二、俤の神

 死者の都。そういう表現が最初に浮かんだ。


 バスを降りたときから村には濃霧が立ち込めていた。空気は死人の肌の温度だ。



 俺は鳥肌が立った腕を擦る。横の切間は平気な顔をしていた。

「よく寒くねえな」

「そんなアロハシャツ着てるからだろうが」

「俺が何着ようが関係ねえだろ」

「お前が阿呆みたいな格好で来るせいで聴き込みがやり辛い」

「俺がいなくてもあんた聴き込み下手じゃねえか」

 脛を蹴られた。切間は昨日娘に構っていたときとは別人だ。

 しばらく凌子と行動していたせいで油断していた。



 考えを見透かしたように、切間が鼻で笑った。

「また俺と仕事で残念だったな」

「凌子さんも大概だったぜ。あのひとだいぶ怖くねえか」

 切間は目を丸くし、深く溜息をついた。

「やっと気づいたか」

「あんたも思ってたんじゃねえかよ」


 切間は誤魔化すようにさっさと歩き出した。

「今回の村は凌子さんが既に調査してるんだが、異常が見つからなかったそうだ。それで改めて俺たちが送られた」

「何でまた? 二度手間じゃねえか」

「さあな、あのひとの考えることはわからん」


 俺は肩を竦める。

「あんたと組んだ方がマシだ。消去法だけどな。どっちも嫌だけど」

 切間は俺の脛を蹴らずに足を進めた。

「そうだな。誰と組もうが、まず神なんかと関わらないのが一番だ」

 俺たちは霧の立ち込める坂道を下った。



 辿り着いた沼は霧の色を映して、泥に牛乳をぶちまけたようだった。


 陰気な木々に囲まれた水辺には枯れた葦が生え、木のボートが腹を見せて打ち捨てられていた。

 沼の端から端にはぼろ切れのような吊り橋がかかっていて、足を踏み入れたそばから濁った水底へ落っこちそうだ。


「領怪神犯じゃなくても何か出そうな所だよな」

 不気味さに耐えかねて俺が言うと、切間は沈鬱な顔で沼の向こう側を眺めていた。


 口元が強張って、見開かれた目は瞬きも忘れて乾いていた。視線の先を追ったが、苔むした石碑があるだけだ。


「切間さん?」

 切間はようやく我に返った。

「あの石碑がどうかしたのかよ」

「石碑……?」

 俺だけが見えてるものを他の奴が見えないのはよくあることだが、他人が見てるものを俺が見えないのは初めてだ。



 焦ったくて俺は石碑の方へ足を進める。

「ほら、これだよ」

 近づくと、石の表面には文字が彫られていた。文字の溝は苔が埋めつくしていてわかりづらいが、何かの漢字のように見えた。


「片仮名のイと弟、イオトウト……?」

 切間は石碑を凝視してから、一度目を瞑って溜息をついた。

「馬鹿か、これで俤って読むんだ」

「嘘つけよ。面影は二文字じゃねえか」

「一文字で表す字もあるんだよ」

「……おもかげって昨日聞いたここの神の名前だよな」

「ああ、何でわざわざ常用じゃない方の漢字を使ってるんだか知らないが」

「ここの伝承が由縁だ」



 急に会話に割って入った声にぎょっとすると、いつの間にか目の前に若い男が立っていた。


 縮れた髪がだらりと長く、痩せぎすの身体にシャツが張り付いて、沼から上がってきたような印象の男だった。

「あんた、誰だよ」

「そっちこそ誰だ。村の人間じゃないな」

 切間が顰め面で答える。

「ここの伝承の調査に……」

「ああ、前にも東京からそんな奴が来たな。眼鏡かけた教師みたいな女だった。知り合いか?」

 凌子のことだ。


 男は俺たちを押し退けて、石碑に触れ、指で苔をこそぎ落とした。

「調査、ね。こんだけ続けばそりゃあ来るか」

「続いたって何が?」

「変死だよ。知らずに来たのか?」

 俺と切間は顔を見合わせた。


 男は急に沼の向こうを指した。

「何か見えるか?」

 目を凝らしたが、葦が脱色したての女の髪のように垂れているのしか見えない。切間は無言で目を伏せる。

 それを見て、男は肩を竦めた。

「そっちのデカいのはわかってるみたいだな」


 男はくたびれた表情で髪を掻き上げる。

「俺も正直参ってるんだ。何とかできるならしてくれよ。あんたらじゃ頼りないけどな」

「それが他人に物頼む態度かよ」

 俺がにじり寄ると切間に背中をどつかれた。



「喫茶店なんてないから、ここでいいよな」

 男に案内されたのはバスの待合室らしい木造の小屋だった。

 ホーローのベンチは埃が溜まって、背もたれの字が掠れていた。


 男は甲斐かいと名乗って、煙草を取り出した。

「あんたら、どこまで知ってる?」

 切間はベンチの前に立って言った。


「あの沼の橋で、亡くなったひとに会えるとか」

「座っていいよ……そうだ、あの世とこの世の境の吊り橋、よくある怪談だろ」

「変死はそれと関わりがあるんですか」

「だろうな。昔、沼地に兄弟が住んでて、橋をかける最中に、弟が溺れ死んだ。兄は橋を完成させた。弟は沼の守り神になって、兄を憐れんで橋を死者の世界と繋がるようにしてやった。それが伝承だ。同級生から聞いた」

