにいる。

 白濁した目は俺たちを捕らえていた。


 切間が肩を貸そうとするのを振り解いて、俺は俤の神を指す。

「マズい、まだあそこにいるぞ!」

「何……?」

 目の前にいるのに、切間には見えてないようだった。くそ、逃げるしかないか。

 だが、このまま放っておいても、いつか甲斐のように呼び寄せられる。



 そう思ったとき、白い男の足元に蛇のようなものがしゅるりと忍び寄った。

 男は曇った目で下を見る。泥と藻で汚れた男とは違う、一切の穢れのない白い糸が男に巻きつき、繭のように包み込んだ。


 糸が解け、空中に霧散する。後には石碑だけが残っていた。


 切間は困惑気味に俺と石碑を見比べている。俺は息を吐いて、かぶりを振った。

「たぶん、もう大丈夫だ」

「何が大丈夫だ」

 切間は口をへの字に曲げ、俺の背をどついた。勢いで俺の口から泥水が飛び出して、俺は笑う。

 空元気だが、そうしなきゃやってられない。苔むした石碑には、来たときのように「俤」の一字だけが彫られていた。



 俺たちは暗くなった村を歩いた。

 服が濡れたせいで凍えそうなほど寒い。夏だってことを忘れそうになる。


 切間は低い声で言った。

「お前、何を見たんだ。お前が大丈夫だと言ってから、幻影も見えなくなった」

「……前行った村にいた神が見えた」


 俤の神を包んだ白い糸は、確かに桑巣の神のものだった。


「凌子さんが他の神を捕まえるのに使えるってつってた神なんだ。まさか本当にやってんのか」

 切間は暗い顔で俯いた。

「連中ならやるだろうな」

「いいのかよ。神なんか使って」

「お前には教えてないが、対策本部は既に神を活用してるらしい。未来を予知する神だとか」

 凌子から聞いた話と同じだ。


「……その神ってどんな奴だ」

「俺も詳しくは知らない。件の神とだけ呼ばれた」

 俺はそれ以上聞かなかった。



 道の先にシャッターが降りた甲斐自転車が見えた。

 甲斐の母親は流産だったと言っていた。切間が見た知り合いはまだ生きているという。


「俤の神ってさ、たぶん殺されてんだ。自分の兄貴に」

 俺は何ともなしに呟く。

「それで、あいつが見せるのは死人じゃなく、後悔とか罪悪感を持ってる相手じゃねえのかなって」

「……そうかもな」


 俺は早足で甲斐自転車の前を通る。

「でさ、俺は何も見えなかったんだ。凌子さんもそうだったんだろ。俺、やっぱり悪人なのかなって思っちまったんだよな。誰にも悪いと思ってないから何も見えなかったとか」

 俺は笑って誤魔化したが、切間は微塵も笑わなかった。


「悪人はそんなこと言わねえよ」

 長い沈黙の後、切間は言った。

「お前は凌子さんたちとは違う。神を使うことにビビってるだろ」

「ビビってねえよ」

「それでいいんだ。使おうなんて考えるな。神々は人間の手には負えない」



 坂の上にバスの待合室が見えた。数時間前まで生きていた甲斐がいた場所だ。

 俺の煙草は濡れてもう吸えないだろう。

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