序、俤の神
死んだひとに会えるんだって。
よくある話だよな。
都市伝説とか、学校の怪談でさ。
霊界に繋がる公衆電話に十円入れると死んだひとと話せるとか。深夜零時に鏡を見ると霊が映るとか。
最初は、うちの村の話もそういう類かと思ったよ。
でも、違うんだ。
うちの村のも嘘って言えばそうなんだけど本当なんだ。
村には沼がある。
浅くて淀んで、観光名所になる訳もない、誰も立ち入らないような沼だ。
そこに橋がかかってるんだ。大昔からある、腐りかけの吊り橋だよ。
そこに行くと、死んだひとに会える。
昔から伴侶に先立たれたり、子どもを亡くした大人がふらっと訪れて、村中騒ぎになって探しに行くこともあった。
幼稚園に入る前、身寄りのない村の爺さんが沼で死んだから、立ち寄るなって親から聞かされてたんだけどな。
高校最後の夏休みに、俺の同級生が家族旅行の帰り、事故に遭ったんだ。
車は大破して同級生と父親は軽傷だったけど、母親は駄目だったらしい。
うざいくらい明るい奴だったのに別人みたいに塞ぎ込んで、秋くらいから受験勉強もせずに、その橋に通い詰めるようになった。
少しは仲良かったから心配で話しかけたら、奴は「お袋に会えるんだ」って言った。
同級生の話だと、昔沼地に兄弟が住んでて、橋をかける最中に、弟が溺れて死んじまったんだって。
兄は毎日弟を想って橋を完成させた。弟は沼の守り神になって、兄を憐れんで橋を死者の世界と繋がるようにしてやったんだってさ。
伝承なんかまるで興味のない奴が滔々とそんな話をするからぞっとした。
信じなかったよ。いかれちまったんだと思った。
同級生はムキになって、見せてやるから来いと言った。
俺はその日の夜、同級生と一緒に沼に行った。
沼の端には古ぼけた石碑があって、「俤」って書いてあった。
昼間は汚いだけの沼に霧が立ち込めて、月が反射して、鏡面みたいに見えた。
その水鏡に、俺の弟が映ってたんだ。
驚いたよ。俺が小さい頃に海で死んじまった弟だった。
ずっと昔だったけど一目見てすぐわかった。
兄ちゃんって手を振って、抜けた乳歯もそのままだった。
同級生は真っ青になってる俺を見て、「ほらな」って顔をしてた。
俺にはそいつの母親は見えなかったけど。
それから、気がつくと示し合わせたようにふたりで沼に行った。
受験勉強なんか忘れてたよ。
冬になる手前、予備校に忘れ物をしたとか嘘をついて、夜また沼に行こうとしたときだった。
自転車を走らせてたら、厳しそうな顔したおっさんに呼び止められてさ。
話聞いたら、その同級生の父親だった。
最近息子の様子がおかしい。家にもろくに帰らずにフラフラしてる。何か知らないかって。
俺は沼のことを言うか迷った。
このひとも奥さんが死んだなら会いたいんじゃないかって。
でも、迷ってる間に、そのおっさんにとんでもないことを言われたんだ。
「事故がショックだったのはわかるけど、怪我をした母親をほったらかしてほっつき歩いてるのは我慢し難い」ってな。
死んだんじゃなかったのかよ。
そうしたら、おっさんの後ろからミイラみたいに顔を包帯でぐるぐる巻きにした女が出てきて、俺に会釈したんだ。
そうだよな。駄目だったとは聞いたけど、死んだとは言われてなかった。
じゃあ、同級生があの沼で会ってる母親って何なんだ。
俺は何も知らないけど事故がショックだったなら病院に見せた方がいいとか言い訳して、自転車を来た方に走らせて、一目散に帰った。
家に戻ってすぐ、箪笥の中のアルバムを全部ひっくり返した。
ないんだよ、弟の写ってる写真が一枚も。
悲しくて見てられないから捨てたにしたって、仏壇に遺影くらいないとおかしいだろ。
仏間には爺さん婆さんの遺影があるだけだった。
そういえば、沼で死んだ爺さんも身寄りがないって言っていたっけ。
そんな爺さんが面影に惹かれて溺れちまうような家族なんていたのかな。
わからない。
それから沼には行ってない。
同級生はそのうち引っ越して、俺は東京の大学に行くために上京した。
二度と戻らないつもりだったけど、親父の介護があって帰ってきたんだ。
最近、気がつくと仕事の帰りに沼の方に向かいかけてる。
弟がまだいる気がするんだ。
あの欠けた歯で兄ちゃんって呼んでるような気がして。
でも、弟なんて最初からいたのかな。
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