「だから、弟の字が入ってたのか」

 俺の呟きに甲斐は頷いた。



「その同級生もいかれてどっか行っちまった。俺の親父もだ。脳の病気で呆けちまって徘徊が始まって、半年前沼で溺れてんのを見つかったよ」

「あんたの親父さんは沼で誰を見たんだ?」

「……息子だ。死んだ俺の弟が見えたんだと」



 甲斐はまだ半分以上残った煙草を折った。

「勿体ねえな」

 奴の呆れ笑いは年下の子どもに見せるような顔だった。


 甲斐は長く煙を吐いて言った。

「最近、俺も弟が見えるんだよ」

「弟は溺れて死んだんだ。小学二年生で歯が生え変わり始めた頃だった。棺に抜けた歯を入れた箱を納めたのを覚えてる。葬式でお袋が『歯を縁の下に埋めなかったから、新しいのが生えてくる前に死んじゃったのかしら』って泣いたんだ」

 切間は瞑目した。自分の娘と重ねてたのかもしれない。


 俺は切間の代わりに聞く。

「でも、死人に会えるなんてさ。本当に弟なのかよ」

 甲斐は縮れた髪を掻き上げた。

「俺だって信じてなかったさ。でも、見ちまった。沼に行かないようにしてるのに、気がつくと向かってる。兄ちゃんって呼ぶんだ。歯が抜けてるから、にいひゃんって聞こえて、昔俺がそれを揶揄ったのも全部覚えてるんだよ……」

 甲斐は項垂れて首を振った。参ってるのは本当らしい。


 折れた煙草を灰皿に捩じ込み、甲斐は踵を返した。

「早いとこ何とかしてくれ。俺は甲斐自転車って店にいるから話があれば来いよ」


 数歩進んでから、甲斐は俺たちを振り返った。

「もし、身近に死んだ人間がいなかったらあの沼で何が見えると思う?」

 唐突な問いに俺は狼狽えた。

「何も見えないんじゃねえの」

「普通はそうだよな」

 甲斐はそれ以上何も言わずに立ち去った。



 切間はブリキの灰皿を引き寄せて、煙草を取り出す。俺もポケットから煙草を出してライターを擦った。煙が霧に溶けていった。


「思ってたより大変な村みてえだな」

「そうだな」

 切間は咥え煙草で待合室の隅に捨てられた新聞を取り上げた。向けられた背に拒絶を感じた。

 沼で何を見たか聞くのを諦め、俺は新聞を覗き込む。


「面白い記事でもあったかよ」

「ソ連が原子力空母を開発中だと」

「それってマズいのか」

「本格的に戦争になるかもな」

「もしそうなら、ど田舎の神なんか構ってる場合じゃねえんじゃねえか」

「そうでもねえよ」

 切間は湿った新聞を畳んだ。 


「対策本部は領怪神犯の活用を目論んでる。行く行くは悪神の排除以外にも使う気だろう。同じようなことは他国でも起こってるかもしれない」

「海外にも領怪神犯がいんのかよ」

「さあな。だが、信仰がある限り形は違えどあってもおかしくない」


 スケールがデカすぎてわからたい話だ。俺は息と煙を吐いた。凌子の言葉が頭に浮かんだ。

「神は人間の奴隷か……」

 切間が横目で俺を見た。紫煙が霧に橋をかけた。



 どちらともなく立ち上がると、待合室がひっくり返りそうなほど揺れた。とんでもないオンボロだ。

 まだ振動が続いている気がする。


 振動は気のせいじゃない。

 霧に魔物の眼光のような赤が滲み、こっちに迫ってきたと思うと、一台の救急車が駆け抜けた。

 沼の方だ。


 俺たちは視線を交わし、濃霧に飽和するサイレンを追いかけた。



 沼には既に警察が黄色のテープを張っていた。

 タンカーを押す救急隊員が警官を押し退け、僅かに空間を空けた。


「またよ、半年前は旦那さんが……」

 辺りから声が上がる。野次馬の肩越しに沼から引き上げられる人間が見えた。


 ふたりがかりで引き上げられた身体はマネキンのように強張っている。縮れた髪は今度こそずぶ濡れで、シャツには沼の泥が染みていた。

 甲斐だ。

 切間が呻く声が聞こえた。



 救急車が発車し、淀んだ沼の全貌が広がる。俺は息を呑んだ。


 沼の淵の苔むした石碑には「俤」と書かれていたはずだ。

 今は「甲斐」と彫り抜かれていた。何十年も前からある墓標のように。

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