三、くわすの神
「くわすの神……?」
俺は繰り返す。老人は何を言っても無駄だという風に立ち去った。
後ろから影が差して、振り向くと鼻がぶつかりそうな距離に先生と呼ばれた男がいた。
「そちらの方は私に会いに都会から来てくださったそうですね」
血を溜めた洗面器から錆の匂いが鼻を突き、息が詰まった。
「初見の方は驚きますよね。ですが、効果はここの皆さんが補償してくれます」
村人が一斉に頷いた。
退こうと思ったが、凌子が俺の腕を掴んでそれを許さなかった。食い込む指が死人のように冷たい。
凌子は男に似た薄笑いを浮かべた。
「先生のそれは瀉血ですか?」
「瀉血?」と俺が耳打ちすると、凌子は「大昔の治療法。メスで切り付けたりはしないけどね」と答えた。
「少々違いますね。治療ではなく、あくまで手助けです」
「手助けとは『何』のですか?」
凌子は「誰の」とは言わなかった。男は笑みを絶やさない。
「ご説明が難しいのですが、お時間いただければはお話ししますよ」
「……甥の心の準備ができていないみたいで、今日は見学までにしますね」
やっと冷たい指が俺の腕から離れる。凌子と男は最後まで微笑んだままだ。化け物二体に挟み撃ちされた気分だった。
公民館を離れ、俺と凌子は桑の木が茂る道を進んだ。桑が日差しを遮って涼しかったが、まだ鳥肌が浮いている俺には太陽が恋しかった。
「烏有くん、何か見えた?」
凌子は正面を見据えたまま言う。指と同じくらい冷たい声だった。
「繭みたいなものが見えた。それから白い糸。先生っていう男に絡まってるみたいだった」
「やっぱり蚕か。でも、ここの神とあの新興宗教が密接に関わってるようには思えないな。偶々信仰の対象が似た村を選んだのかもしれないけど……」
桑の並木が途切れて暖かい日が差すと、用水路の脇に石積が連なっていた。
段々の石積は枯草と泥水を湛え、青いネットが沈んでいる。昔は棚田だったんだろう。
棚田の淵に、駅員の老人が座り込んでいた。
近寄ると、老人は黄ばんだ歯に煙草を挟んで俺を見上げた。
「またお前か」
「またあんたかよ」
「ジャリめ」
老人は煙を吐いて嘲笑う。男や凌子の笑みよりずっと自然だった。
「なあ、さっき言ってた『くわすの神』って何なんだ」
爺さんは黙り込んだ。煙だけが言葉の代わりに解けていく。しばらく経って老人は言った。
「余所者にはわかりゃしない」
「またそれかよ」
「本当にそうなんだ。俺たちだけわかってりゃいいんだ。他の奴がなんて言おうとな」
爺さんは咥え煙草で立ち上がった。凌子はその背を見送って言う。
「彼はくわすの神って言ったの?」
「意味わかんねえけどな。何かを食わすってことか?」
「……わからないことだらけ。なら、懐に飛び込まなくちゃね」
凌子の眼鏡に夕陽が反射した。
陽が沈んだ頃、俺と凌子はあの公民館の前にいた。
「公務員が不法侵入していいのかよ」
「公務員じゃなくても不法侵入は駄目」
凌子はさっさとプレハブ小屋の裏に回る。扉には錆びた南京錠がかかっていたが、凌子が外したヘアピンで弄るとすぐに開いた。
「俺より犯罪に慣れてねえか」
「お墨付きもらっちゃった。行こうか」
俺は諦めて凌子の後を追った。
暗闇の中でも屋根の上の繭は白い輝きを放って、月が落ちたように見えた。
凌子は懐中電灯を取り出した。公民館の中は異様だった。
狭い木造の廊下に駅で見た楕円のモチーフが所狭しと貼られている。それだけじゃない。
壁には血管のような赤い筋と絹糸のような白い筋が複雑に絡み、デカい生き物の体内の有様だった。
流石の凌子も青い顔をしている。俺以外にも見えてるってことだ。
奥から心音に似たどくんという響きが聞こえた。それに合わせて廊下の赤い筋が脈動した。
凌子は無言で足を進める。踏み出すたび足の裏に柔らかい感触が走り、靴から溢れる蚕の幻覚を思い出した。
凌子は奥の引き戸に手をかけた瞬間、俺の耳元でぞばっと何かが蠢く音がした。無数の白い虫が這いずり、廊下に糸引く絹が撓む。
俺が止めるより早く、凌子が引き戸を開け放った。
押し寄せた臭気と熱気に鼻を抑えた。
皮膚を剥がされた巨人。血肉で出来た観音像。
そう言うしかない。
天井に頭頂がつくデカさの人型はピンク色の肉を幾重にも連ねてできていた。剥き出しの血管がびくびくと動き、破れた部分から湯気と腐臭と共に血を噴き出している。
肉塊は壁中に蜘蛛の巣じみた毛細血管を張って鎮座していた。
「何だよ、これ……」
「こんばんは、三原先生」
場違いなほど落ち着いた声が響いた
懐中電灯の光が壁を舐め上げ、引き戸の方を照らす。
昼間、村人から血を集めていた男が立っていた。
来やがった。
俺は奴と距離を取ろうとしたが、背後の肉塊を思い出し、棒立ちになる。どっちに行って化け物だ。
少し遅れて奴が凌子の名字を読んだことに気づいた。
「久しぶりね。何で覚えているのかな」
凌子は鋼を弾いたような硬い声で言った。やっぱり知り合いなのか。
「人的措置を施したのに、ですか?」
男は細い目を歪めた。俺は耳に馴染みのない言葉を繰り返す。
