一、俤の神

 俺が東京に着いた頃には夜だった。


 大勢の人間の熱気で外より蒸し暑い。身体に纏わりついたあの村の空気が剥がれるようで、俺は深く息をした。



「今日はお疲れ様。大収穫だったよ」

 改札を潜った凌子りょうこが俺に笑いかける。その笑顔が前より素直に受け取れなくなった。


「なあ、桑巣の神を利用するって本当かよ」

「まだ審査の段階だけどね。明日からの有給を資料作りに当てなくちゃ」

「休みの間も仕事か」

「研究職なんてそんなものだよ」



 凌子は歩き出す。呼び止めたら面倒な問答になるとわかっていたのに、俺は口を開いていた。


「守り神がいなくなったら、あの村はまずいんじゃねえか」

 凌子は目を丸くした。

烏有うゆうくんがそんなこと言うなんて意外ね」

 俺も驚いてる。もっと自分本位の人間だったはずだ。

「あの村なんか知らねえけどさ。神だ何だに手だしたら何が起こるか不安なんだよ」

 凌子は笑ったが、熱気で曇った眼鏡の奥の瞳は微動だにしなかった。


「私たちは既に神を利用してこの国を守っているんだよ」

「何?」

「昔、未来を教えてくれる領怪神犯がいてね。こんなにたくさんの神を見つけられているのはそのお陰」

 俺は絶句しながら何とか言葉を探した。

「昔って、今その神は……」


 ホームに滑り込んだ列車が大量のひとを吐き出して、辺りに喧騒が満ちた。


「その話は私が帰ったらね。これから忙しいの。帰省して親戚回りと夫のお墓参りもしなくちゃ」

 凌子の旦那、死んでるのか。初耳だった。

 対策本部のことも、中の奴らのことも、俺は何もしない。


 雑踏に消える前に、凌子は振り返った。

切間きるまくんも今日出張から戻るよ。待ってれば会えるかも」

「仕事終わりに何でアイツの顔見なきゃいけねえんだよ」



 待つ気なんかなかった。

 ホームのベンチに座り込んだのは疲れてたからだ。

 考えることは多いのに、俺の頭の容量が圧倒的に足りていない。

 電車から溢れるひとの奔流を足踏みで数え、数え切れなくてやめるのを繰り返し、終電も近くなったとき、見知った顔が銀の扉から吐き出された。



「烏有?」

 降車した切間は麦わら帽子の少女を抱き抱えていた。

「出張のついでに誘拐かよ!」

 脛を蹴られる鈍痛も久しぶりだ。全く嬉しくない。


 抱えられていた少女が、切間の腕をペチンと叩いた。

「お父さん、駄目でしょ」

 切間がたじろぐ。見たことのない表情だ。

「お父さん?」

「何が誘拐だ。家内が入院して、実家に娘を預けてたから連れ帰ってきたんだよ」


 なめし革みたいに日焼けした厳つい切間と、色白で大きな目の少女はどこも似ていない。だが、少女には見覚えがあった。この前、対策本部の廊下にいた子どもだ。俺は指さす。


宮木みやきれい!」

 少女は切間の腕から降りて、ちょこんとお辞儀した。切間が俺と娘を見比べる。

「知ってるのか?」

「ジュース奢ってくれたの」

 切間が信じられないという顔をした。こっちだって同じだ。


「嘘つけよ。全然似てねえし、名字が違えだろうが」

「似てなくて悪かったな。入婿だって言っただろ。面倒だから仕事では旧姓のままにしてる」

 宮木礼は大人しく俺たちを見上げていた。信じられないが、本当に父娘なのか。


 切間は溜息をつき、ネクタイを緩めた。

「……夕飯食ったか」

 俺は首を横に振る。

「ジュースの借りを返す。この時間じゃろくな店やってねえだろうけどな」

 切間は娘の手を引いてさっさと歩き出した。



 駅を出て、高架下に入る。

 一軒のラーメン屋が、点いている方が暗闇よりかえって虚しいような灯りで汚れた店構えを赤く染めていた。


「ここでいいな」

 切間と娘の礼は慣れた様子で暖簾を潜った。

「よく来んのか?」

「この時間に飲み屋以外でやってるのはここくらいだからな」


 奥の座席について、礼は大人びた表情で首を振って言った。

「居酒屋さんでもいいのに」

「子ども連れて入れるかよ」

 呆れながら娘を高い椅子に座らせる切間は父親の顔だった。



 油汚れでべたついたメニューを開く。

 他人の金で高いものを頼んでやろうという気は失せた。

 俺は無愛想な店主に醤油ラーメンと半チャーハンを頼むと、切間親子はラーメンしか頼まなかった。


「切間さんはあんま食わねえのか」

 やたらデカいくせにと付け加えるのはやめた。

「どうせこいつの余りが回ってくるからな」

「今日はちゃんと全部食べるもん」