「人的措置……?」
「そちらの方は何も知らないんですね。相変わらず悪どい。本物の親戚ではないでしょう」
俺は凌子を盗み見る。懐中電灯の反射が照らす横顔は月よりも冷たく白かった。
「あいつ誰だ。何の話をしてんだよ」
「彼はある村で領怪神犯を祀る神社の後継だったの。危険な神だったから対策本部が無力化したんだよ」
「貴女の組織の方がよほど危険だと思いますが」
男が血管の海に一歩踏み出した。
「三原先生ならわかると思って、ここの鍵を壊しておいたんです」
「あの楕円のモチーフとインチキな治療は君の村にいた神に似ていたものね。血を捧げた者によく似た人間もどきを作り、自らの信者にする『喰らう神』に」
背後の肉塊が湯気を上げ、生臭い熱気が首筋に触れた。
俺は怖気を振り払って声を出す。
「でも、病気が治ったって……」
「治してないよ。彼は喰らう神に血を捧げて村人のコピーを作っただけ。本物は殺したのかな?」
「村の皆は彼らが入れ替わったことに気づきませんでした。平和的に唯一の神を祀る、より良い集団を作れる。どこが悪神なのでしょう」
俺は言葉を失った。
「君はこの村で、名前が似たくわすの神の信仰を奪って、喰らう神を作りに来たのね?」
「信仰は神が作る。三原先生が仰ったことです」
壁中の血管が蛇のように畝り出す。肉塊がゆっくりと身をもたげた。
俺たちをどうにかする気か。
筋組織と血管が悲惨な音を立てて裂け、腐敗した血が降り注ぐ。口のない肉塊が悲鳴代わりの湯気を噴出した。
俺が見てきたどんな物とも違う。俺は思わず呟いていた。
「こんな不気味で虚しいもんが神でたまるか」
その瞬間、血肉の赤い筋が白で塗り潰された。
光が射したと錯覚するような絹糸が渦巻き、肉塊を絡め取る。
男の足元にしゅるりと糸が忍び寄った。男はあっ、と呟いた。
瞬く間に男と肉塊を包んだ糸は繭を作り、ぎゅっと収束して、消えた。
壁の血管も、肉の化け物も、男の姿もない。
辺りは古い畳と積んだ座布団があるだけの公民館の広間でしかなかった。夢でも見たみたいだ。
「あいつらは……?」
懐中電灯が凌子の手から落ち、床を照らした。畳に小さな軽い繭玉がいくつか転がっている。
俺と凌子は呆然と立ち尽くしていると、窓を影が横切った。つるりとした繭型の何かが屋根から降りていく。
俺と凌子は外に飛び出したが、もう何もいなかった。屋根の上の繭もない。
「あれがくわすの神だったのか……?」
「そうだ」
俺の呟きに嗄れた声が応えた。
心臓が口から飛び出すかと思った。藍染のシャツの老人が立っている。
「ついてきていたんですか?」
凌子の問いに老人は首をもたげた。
「あんたらにじゃない。うちの神様にだ」
爺さんは遠くを見つめた。
「くわすは桑に巣食うと書くんだよ。蚕の神様だ。昔からこの村にまずくなって手に負えないってとき降りてきて、繭に包んで全部持ち去ってくれるんだ」
「だから……」
あの男も肉の化け物も消えたのか。
「くわすの神はどこへ行ったんですか?」
「さあな。事が済むとすぐ消えちまう。合わす顔がないと思ってるのかもな」
「何故?」
「消すことはできても治すことはできねえからさ。そういう真面目な神様だ。悪く言う奴もいるが、俺らだけわかってりゃいいんだ」
あの神は何の見返りも求めず、村の危機を退けて去った。それとも爺さんの信心で充分なのか。桑の葉を対価に、飼い主に貴重な絹を遺して命を終える蚕みたいに謙虚だ。
濃紺の闇の中に、星と月を受けて輝く白糸だけが残っていた。
街灯ひとつない畦道を足を引き摺って進む。おかしくなりそうな静けさに、俺は大きく息を吐いた。
「いろんなことがありすぎて、でも、何にもしてねえような感じもする……」
「今回は翻弄されたね」
「神が相手じゃしょうがねえか」
「でも、収穫はあったよ。桑巣の神は善良で対価も少なく強力。上手く使えれば悪神の排除に使えるかも」
凌子の声はくたびれていたが力強かった。
異端の男、猟奇的な怪物。桑巣の神。少し間違えば俺たちはその衝突ですり潰されていたかもしれないのに、よくそう言えるもんだ。
「触らぬ神に祟りなし、じゃねえかな」
凌子は頬を緩めてくすりと笑った。
「触らなきゃ何もしない神様だけならいいけどね。早く帰って報告しなきゃ」
早く帰りたいのだけは同意だった。
駅に辿り着くと、やっと明かりが見える。掲示板のあの広告は引き剥がされていた。駅員の爺さんがやったんだろう。
駅は封鎖されておらず、すんなり入れた。
もしかしたら、爺さんの配慮だろうか。何でもいい。俺は駅のベンチに座り込んだ。
始発まで時間がある。悍ましい記憶も、山ほどある疑問も考えずに眠りたい。
隣に腰掛けた凌子が小さく息を漏らした。
鮮烈な朝日が村の傾斜地を段々に照らし出した。
枯れた棚田も鮮やかな橙に輝き、無数の鏡面のようで、何の役にも立たず、救いにもならない美しさだった。
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