 礼は頰を膨らます。こういうときは年相応のガキに見えた。



 切間は高い椅子で足をぶらつかせる礼の膝を軽く叩き、「危ないからやめろ」と言った。

 自分はしょっちゅう危ない化け物に首突っ込んでるくせに。


 すぐにラーメンが運ばれてきた。

 礼がチャーシュー一枚を箸で摘んで俺のスープに投げ込んだ。

「何だよ」

「ジュース、ありがとうございました」

 切間が溜息をつく。


「チャーシュー嫌いなだけだろ。ちゃんと食わないとでデカくなれないぞ」

「父ちゃんみたくなりたくねえんだろ、なあ?」

 テーブルの下で、切間が娘に見えないように俺の脛を蹴った。

 娘が似ていなくてよかった。暴力刑事がふたりもいたら堪らない。


 醤油スープは味が薄いし、チャーハンは油ぎっているが、礼は美味そうに湯気に顔を突っ込んでいた。

 切間は自分が食うのも忘れて、娘の顔を拭ったりしている。


 言った通り、礼はラーメンを半分残して父親に押しつけた。溜息混じりに伸びた麺を啜る切間を見て、俺は神々や対策本部について聞くのをやめた。


 こんな普通の父娘がいて、何事もない夏の深夜なのに、水面下で人間の手に負えない神が蠢いている。


「知りたくなかったな」

 俺のぼやきは切間たちには聞こえなかったようだった。



 ラーメン屋を出る頃には駅の明かりも消えていた。


 宮木礼は眠そうに目を擦る。切間が慣れた手つきで娘を背負うと、礼はスイッチを落としたように眠り出した。

 切間の肩に頬をぺったりとつけて目を閉じた少女は、鼻筋の辺りが父親に似ていると初めて思った。



 まばらなネオンを進みながら、俺は口を開ける。

「なあ、何で婿入りしようと思ったんだ?」

「名字を変えたかった」

「何?」

 切間はずり落ちた娘を背負い直した。

「俺の生まれは小さい漁村なんだが、だいぶろくでもないところだった。とっとと忘れたかったんだ」

 凌子も自分の名字は出自がわかりやすいから隠していると言っていた。


「その村って領怪神犯と関係あるか?」

「……ある」

「マジかよ」

「俺は村を離れたくて、警察学校に入って、刑事になった。それでも、離れられないもんだな。運命ってやつか」


 切間は誰もいないのに律儀に赤信号の前で足を止めた。生温かい夜風が工事現場にかかったブルーシートを揺らし、映り込んだネオンも揺れた。


 信号が変わり、切間が踏み出す。

「……俺が殺人課にいた頃、扱った事件のひとつが領怪神犯に関わるものだった。ただの変死として処理されるところだったが、俺には違うとわかった。それで、対策本部に目をつけられたんだ」

 俺はわざと声を上げて笑う。

「馬鹿だな、首突っ込まなきゃ無事でいられたのに」

「それはお前もだろ」

 切間は唇の端を軽く吊り上げて笑った。俺は舌打ちする。


 路地裏で煙草を吸っていた奴の煙が流れてきて、林立するビルに橋を渡した。煙草を吸いたいと思ったが、切間の背で眠る礼を思い出してやめた。



「宮木家は、」

 切間は言いかけて、しばらく迷った後言葉を続けた。

「対策本部の設立者だ。昔から国の神事に関わる由緒正しい家系らしい。俺も悔しくは知らないがな」

「婿入りしたのにか?」

「入婿の立場なんてそんなもんだ」

「……いいように利用されてんじゃねえの」

「かもな」

 切間はあっさりと認めた。


「どっちにしろ神を放置していたら事件が起こる。元刑事として見過ごせない。俺が走り回ってる限りは、嫁も娘も無事でいられる。それでいいんだよ」


 俺は対策本部で言い争う切間の背を思い出した。娘を負った背に、他のいろんなものを乗せて、得体の知れない連中や神と付き合っている。

 俺は記憶にもない父親の影を想像しようとしたが、

 できなかった。



 切間が三叉路で足を止めた。

「俺はこっちだ。烏有、お前は?」

「逆方向」

「じゃあな。と言ってもまた明日会うか」

「出張から帰ってすぐ仕事かよ」

「ほざくな、税金泥棒」

 切間は娘が寝ているのを確かめて、俺に言った。


「今度の神は『俤の神』だそうだ。詳しいことは明日話す」

「おもかげ……」


 俺が繰り返す間に、切間は踵を返して去った。


 三叉路の端には、取り壊されたビルが聳えていた。

 小さな自販機と夜間警備員の誘導灯が蛍のように輝く。


 東京と何も変わらないはずなのに、何も知らなかった頃とは別世界のように見えた。

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